何かの作品には、それぞれ、出来栄えを判断する
基準があると思う。
というのも、今、自分の作った俳句を整理
していて、どの俳句を残すのか、ふと、その
基準について考えてしまったのだ。
自分の絵については、明確とは言えないが、
形として、割とハッキリしたものがあるのだ。
それは、落款である。
絵が仕上がった時に、改めて観て、落款が
打てたものは、作品として発表に値すると、
自分が判断したものなのだ。
つまり、合格点を与えた事になる。
したがって、絵の展示作品には、必ず
落款が打たれているのである。
しかし、では何を基準に落款を打つのか、
と言われると、自己評価としか言えない
のが、現状なのだ。
では、俳句はどうなのか?とふと、考えて
しまったのだ。
当然、基本は自己評価なのだが、多分俳句賞
などの選考ならば、きっちり五・七・五に
なっているか、季語が生かされているか、など
の厳然たる基準の元に、審査員の好き嫌い、
感覚、俳句としての品格、などを加味して、
採点などされるのだろうと思う。
しかし、自分の俳句の自己採点となると、
少なくとも、私の場合は、感覚中心になって
しまうのはやむを得ないと思っている。
例えば、「その蛇は 屋敷守だで 殺めなや」
という我が一句があるのだが、これは、会社の
大掃除をしていた時に、会社の床下から蛇が
出てきたのである。
それを、みんなでやっつけようとしていた時に、
発した、パートのおばさんの言葉を、そのまま
俳句にしたものだが、自分としては、是非残したい
一句なのだ。
蛇が夏の季語で五・7・五に収まっているので、
問題はないのだが、俳句としての品格があるのか
と問われれば、ウーム…となってしまうので、賞
などでは、はねられる運命なのだろうと思う。
もちろん、自分の俳句なので、好きにすればいいのだが、
ふと、残したいのは…と考えてしまったのである。
そんな時、とても大事な尺度に気づいたのだ。
それは、「驚き!」なのである。
これは、絵にも当てはまるのだが、完成した時に、
一種の驚きがあるかないか、でグレードがグッと
上がるのである。
ただ…驚きがあるのは、ほんの数点ほどなので、
ほぼベスト3内に入ってしまうと思うのだ。
これでは、記録としてあまりにも寂しいので、
もっとグレードを下げて、小さな驚きを見つけたい
と思った次第です。
先の、蛇の句にはこの小さな驚きを感じたのです。
基準があると思う。
というのも、今、自分の作った俳句を整理
していて、どの俳句を残すのか、ふと、その
基準について考えてしまったのだ。
自分の絵については、明確とは言えないが、
形として、割とハッキリしたものがあるのだ。
それは、落款である。
絵が仕上がった時に、改めて観て、落款が
打てたものは、作品として発表に値すると、
自分が判断したものなのだ。
つまり、合格点を与えた事になる。
したがって、絵の展示作品には、必ず
落款が打たれているのである。
しかし、では何を基準に落款を打つのか、
と言われると、自己評価としか言えない
のが、現状なのだ。
では、俳句はどうなのか?とふと、考えて
しまったのだ。
当然、基本は自己評価なのだが、多分俳句賞
などの選考ならば、きっちり五・七・五に
なっているか、季語が生かされているか、など
の厳然たる基準の元に、審査員の好き嫌い、
感覚、俳句としての品格、などを加味して、
採点などされるのだろうと思う。
しかし、自分の俳句の自己採点となると、
少なくとも、私の場合は、感覚中心になって
しまうのはやむを得ないと思っている。
例えば、「その蛇は 屋敷守だで 殺めなや」
という我が一句があるのだが、これは、会社の
大掃除をしていた時に、会社の床下から蛇が
出てきたのである。
それを、みんなでやっつけようとしていた時に、
発した、パートのおばさんの言葉を、そのまま
俳句にしたものだが、自分としては、是非残したい
一句なのだ。
蛇が夏の季語で五・7・五に収まっているので、
問題はないのだが、俳句としての品格があるのか
と問われれば、ウーム…となってしまうので、賞
などでは、はねられる運命なのだろうと思う。
もちろん、自分の俳句なので、好きにすればいいのだが、
ふと、残したいのは…と考えてしまったのである。
そんな時、とても大事な尺度に気づいたのだ。
それは、「驚き!」なのである。
これは、絵にも当てはまるのだが、完成した時に、
一種の驚きがあるかないか、でグレードがグッと
上がるのである。
ただ…驚きがあるのは、ほんの数点ほどなので、
ほぼベスト3内に入ってしまうと思うのだ。
これでは、記録としてあまりにも寂しいので、
もっとグレードを下げて、小さな驚きを見つけたい
と思った次第です。
先の、蛇の句にはこの小さな驚きを感じたのです。