国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されて いる竹原へ向かいました。
家族がまだ行ったことがなく、わたしは二度目の訪問ですが、恥ずかしながらここが製塩業で昔は栄えた町であったことを今回知りました。
頼山陽の父の春水や親戚がいた町であり、頼山陽自身は大阪江戸堀生まれ。
また、竹原の生まれのウイスキー造りで有名な竹鶴政孝の生まれ故郷であります。
しかし、なぜ、この地に頼山陽の銅像が建てられたのかと言えば、明治と言う国家思想の基盤は、この頼山陽の学問的な著述から構築されたようなものらしいのですが、頭のよくない自分には理解できないので、余計なことは書けません。
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戦前はその著述が江戸後期からベストセラーになり、有名な人でしたが、戦後はただの尊王思想家として見なされて以来、歴史の中に埋もれてしまったようです。詳細は不明です。
わたしがあれこれまた勘違いして間違ったことを書いてはいけないので、よく知らないことを明記した上で、思想とは離れて、赤穂の塩田技術を採り入れて、昔はこの地帯はずっと塩田であったものの、後に道工家の新興商人の出現を得て現在に至りました。
そして、頼家は、その豊かな経済力の家から頭角を現した学問の家となりました。今も竹原の誇りだと言われています。
さて、竹原で有名なもう一人と言えば、サントリーの創業の匠であり、その後ニッカウヰスキーの創業者になった竹鶴政孝の生家がありました。親戚は今も日本酒の居酒屋を開いていて、政孝さんは竹原を去って、小樽で新しい酒造りをイギリス人の奥さんと始めた、「革新的な開拓者」だったのかも知れません。
一方、頼山陽は漢文が凄く、わたしはついていけない・・・・・だからこれ以上は書けないので、ただ、建築物をご覧 いただくことで旅の雰囲気を味わってください。
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左は、竹原歴史民俗資料館。昔は、「竹原書院」という郷塾があったところで、竹原の町人文化の学問所だったのです。
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これから、山陽の祖父の頼惟清(これすが)の紺屋の屋敷と、御庭をご紹介します。頼山陽にとって、この竹原は、心の故郷であったようです。
都会に出てしまい、ここに帰ると都会の塵にまみれた自分が恥ずかしく、ここで心身洗われ、すがすがしい山を仰ぐ・・・・というような内容が碑に刻まれていました。
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次は竹原の文化を伝える役割を果たした照蓮寺です。
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小早川隆景が幼児の学問所であった照蓮寺に寄進した高麗鐘もあって、静かな浄土真宗の御寺。
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西方寺は浄土宗。狭い階段をどんどん昇っていくと、小早川隆景が、京都の清水寺を模した普明閣が右手にありました。
この高い場所から見降ろした竹原の町並みは壮観です。
普明閣には木造十一面観音立像が安置されているそうです。
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竹原の誇りの頼山陽がどういう人物かわたしにはまだわかりませんが、おもしろいエピソードがあります。しかめっつらしい学者ではなく、漢詩を教えるのにこういう俗謡を学生に披露しました。
京の四条の 糸屋の娘 (起句)
姉は十六 妹は十四 (承句)
諸国大名は 弓矢で殺す (転句)
糸屋の娘は 目で殺す (結句)
以上で、絶句(四行漢詩)の平易な並べ方をこういう風に示して、頼山陽を嫌っていた人もこれには「うまい」と唸ったそうです。
平明で急所を突いた説明をしたと言われます。
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さて、次はこの竹原の名士だった塩の商人、森川邸です。
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屋敷の中は大変広くて、竹原でももっとも大きく飛びぬけた造りで、この窓から眺めた風景が何ともいえず良かったので、むこうのお部屋を主がそっと眺めて、たとえば客人をもてなしたり、采配をふるっていたような気がしてならなかったのでした。
日本家屋は見通しがよく、誰から見られても誰から話を聞かれても困ることなく、昔は厳しく子どものころから躾けられたのだろうと想像に難くなく、明治生まれの祖母が子どもが足を崩すと物差しをもってきてぴしゃりと叩いたという有名な逸話を我が家でも持っています。
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瀬戸内は、製塩業を営むのに大事な海水があり、温暖な気候や海上交通の便に恵まれて、古くから製塩業の先進地したから、その恩恵を受けた商人がこうしていました。
中世、機内の社寺は「塩の荘園」を設けたのです。製塩方法は、汲塩型の揚浜式塩田でした。
近世は、潮の干満を利用した入浜式塩田があちらこちらで造られました。
播磨・赤穂の塩田が1646年、その技術を利用して安芸・竹原が50年に、瀬戸内海一円には元禄年間までには広がったそうです。
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塩の過剰生産が価格の暴落を招き、瀬戸田の製塩業者が休浜法(冬季作業を休業)を提唱したそうです。
製塩費用の40パーセントが人件費、50パーセントが燃料費だったのです。
薪による燃料は都市の発展とともに費用が急騰したことで、日本で最初に石炭を使用した産業が製塩で、「燃料革命」の先駆となったのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・徳仁親王は、弓削島にも行かれたようで、ここは年間生産量が三万五千石にも上ったらしいのです。
浩宮様は、この瀬戸内の港町から船が運んだ荷物のほとんどが米と、高い比重で塩であったことに着目し、さらに塩はどこの港町(船籍場)からどれほど運ばれたかなど詳細に資料にあたり、検討なさり、当時は大きな第一級の資料の納帳が見つかった後、論文の中に船の積載品目の名前の中にただ米と書いてあるものと、地名表示しかないものがあって、地名表示だけのものは塩であることをいち早く目をつけて証明なさったらしいので、学問的に高く評価されています。
こんな大雑把な説明ではよくないものの、徳仁親王は再びかな?昭和57年の10月に発表された論文で、納帳より問丸を考察し、15世紀半ばの兵庫北関の問丸の具体的な在り方について示唆に富んだ知見を示したと、神戸大学の神木哲男氏から称賛を受けていました。
この納帳の解明は、15世紀半ばの瀬戸内海の水運の実態を明らかにするのに必要不可欠だということです。この論文も昭和年代のもので、今の最新の論文ではずいぶん解析されているのかもしれませんが、徳仁親王のあまり世間で知られていない横顔ということで、ご紹介いたしました。
わたしなりに、瀬戸内の塩の歴史がよくわかって、興味深く思いました。
竹原は塩で町人文化が花開いた町と言うのも、今回よく理解しました。建築物だけではなく、その文化の発展に経済的な力が背景にあったことを深く記憶にとどめました。
続く。