「唐津~旧高取伊好邸宅見学記」
今日は、唐津で特別に見学会のあった旧高取伊好家住宅をご紹介します。
1997年か1998年だったでしょうか、見学に参りました。
国重要文化財に平成10年12月25日に指定されました。
所在地は、河村美術館(夭折の画家青木繁の展示)のすぐ近くにあります。
わたしは伊万里焼の陶器に興味があり、今回普通の観光旅行がてら唐津にも行こうと思ったのです。美術工芸品を眺めるのがとても好きです。2007年現在、ここは一般公開されています。
炭坑主として成功した高取伊好(これよし)(1850~1927)の住宅だったところで、唐津城本丸の西南の海岸沿いに建っています。
明治30年代、杵島炭鉱の経営が軌道に乗り出した頃、伊好は唐津城三の丸城壁の北、西の浜に本邸を建設し、明治時代の政財界人がしげしげと訪れ、私邸であるものの、迎賓館として、また会議、応接、式典、茶会、能楽会など、半ば公的な行事を行う場所でもありました。
明治初年と言えば、外務卿に副島種臣、司法卿に江藤新平、文部卿に大木喬任、大蔵卿に大隈重信でした。司馬遼太郎に言わせると、汚職を嫌い、歪曲も許さない強烈な正義意識と非政治性は葉隠れの遺風で、秩序好きな気風が佐賀県人にはあると述べていて興味深いものがあります。
終戦直後、闇米を買わず、昭和22年に餓死した東京地裁判事山口良平がそのもっとも典型的です。
また、勉学熱心な藩で、佐賀県精煉方で中心になって働いた洋学者や技師の中に田中近江がいましたが、近江は「機械(からくり)近江」と言われるほど機械に明るく、その近江の子どもで名前は今わからないものの、その子が明治後に佐賀から東京へ上京し、芝浦で田中製作所を始めました。(司馬遼太郎「街道をゆく」より)
これが、後の芝浦製作所(株式会社東芝)の前身です。
辞典によれば、創業者の一人、初代田中久重が、からくり人形「弓曳童子」や和時計「万年時計」などを開発し、「からくり儀右衛門」として知られたらしく、初代の田中久重が東京・新橋に工場を興し、息子の二代目田中久重が東京・芝浦に移転させたと言うことです。
幕末に工業佐賀藩と言われた産業力の血は、今、東京で花開いています。
明治30年代に佐賀県唐津市に建てた一部洋風の 高取邸で、 97年5月に佐賀県の文化財の指定、98年10月には国の重要文化財指定を受けました。佐賀県内では最大級の建築です。
建物はすでに建てられて100年近くなり老朽化が進んでおり、現在では綺麗に修復されました。
唐津城の西に海岸に面した旧高取家は、敷地面積は約2,300坪、建物は一部二階建で延べ面積は約300坪です。
建物は、和風を基調としながら、居間棟に洋間があり、大広間には能舞台を設けています。居室空間と来客迎賓の施設の二つの性格があるのが特徴です。たいへん規模の大きなものでした。
洋間は応接室で、東側の壁沿にマントルピースを持ち、家具は舶来のもの。玉虫絵図のような引き出しや、現在の高取家の人が持ち込んでいる品々もあって、明治時代の貴族の邸宅のような趣でした。
広さは、十畳程度でしょうか。濃いピンク色なのか暖色系の色の絨毯、ベージュのカーテン、革張りのソファで品良くまとめられています。
壁紙も落ち着いた淡い茶系に、焦げ茶の窓枠が重厚さを醸し出しています。床が他の部屋と違って、高くしつらえてありました。これがとても印象的です。
深い茶色のマホガニーの立派なサイドボードでしょうか、 中央の方へ目が行きます。
その上には可愛らしい洋風人形の西洋陶器が幾つか置いてありました。大きなピアノも部屋にあり、こういう豪華で痛みの少ない、昔ながらの豪邸は、いまだかつて見たことがありません。
置物には、遠いギリシャ風の人物と、薔薇に鳥という取り合わせのゴブラン織り風の扉のあるものがあり、たいへん瀟洒な感じです。昨日まで、どなたか住んでいらしたと言ってもおかしくありません。
1998年までは市の文化財ではなく、昭和9年までお住まいだったそうです。それにしてもけばけばしさのない、西洋趣味だなと息をのみました。ここで、外国の技師を招いたり、鍋島家の華族の方々もお見えになって、舶来の洋酒や紅茶などをいただきながら、さまざまな談義に沸いたのでしょうか。
北棟には伊好の寝間・書斎と中座敷を東西に並べ、畳敷きの和室なのに、寝間と書斎の真ん中にマントルピースが置いてありました。
ふだんは、重厚な木のふたが閉められていて、気になりません。
これを開けると、暖炉が現れて、下には、白地に青い絵で亀の絵が描かれたタイルが貼られてあります。そのマントルピースの両側には、書棚がありまして、ここに漢書が置かれてあったそうです。
最近は英語や外国語を勉強する人は多くても、漢籍を勉強する人が少なくなりました。時代を感じます。
