住めば公園風田舎町

「住めば都」と言われるがわたしゃ田舎の方がいい。町全体が公園のようなそんな田舎町に住みたい。

299 『もしも徐福が日本に来ていたら』 (4)

2007-03-30 09:30:59 | もしも、徐福が日本に来ていたら
もしも、徐福が日本に来ていたらの
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ー徐福の第2回航海ー

299-1 古代の船
 293話では、大型の内航用の平底舟で出帆したであろうと書いた。
 徐福より1500年も後の元寇でさえ、多くの平底船が使われたらしいので、徐福の時代は当然平底舟だろうと想像した。
 その後調査してみると、始皇帝の時代驚くほど船は発達していることが分かった。
 
 紀元前の東洋の舟は丸木舟や筏という通説があるが、古代を侮っている。
 中国では秦の始皇帝の時代には楼船と言って、2階建て3階建ての船が登場していたのである。
 始皇帝の時代には楚の国を攻めるのに50万石の兵糧を運ぶ輸送船団が組織された。500石(75トン)の船なら1000隻である1000石船なら500隻である。
 また、始皇帝は国を巡回するのに、船を用いた。重要な都市は内陸にあるが、ほとんどが大河の川岸である。水運が発達しているから都市になる。揚子江や黄河の流域に旅するには海を経て河口から遡った。
 当時の楼船は、主に戦争用に作られたと思われるが、三階建てで、一階は庵と呼ばれ、小さい部屋に分かれていた。二階は飛庵と呼ばれ将官や士官が使用した。
 三階は雀室と呼ばれた。麻雀をしていたわけではない。そこは言わば見張り台で、沢山の下士官が両舷の窓から、見張りをしていたので雀が群れているように見えたところから呼ばれるようになったのであろう。
 甲板には沢山の兵隊が行き来したり、多くの物資を運ぶ広さがあり、騎馬でも通れたという。
平底船でもただの平底船ではなかったのである。
299-2 徐福のパイオニア精神
 良家の子女を預かって、しかも始皇帝の使いとして出向くのである。始皇帝の権威を保ち国威を示すために十分な準備がなされたに違いない。
 短期間にする準備とはいえ、始皇帝の命令が下れば、新たに建造しなくても、すでに存在する楼船を30隻揃えるくらい容易だったかもしれない。
 調達された軍隊や部署では不満もあったろうが、代わりに新造船を造って与えられるなら文句はあるまい。自分等の大事な息子や娘を預けることになったものたちにとっては、喜んで最善の準備をしてやる気になったのではあるまいか。
良家の童男女3000人という発想は、こういう効果があることを徐福は読んでいたに違いない。

 徐福は、朝鮮半島を知るものや、高麗人などの水夫や商人などを探して数名乗船させただろう。朝鮮半島の言葉が分かるものがおれば、朝鮮半島に着いたときに通訳として有用だからである。
 朝鮮半島は中国と陸続きである。航路はすでに開けていた。黄海を巡回する海流は概ね反時計回りである。朝鮮半島から中国に向う時は、沿岸を潮流に乗っておれば中国に向うことは出来る。
 小型の船はそういう航路を取ったであろう。
 どの方角に向って航海したかは、太陽を見れば分かるから、航海したことのある人の話を聞けば、朝鮮半島が琅邪から見てほぼ東にあることは誰でも認識できていたに違いない。
 
反対に中国から朝鮮半島に向うには、沿岸航路を取れば潮流に逆らって航海することになるが、港々で交易をしたり食料や物資の補給、休息をしながら航海することが常識で、何もない海の真ん中を、危険を冒して突っ切る航路など、あまり意味がなく開拓など考える人は居なかっただろう。朝鮮半島の先端に大国があったり、貴重な産物が取れれば別であるが。
当時はまだ開けていなかった。
しかし、徐福は二つ理由で黄海を突っ切って朝鮮半島の先端付近に行くことにした。

一つ目の理由は新しい航路を開くということである。

徐福には自信があった。第一回の航海で、毎日日記を書き、旅の旅程も書いていたからおおよその地図は出来ていた。朝鮮半島の先端が琅邪からどの方角で何日ぐらいの航海で行けるか計算できていたのである。
それを確かめたかったのである。

第二の理由は時間と金の節約である。

すでに朝鮮半島の情報は承知しているから、一度通ったところをまた通る必要はなかった。
時間を節約したいわけは、新しい新天地に落ち着いて早く種まきしないと食料に困ることになる。まだまだ行った先で何があるか分からない。とにかく大集団の命も預かっているのである。
財宝はいくら持っていても多すぎるということはない、行った天地で有効に使いたかった。少しでも途中で減らしたくはなかった。場合によっては帰るために役立てねばならないのだから。

早く落ち着く先を見出さねばならない。
もし、朝鮮半島に到着すればそれはそれでよし、そこで食料など必要な物資を補給して先に進める。
もし、直接東の海に出てもその先それほど航海せずとも、蓬莱に行けるという自信はあった。第一回の旅行の記憶はまだまだ生々しかった。

 かくて徐福は未知の天地に向うため、自分自身と多くの若者たちの人生を賭けて、誰も行ったことのない未知の海に向って乗り出して行った。

 それはスペイン女王イサベラ援助を受けて、インドへの新航路を開こうと航海に出たコロンブスにも通じるパイオニアの心境であったろう。
 否、コロンブスが徐福の心境であったというべきか。徐福のほうが1700年も古いのだから。