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399 徐福の年齢と訪印説 徐福は何歳で日本来たのか、それによって日本での活動期間を推定できる。 先日、佐賀の徐福の里を尋ねた時、徐福は始皇帝より12~13才年長だったと言われていることを知った。 あるいは、徐福は日本に来る前に、インドなどへの行ってことがあると聞いた。 それらの情報は何に書かれているのだろうか? ウイキペディアの始皇帝の部分を引用する。 始皇帝(しこうてい、紀元前259年1月 - 紀元前210年7月)は、中国秦の王ないし皇帝。姓は?(えい)、諱は政(せい)。現代中国語では、始皇帝(シーホワンディー、Sh? Huangdi)または秦始皇(チンシーホワン、Qin Sh? Huang)という。 もともと秦の王であり、紀元前246年 - 紀元前210年の間在位して初めて中国を統一し、紀元前221年から中国史上はじめて皇帝と称した。 始皇帝は、父荘襄王が死に、13歳で即位した。 即位した年がBC246年であるから、徐福はこのとき26歳だったことになる。 BC219年の第一回目の航海の時、徐福は53歳だったことになる。 更に童男女をつれて再度の訪日を果たした時、BC210年には62歳だったことになる。 62才まで元気で生きてきた人が更に20年生きるのは、それほど難しいことではない。 しかし、生きて力強い働きが出来たのは80歳前後までと見ておく。 BC190年後に亡くなった可能性が高い。 次に徐福の訪印説だ。 これは富士徐福伝説というものがある。 引用すると、 徐福は天竺に行き、仏学を7年学び、秦王に仕え勲功があったので官位の昇進が目覚しかった。 調べてみると中国に仏教が伝わったのは、徐福よりずっと後のBC2年と言うことになっている。 下記のサイトを参照した。 仏教の流れ~インドから日本へ~ vol.033 BC126年に、はじめて中国から大月氏国へ使者が派遣されて、後にシルクロードなるルートが開かれた。 BC2年に、漢の景盧<けいろ>が、大月氏国の王の使者である伊存<いそん>から、仏教を口頭で伝えられたと言う記録があります。これが中国への仏教の初伝 とされています。 中国の皇帝で、初めて仏教を信仰したのは後漢の桓帝<かんてい>(在位:147~167)です。それは2世紀半ばのことです。桓帝は、黄帝・老子・仏を祀った祠を宮中に建てたのです。 このようなことから、徐福が仏教を学んで帰って始皇帝に仕えて、その知識で昇進いちじるしかったと言うのはありえないことでしょう。 船でも陸でもインドに行く道がないし、徐福にその動機もないのですから。 富士吉田に伝わる徐福文書は一般に偽書とされているようです。 |