まとめて読みたい方は、上の「もしも、徐福が、、、(カテゴリー)」↑ をクリックしてください。 目次は、ここをクリックしてください。 | |
405 七枝刀と神功皇后(2) | |
神功皇后の伝説は西日本の各地にある。また古事記、日本書紀にも記述は多い。 しかし、あまりに華々しい活躍ぶりに、実在しないと考える学者も多いようだ。 その根拠は、朝鮮半島の記録との矛盾があるからだ。 それが、上の図だ。 図の文は関係の所だけ抜粋している。詳しく前後を読みたい方は、それぞれの史料を参照されたい。 好太王碑 神功皇后52年条 七枝刀の銘 年号と干支年の照合 神功皇后摂政3~13年の記述 これら5つが物証である。 これを矛盾なく説明できればよいのだ。 未だかって、だれも、これを解いたものは居ない。 だがguuchanは解いた。 1.まず広開土王(好太王)碑の記述との矛盾。 好太王碑は古代史獺祭主人さんおサイトを参照ください。 このレポートでも博物館は碑の6年を396年としているが、その根拠は? この六年とは中国の高句麗と関係の深かった前涼という王朝の元号永楽六年のことで、AD351年になる。このとき好太王は百済軍を破って朝貢させ復民させている。 碑の漢文は連続して書かれているのでどこで切るかわからない。 この記事の直前に「辛卯に倭が海を渡ってやってきて、(高句麗に朝貢していた)旧属民だった百済新羅を破って倭の臣民とした。 とある。」 この辛卯を391年の辛卯に解釈しようとするからおかしなことになる。 永楽6年より前の辛卯は、その60年前のAD331年である。 日本書紀の神功皇后の摂政3年(203)に続いて 5年のところに新羅に詣で、次いで蹈鞴津において、草羅城を抜いて還る。 203年に120を加えると323年になる。摂政5年は325年だ。 次の記述は摂政13年(213+120=333)だ。 つまり、AD325年から332までのことが、325年のところに書かれていると考えて良い。 というのは戦争が一日で終わるものではない。 AD325年に、新羅が日本に人質に差し出していた王子が、滞在が長くなって、世継ぎも生まれず困っているというので、これを送り返す途中で、対馬に来た時、逃亡した。 新羅から迎えに来ていた遣いが密かに船を用意してそうさせたのだ。 それで、新羅に行くことになった。 一艘の船で、出かけるなら直ぐにでも出かけられようが、戦の用意をしていくとなれば準備が要る。 軍船を多数用意し、兵を集め訓練して行くとなれば数年の準備をして当然だ。 辛卯(AD331)年はこの間にある。 ただし、神郷皇后紀では、新羅に行って新羅を降伏させ、その軍に適わないとして、百済、高麗も降伏したとする記述はAD320年のところに詳しく出ている。 この年は仲哀天皇が亡くなり、妊娠中でもあり、自ら軍を率いて海を渡り戦争をするなどは無理ではないか?。 七枝刀について 太和という年号は二つある。 太和4年(AD331)後趙(魏) 太和4年(AD369)東晋王朝元号 実のところ後趙の太和元号は3年までだ。 しかし、中国で後趙が滅んで次の王朝が立ったとしても、百済までそれが伝わってくるには時間ががかる。 331年に百済が倭の臣民になったとしたら、それを記念して作成させ倭王に献じようとして作成した刀が、太和4年と刻まれていても当然かもしれない。 刀身だけでなく、細工を施した鞘も作ろうとすれば時間も要しただろう。 しかし、その刀が完成した後で、太和四年という元号がないことが判明した。 これを倭王に献ずるべきかどうか、議論されたであろう。 素直に喜ばれれば良いが、その歴史的な年を記した年号が存在しない物であったでは格好が付かない。 ご機嫌をそこね使者の首をはねられるかもしれない。 そこで、これを贈ることは中止された。 その後、五十年もたった後であれば、そのことを記念した刀を宝の一つとして贈ることは問題なかろうと考えられた。 太和四年という年号にも気が付くまいと考えたかも知れぬし、たとえ気付いたとしても50年もたった後のことであるから問題にもなるまいと考えた。 そこで、372年に献ぜられたと考えられる。 少し長くなったが、guuchan説、納得されただろうか? 図と見比べながら二度三度繰り返して読んでいただければ納得が行くと思われる。 |