どこでどんな風にして、そのブログにたどり着いたのかについては、
まったく記憶がないのだが、気が付いたら
「杉原梨江子」という名前の方のブログだった。
「木精占い」とかいうのだったと思うのだが、木や花といった
植物と話ができるというのである。
私は以前、センサーを付けた大根が包丁で切られるとき、
「ギャー」とか、悲鳴に近い音を出してセンサーの針が
大きくぶれるのを見たことがある。
以来植物にも感情があるんだ…と確信を持っているのだが、
これはただこの実験を見てそう思ったのではなく、
以前からそんな感じを抱いていたのだ。
このブログによると、例えば植物もペットと同じように
植木に名前を付けてあげようとか、植物は淋しがりやなので、
常に話しかけたり、さわってあげるとよろこんで花ならきれいに、
観葉植物なら鮮やかな緑に、とかがやいてくれるというのである。
以前このブログでも「花とおじさん」シリーズを書いたことが
あるように、私は知らず知らずのうちに、こんな様なことを
実践していたのである。
丁度いま玄関のドアを開けてすぐのとこに、キンセンカが鮮やかな
オレンジ色で咲いている。まだ蕾もたくさんあってこれから…というところだ。
そこで、早速出掛けには「おおきれいだなあ、」と言ってから、
「行って来ま~す」と声を掛けて行き、帰って来たら、「ただいま~」
と言って身をかがめるように覗き込んであいさつするようにした。
心なしか一層花にツヤが出たような気がしている。
杉原さんは言う。「ペットは人が看取り、植物は人を看取る」と。
考えてみると人類より以前から存在していた植物は、いわば
この世に生を受けた大先輩なのだ。
この大いなる隣人に敬意を表して接するのは当然なのかもしれない。
今キンセンカの近くでは、アジサイが芽を出して花を
開くのを待っている。
「きれいな花を咲かせてよ」とすでに声を掛けて待っているのだ…。
まったく記憶がないのだが、気が付いたら
「杉原梨江子」という名前の方のブログだった。
「木精占い」とかいうのだったと思うのだが、木や花といった
植物と話ができるというのである。
私は以前、センサーを付けた大根が包丁で切られるとき、
「ギャー」とか、悲鳴に近い音を出してセンサーの針が
大きくぶれるのを見たことがある。
以来植物にも感情があるんだ…と確信を持っているのだが、
これはただこの実験を見てそう思ったのではなく、
以前からそんな感じを抱いていたのだ。
このブログによると、例えば植物もペットと同じように
植木に名前を付けてあげようとか、植物は淋しがりやなので、
常に話しかけたり、さわってあげるとよろこんで花ならきれいに、
観葉植物なら鮮やかな緑に、とかがやいてくれるというのである。
以前このブログでも「花とおじさん」シリーズを書いたことが
あるように、私は知らず知らずのうちに、こんな様なことを
実践していたのである。
丁度いま玄関のドアを開けてすぐのとこに、キンセンカが鮮やかな
オレンジ色で咲いている。まだ蕾もたくさんあってこれから…というところだ。
そこで、早速出掛けには「おおきれいだなあ、」と言ってから、
「行って来ま~す」と声を掛けて行き、帰って来たら、「ただいま~」
と言って身をかがめるように覗き込んであいさつするようにした。
心なしか一層花にツヤが出たような気がしている。
杉原さんは言う。「ペットは人が看取り、植物は人を看取る」と。
考えてみると人類より以前から存在していた植物は、いわば
この世に生を受けた大先輩なのだ。
この大いなる隣人に敬意を表して接するのは当然なのかもしれない。
今キンセンカの近くでは、アジサイが芽を出して花を
開くのを待っている。
「きれいな花を咲かせてよ」とすでに声を掛けて待っているのだ…。
思っていたので、ジッと花を見るのが
妙に照れくさかったものです。
しかしある時、そのどうどうと生殖器を
かざす花の潔さにむしろ感動を覚えるように
なったのです。
以来花を見るときは、一匹の蜂になったものです。
今はまたちょっと違った接し方になりましたが、
蜂の心は内包しています。