私は、家族とふたり、家族が瀬戸内に行ったことがなく、 今回御手洗へ行きたいと言うので、五月に旅行をしました。いろいろ見たいところばかりで、旅の行程表を作るのに手間取りました。
私は、綺麗な瀬戸内の風景をまた眺めてみたいと 思っていたのですが、あいにく珍しいことに今年の五月は大雨が降り、途中ひやひやしながらの旅になりました。瀬戸内は、本来は降水量も少なく温暖なはずで、晴れ間が多いのですが、今回は別でした。
雨の中、まずは鞆の浦に着きました。
まずは、朝鮮通信使を迎えた、対潮楼へ伺いました。
福禅寺の客殿として建てられた書院作りです。右がその対潮楼から見た風景で、この風景の上に、1711年に、対馬から江戸までの間でここが一番景色が良いと言うので、「日東第一形勝」の書を、上官のイ・バンオンが書いた額があります。
1748年に、正使ホン・ケセは、ここを瀬戸内の眺めがいいから「対潮楼」と命名し、その息子の書家のホン・キョンヘが書を残しました。
朝鮮通信使とは、朝鮮国は「偽らず、欺かず、誠を以て信(よしみ)を通(かわ)す」(誠信)という意味が「通信」の意味であったそうです。
鞆の浦は、潮待ちの港町として物資流通の拠点で栄えて多くの船が寄港しました。しかし、後にその経済的な拠点を尾道に譲りますが、今でも江戸時代からの常夜灯、雁木、波止場、焚場、船番所などの設備が残り、全国唯一の保存地区として歴史的な高い価値を持っています。
素人の観光者のわたしが述べていいかわからないものの、日本の歴史がどういうものであったか、今も偲ばれる日本唯一の場所だから、世界中の方に観光に来ていただいて、このまま存続が図れるといいなあと思いましたが、都市整備計画の波が迫っています。
右は、映画「崖の上のポニョ」のモデルハウスが写っています。後で、尾道へ移動する際に船から撮影したものです。
真ん中の白い家がそうで、監督の宮崎駿さんはこの鞆の浦の保存を守ろうと呼びかけていました。
尾道に行った時、居酒屋のお兄さんが尾道にも都市整備計画が持ち上がった時、町で反対して守ったというお話をお客さんとしていました。
たとえば、常夜灯ですが、見事に象徴として残り、かつての港町の雰囲気を残しています。
1867年、紀州藩の明光丸と坂本龍馬らの海援隊のいろは丸が鞆の沖合で衝突し、いろは丸が沈没したため、坂本龍馬も一時鞆の浦に滞在したことがあり、その時の遺品の展示資料館も傍にありました。
坂本龍馬ゆかりの場所が至るところにあり、それを見学する方もいることでしょう。
わたしは時間の関係で早足で進みました。
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鞆の浦の路地はせまく、昔の面影があります。
常夜灯からそう離れていないところに、国の重要文化財に指定されている太田家住宅がありました。
明治時代まで、福山藩の御用酒屋で、保名酒(もち米焼酎の漢方薬酒)の独占製造販売が認められた中村家の屋敷でした。
初代当主は1655年、大阪から移り住んで保名酒を販売したと言う。
福山藩は、保名酒を朝廷や幕府に献上し、ペリー来航の際には老中阿部正弘は食前酒として応接に出したと言われています。
中は撮影禁止でご覧いただけないのが惜しいのですが、見事に文化が家の中に息づき、床の間、茶室、掛け軸、ふすま絵など見事なものです。
茶室は、京都から一畳のものを採り入れて、それだけ格式の高い屋敷であったことがわかります。
1863年の8月18日政変で京都を追われた三条実美ら攘夷派公家が長州藩に向かう途中(七卿落ち)、この家で休憩を取ったと言われます。
裏にあった蔵はナマコ壁の白い大きなもので、立派なもので、財宝も多く蓄えたと言われています。
この中で、保名酒も作られていたので、かなり屋敷は広く、ほかのお宅と比べて別格でした。
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鞆の浦の商家は、以下の写真の通りです。
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そうでした、そうでした。白い馬が写真に見えるのがわかりますか?
こちら鞆の浦では、端午の節句の時、兜や鯉を飾るのではなく、白い馬の人形を男の子のお祝いに飾るのだそうです。
なぜかは、今は記憶が悪くて覚えておりません。
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中には、古い昭和初めの電話器もおいてあり、天井は高くなっていました。
保名酒は今では、鞆の浦では様々な店の商品が売られていて、昔ながらの醸造元は今はそうないらしいのですが、今もその味と作りを大切に町の方々は守ろうとしています。
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さて、三条実美は和歌でこう歌っています。
「世にならす鞆の港の竹の葉をかくて嘗むるも珍しの世や」
(竹の葉は保名酒のこと)
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町を見下ろすところに、鞆城跡があり、ここに足利義 昭が滞留しました。今は鞆公園になり、国の名勝になっています。
公園には、親が福山や安芸の出身の、宮城道雄の銅像がありました。鞆の浦を非常に好んでいたそうです。
新宿区神楽坂に宮城道雄記念館があり、春の海などの曲を作曲し、琴の名手でもある視覚を失った方でしたが、この方のエッセイを読むと感性が鋭敏で豊かで心根は明るく、朝鮮の方々の音楽的な素養を褒めていました。
日本を代表する音楽家ですが、国際的な視野を持った方でした。
さて、船着き場を目指して、鞆の浦を後にすることになりました。
ここから定期観光船で尾道へ行くのですが、あいにくの天気で船の中からほとんど景色はぼけて見えていました。
さようなら、鞆の浦。目の前に・・・
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船が進んで行くと、毛利輝元が再興したという磐台寺阿伏兎観音堂が見えて過ぎて行きました。
今度来る時は鞆の浦はどうなっていうのでしょう。
今度は晴れて、もっと美しい町並みを見せてほしいと願いました。続く。