まとめて読みたい方は、上の「もしも、徐福が、、、(カテゴリー)」↑ をクリックしてください。 目次は、ここをクリックしてください。 | |
407 仲哀天皇と神功皇后、崗浦、崗津、崗湊 ★08仲哀天皇八年(己卯199)正月壬午《四》 すなわち、120年加えてAD319年1月4日に、仲哀天皇は山鹿の岬を廻って崗浦に入ったところまで前回記した。 到水門御船不得進。則問熊鰐曰。朕聞。汝熊鰐者有明心以參來。何船不進。 水門に至って御船は進み得ず。熊鰐(くまわに)に問われた。「朕は、なんじ熊鰐は明るい心(水路によく通じているということであろう)有するが故に参じ来たったと聞いているが、何故船が進まないのか。」 熊鰐奏之曰。御船所以不得進者。非臣罪。是浦口有男女二神。男神曰大倉主。女神曰菟夫羅媛。必是神之心歟。 熊鰐は申し上げた「御船が進み得ない原因は臣の罪ではありません。この浦の口には男女二柱の神があります。男神は大倉主(おおくらぬし)、女神は菟夫羅媛(つぶらひめ)といいます。これはきっとその神の所為でしょう。」 天皇則祷祈之。以挾抄者倭國菟田人伊賀彦爲祝令祭。則船得進。 天皇祈られた。挾抄(かじとり)の倭國菟田人伊賀彦(わこくつだのひといがひこ)を祝(神官職の一つ)となして祭らせた。 すなわち、船進むを得たり。 皇后別船自洞海〈洞。此云久岐。〉入之。潮涸不得進。時熊鰐更還之。自洞奉迎皇后。 皇后の船は、洞海(くきのうみ)より入った。潮(しお)涸(か)れて進むを得ず。時に熊鰐再び還(かえ)して、洞(くき)より皇后を迎え奉(たてまつ)る。 則見御船不進。惶懼之。忽作魚沼鳥池。悉聚魚鳥。皇后看是魚鳥之遊而忿心稍解。及潮滿即泊于崗津。 御船進まざるを見てお怒りを恐れ、直ぐに魚沼鳥池を作ってことごとく魚や鳥を集めた。皇后はこの魚や鳥の遊ぶを見て、お怒りの心をやや解かれた。 潮が満ちてきたので、(進み得て)崗津に到着された。 仲哀天皇は遠賀川の河口を逆上ろうとして、丁度引潮のため遡ることができなかったのであろう。 また、神功皇后は洞海湾の奥から遠賀川の方に抜けようとしたが、ここでは潮が引いていたため、浅くなりすぎて遠賀川の方に勧めなかったのだと思われる。 洞海湾の奥と遠賀川とは現在でもこれをつなぐ江川という水路がある。この水は潮の満ち干に伴って一日に何度も流れの方向を変える。 昔も今ほど整備されてなくても、水路があって船が通れたのだと思われる。 ただし、干潮時には浅くなりすぎて通れなかったのであろう。 江川が遠賀川に流れ込む辺りは、川幅が河口より広く、また響灘の荒波もここまでは届かず、停泊地として優れていたと思われる。 また、唐津街道も通っており、大昔から交通の要衝であった。 地図はlivedoor提供のものを使用させていただいた。 |