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406 仲哀天皇と神功皇后 日本書紀巻9の神功皇后の記録は120加えると正しい年代になることが分かった。 その前は同だろうか? ついでに、神功皇后の夫である巻8仲哀天皇の記録を碑石と比較するとこれも一致していることが分かった。 仲哀天皇の薨去が320年か319年かでは次の品陀和氣命の出生と大きな関係があるのだがそれはここでは触れない。
表の緑色の部分は、池田仁三氏が調査した古墳や神社の近くで発見された石碑の文だ。 日本書紀のそれと比べると、成務天皇以前で違いが大きくなっている。 日本書紀の記録には百歳以上が増えて来るが、碑石の方は百歳以上は無い。 日本書紀は西暦より660年古いところに神武天皇の即位を定めてそれに辻褄を合わせようとした。 そのための粉飾があることを物語っているとguuchanは思う。 日本書紀と碑石は中哀天皇以後ではほぼ一致している。 日本書紀によれば、仲哀天皇は、AD312年に45歳で即位した。 皇太子時代に妃はあったのだが、即位後のAD313年正月に息長帶比賣命と結婚して皇后とした。神功皇后である。 同年3月に仲哀天皇は皇后らと角鹿(つぬが、現在の敦賀)に幸(ゆ)き、そこに皇后や女性らを留めて、自分は数名の卿と数百人の警護のみを従えて、紀の国に狩に行った。 このとき、熊襲が叛いて朝廷に貢がずという報せが入った。 仲哀天皇は、皇后に使いを遣わして「角鹿より発(た)て、穴門(長門)で」逢おうと伝え、紀の国から穴門に向った。 同年6月10日仲哀天皇は豊浦津に泊まり(到着)、皇后は渟田門(ぬたのと、敦賀の近くとも、出雲とも、また安芸の沼田(ぬた)郡とも伝えられている)。船上で食事をしていた時、船の周りに鯛が集まったので、酒を振りまくと腹を上に浮いたので沢山獲った。 以来その土地では6月になると鯛が酔ったようになって浮く。 安芸の沼田郡では、6月ではないが3月に今でも鯛が浮く現象が見られるらしい。 敦賀や出雲の辺りではどうだろう。 7月5日皇后も豊浦に泊まる(到着)。 9月穴門に宮を興して住む。穴門豊浦宮(現在の下関市長府忌宮辺りらしい) 319年筑紫に行かれた。 岡の縣主の祖(おや)熊鰐(くまわに)は天皇之車駕と聞いて、あらかじめ500枝の賢木(さかき)を九尋船の舳(へさき)に立てて、上枝に白銅鏡、中枝に十握釼、下枝に掛八尺瓊を掛けて周芳の沙麼之浦に参り迎え魚塩を献上した。 熊鰐に導かれて山鹿の崎を廻って崗浦に入る。 周芳の沙麼之浦はどこか分からない。下関に沙麼之浦(サマノウラ、サバノウラ)に似た音の海岸は無いだろうか? あるいは、関門海峡そのものだったり? 昔、鯖がよく獲れたとかとか? 今は危なくて漁業は出来ないが、昔は潮流が早いので、今の関鯖のように美味しい鯖が取れたかもしれませんね。 山鹿の岬を廻って入るとなると、崗浦は遠賀川の河口より1~2km上流の川幅の広くなった辺りを言いそうだ。神武天皇の芦屋の岡湊である。 |