わたしは、出雲大社に観光バスで巡った後、ワイナリー などに行くべきはずを、自分だけ抜けて日御碕へ向かいました。
石造りで東洋一と言われる、地上から灯下まで高さ38、8メートル、水面下から灯下まで63メートルの白亜の灯台が島根県最西端にあります。
バスで小糠雨の中、行くと淋しくて、どうかしそうなくらいの気分になりましたが、ウミネコが静かに迎えてくれました。「経島」と言われています。
小さな漁船がたくさん並んでいて、海はどんよりした景色をしていました。遊歩道がありますが、誰も歩いていません。
おみやげ物やさんも閑散としていました。しかし、「おいら岬の灯台守は妻と別れて・・・・」などという古い歌を思い出しながら口ずさみ、進んで行きました。
到着すると、中を上がれると聞き、猛然と昇りました。
灯台の上から荒海を眺めて、必死にカメラのシャッターを押しましたが、あまりいい映像が映りません.。しかし、胸の内は感動で震えていました。
こんなところまでやっと来たんだ、灯台は船を導く重要な場所であり、初点灯は明治36年4月1日で、当初は人がいたことでしょう。厳しい寒さと風に当たりながら、わたしの胸はいっぱいになりました。
そこから、日御崎神社へ向かいました。今の社殿は重要文化財で、朱塗り。徳川家光の命令で松平直政が10年がかりで造営したと言われています。華麗な権現造りで、最初は1000年以上も前に天照大御神を祀る下の宮と須佐之男命を祀る上の宮でできた古い社だったらしいのです。
毎年旧暦十月を神無月と言いますが、出雲ではこの神在月に日御崎龍蛇神は、海神綿津美神(わだづみのかみ)のお使いとして海中から日御崎の海浜に上陸なさります。
実はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が言うことには、八百万の神様を龍神が諸国から乗せて集合させるという言い伝えがあり、イザナギとイザナミも龍神に乗っていたそうです。
出雲では、白蛇を漁師が捕らえて、漁民がこれを海藻に包んで奉戴し神社に献納します。神社ではすぐに三宝に奉安し、祭典を行って神前に奉告します。
出雲大社でもこうした事が行われ、わたしが個人的に読んだ本の記憶を辿ると、「わだづみのみや」というのは、浦島太郎伝説に出てくる海底の国のことであり、これは日本民族の神は海を渡っておでましになるということではないかと言うことでした。
飛鳥時代には、史書によると、もう日本人が常世の国を「わだつみのくに」と言うようになったようですが、実は別であると折口信夫氏は述べ、日本人の祖先は海を渡って来たことを表しているのではないかと思われます。いつのまにか、天孫降臨というように天から降りて来たことになっていますが、実際は日本人の祖先は海から来たのでしょう。
脱線しましたが、海神のお使いの役を果たされた龍蛇神を 神社では、火難水難から守る神様として祀られています。
こちらの神社には、昭和天皇もおいでになったそうで、その記念碑がこちらの写真になり、平和を祈る御歌が刻まれていました。
こちらの日御崎神社の中には、素晴らしい絵があるそうで、それを拝見したくて中に入り、神主さんに拝見したいと願い出ると、
「その絵は日露戦争の日本海海戦の日にしか公開されません」
というお答えで、実にがっかりしました。秩父宮様お手植えの松が、随分大きく生長していて、時代を感じながら、ぼんやりと境内に佇み、昭和天皇は最後まで日本の独立のことを気に掛けておいでで、日本海をはさんで外国と対峙していることを心配なさっていたのだろうかと漠然と思案しました。
いつまでも寒く天候の悪い中、歩いていられず、市営のバスまで戻りました。
続く