とびしま海道は、2008年に呉から下蒲刈・蒲刈・豊島・豊区という安芸灘諸島を連結した、正式名「安芸灘とびしま海道」と言います。
この開通で、御手洗まではかなりスムーズに 往き来できるようになりました。
御手洗は平成6年重要伝統的建造物群保存地区に指定されていますが、もともとは有名な港町で、大崎下島の東南端にあり、廻船で栄えたところです。
参勤交代の西国大名や琉球やオランダのの使節も立ち寄り、港町には必ずあった遊女の集まった場所でもあります。
この日は晴れわたり、爽快なドライブから始まりました。
全部で安芸灘には今は七つの橋がかかっています。
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千砂子波止(ちさごばと)は、上の左。江戸時代に築かれた御手洗の防波堤。上の右は、もともと左の先端にあった、有力な庄屋が寄進した高燈籠。
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1672年河村瑞軒によって開発された西廻り航路は、この御手洗を天然の良港として発展させました。潮待ちの港として、米や昆布・ニシンを東北や陸前から北前船が運んで入港し、瀬戸内屈指の港になって活気つきました。
1829年千砂子波止場が完成し、上の写真の住吉神社は、その鎮守として、広島藩御用達の大阪の豪商鴻池が堺の住吉神社をそのまま正写したものを寄進したものです。
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遊郭や遊女の寄進で、この大東寺の奥の本堂の欄干は、極楽の鳥の色彩豊かなものが描かれていて見事でした。
最初はどれがそれかわからないまま、本堂にあがって、拝見させていただきました。
遊女の名入りの絵が残っています。
さて、次は、町並みをご覧いただきましょう。
江戸時代初期に開かれて、18世紀前半の町家や豪商の館、そして洋館の町並みが独特の雰囲気を醸し出しています。
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映画「ももへの手紙」にも登場した松浦時計店は明治から続くお店で、奥には家一軒分の値段の140年前のアメリカ製の柱時計があります。
あの赤い時計が映画で印象的です。
ずっと上のピンクの建物は昔の映画館だった乙女座。
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下は北川家。「北仁」
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ところで、この土地の「御手洗」の地名の起源は、その昔、神功皇后の三韓征伐(今は侵略と言われる)の時、皇后がこちらで手を洗ったためという。
明治時代に入ると、それが菅原道真にとって代わられて、道真公が大宰府へ左遷される時、天神山の麓で手を洗い、口をゆすいで祈ったため、そこから菅原道真公ゆかりの井戸が、地元の方が正月の書き初めの若水をここから汲んで書いたという。
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「われたのむ人をむなしくなすならば
天が下にて名をやなかさむ」
(菅原道真)
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映画「ももへの手紙」で、ももに見つかった妖怪たちが最初、自分たちは道真公の使いと述べたのは、この地で親しまれていたここの道真公のことを指していたのです。
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これは御手洗最大の遊郭跡。「若胡子(わかえびす)屋跡。」
昔は大名を始め、豪商たちがやってきて、ここやおちょろ船で、遊女たちが男たちの相手をつとめさせられました。
ほとんどが貧しい家の女の子を全国より集めて、ここである程度の教養を身につけさせて、格式高い遊郭でもあったというが、全部でこの土地にわかっているだけで四軒もあったと言います。悲しい逸話もたくさん残っています。
「御手洗港を素通りすれば あの妓が祈るか風変わる
チョロ(遊女を乗せた船)は出て行く かもめは帰る
色の港に灯りはうつる」
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少し行くと、南朝山満舟寺。ここに昔、琉球王朝の使節がやってきて歓迎されたようです。
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映画で、撮影地がなぜここになったのか知りませんが、少女少年たちの健全な育成を望むなら、児童虐待や児童買春などから大人が守ってあげなくてはならず、新しい街おこしの御手洗では、過去の繁栄の陰に、悲しい史実もあって、隠しもしないで、これからの未来の子供たちのために大人にも子どもにもこういう悲劇が二度起らぬように、訴えかけていました。
ここには、神様が子どもを見守っていると信じたいと、子どもらの無事成長を祈る現在の町の人たちの篤い思いがみなぎり、ここを観光に来る人にも注意を喚起しているようでもありました。
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若い人は眩しいくらいに美しい。だから、よい年をした大人の中には、どうしても食指を動かして何とかしたくなる人がいて、その気持ちは多少わかるが、これからの未来を担う若い人たちが真実の純粋な愛情により結婚して新しい生命を宿してくれるように、見守る役目をきちんと果たさなくてはならないと思います。
おいらん公園から壮大な展望をみて、彼女らが真実の愛によって家庭を持ちたいとほんとうは思っていたであろうことを汲み、大人は「性と聖」との葛藤のすえに未来ある希望の若い人を精神的に導くことを推進することを約束したいと思います。
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瀬戸内海は晴れ渡り、最高の贈り物を天から受けてきました。
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ふがいない私ですが、最後に、朝鮮通通信使を迎えてもてなした料理を陳列した下蒲刈の松濤園をご紹介して終わりにしましょう。
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世界は広く、こうした写真の世界のように、日本もほかの国もまだまだ美しい世界があります。
私は日本人として生まれて、いわゆる自虐史観 に近いものは持っているかもしれません。しかし、その時その時真剣にどう生きるか模索し悩み、精いっぱい生きてきた人間を思うと、日本もそう悪い国ではなく、こうして旅していて、いいなあと心から思えます。
「御手洗」ではないけれど、遊女にも会ってみたいという反面、人間にはこの人の生き方を自分が汚すことはできないと思いとどまる勇気も持っています。
下を見ればきりがなく、上を眺めればきりがなく、でも地に足をしっかり踏みしめてまじめに生きて、みんなが生きてゆく上で避けて通れない問題をひとりの人間だけではなく、みんなで解決していこうとする気概は持っていたいものです。
瀬戸内海の島を巡る旅もこれでおしまいです。
完