天井には白地にピンクの小花の模様をあしらった陶磁の飾りの滑車があって、電灯がチューリップのような傘にしゃれて釣り下げられ、滑車で上げたり下ろしたりして、ここで漢籍の勉強をするため読書するスタンドのような用い方をしたそうです。
こういう邸宅で勉強をすることが出来るというのは、幸せなことだろうなと羨ましくもあり、その本人の意欲の在り方に感心したりしました。
伊好氏は、技師でもあったので、その研究もしていました。また、算盤勘定の商業とは言え、その会社の創業理念としての道義というものを、儒学初めとして漢籍から学んでいたのかも知れません。
廊下は、昔のガラス作りながら、磨りガラスの部分と、四角形に絵を眺めるように透きガラスにも工夫されており、庭の緑の眺めも粋なものです。
お茶室の松風亭は、静かに光が射し込んでいて、落ち着いた和の空間がありました。淡いベージュというか、薄い緑がかった壁紙かなにかで統一されていて、書が置かれてありました。
途中、大きなカボチャの形をした火鉢があり、和室に誰かちょこんと座ってるかのようも思えて来ます。
伊好の家族団らんの場で、ここで日常生活を送ったのでしょう。
窓枠の珊が素晴らしく繊細で、綺麗な細い線がすっと縦縞に立ち並ぶあたり、細やかな心遣いを感じさせます。
茶室に向かう部屋への土間の扉と、先ほどの伊好氏の書斎の縁側の壁にある杉戸は、斜め対角線上に向き合っており、両方に四枚で一つの作品として楊貴妃の曲水の絵図が描かれてありました。西洋貴族邸宅のようで、日本趣味的なところがあります。
楊貴妃の絵は中国趣味的なものでなく、色合いが落ち着いています。品があると言えばいいでしょうか。
二階へ上がりますと、大きな座敷がありまして、 ここで主賓をお泊めしたと思われます。
昔の古いガラスの向こうの前面は唐津の海と小島が見えて、打ち寄せる波も壮大な眺めでした。
しばらく、ここに来た見学者はみな足を止めて、松島のように趣のあるダイナミックな海の景色を眺めていました。それは、日本画の大きな襖絵を前にしたように、圧巻でした。
海鳴りが聞えそうな気がします。大きな波が白いしぶきをあげています。現代なら、大きな座敷の前に映画館の大きなスクリーンを持って来て、美しい海の風景を放映しているような感じでした。
きっと賓客だった大隈重信も、この気色を眺めては、故郷に戻ったと実感し、心から海に心を大きく開かれ、ゆっくり休むことができたことでしょう。
ほかの部屋もそうでしたが、欄間、床の間、棚、杉戸には、 植物の浮き彫りや、型抜きの動物が施されていて、意匠が優れています。
確か、ここには、リスの型抜きの欄間がありました。
杉戸は、無数の群れの蛍の絵が描かれていて、見事です。
藤の花に能を舞う人、福の神も杉戸に描かれ、中国の文人らしき人々の姿も目にできます。
欄間には白い光る貝で張り合わせた、兎や鷺の姿がはめ込めこまれていたり、大きなクジャクの姿を映した欄間もあります。引き手には、小さな楕円形の中に菊や桐を彫り込んだり、その他の草木を色鮮やかに繊細に描いたりもしました。
こういう繊細な彫り物をしつらえてあるところが、家の品格を高めています。家中が、骨董品のような具合です。美術が好きなわたしは、幾ら見ても飽きません。
この座敷の下の階のトイレは、来賓にしか使われなかった青い見事なタイル張りのものがあるそうですが、今回は公開されませんでした。ここは、大隈重信公がお使いになったそうです。見ることができずにちょっと惜しい気がしました。
下は、西庭の東側に、板敷きの常磐の松を正面に描いた能舞台があり、北に15畳の部屋が二部屋並び、床・付書院を造る大座敷になっています。
この棟には杉戸が多用され、京都四条派の絵師水野香圃の作とされる絵が、今も色鮮やかに描かれています。
しゃくなげの白い大輪の花と、何の花だったか可憐な赤い花が能舞台の正面の舞台を挟んだ杉戸に、格調高く描かれてありました。
舞台裏には控えの間がありまして、襖にも中国の話にもとった絵が帯の柄のように細かく描かれています。記憶が曖昧になって残念ですが、絵画のすばらしさはかなりのものです。また、このようなの個人宅に能舞台が現存するのは、今は日本でもここだけとなっています。
国立能楽堂で拝見した鍋島家の能衣装のすばらしさを想起すると、ここで優雅な能が、もしかすると、元藩主鍋島公初め、大勢の賓客を招いて観客にして、静粛に披露されたのだろうと思うと、身が引き締まる感じがしました。
ここは、春だったか夏だったかのあるの月13日・14日だけの特別な見学会でした。地元の人々に知らされて、みなさんが、かなり昔から関心を持ちながら、待ちこがれて訪れたような有様でした。
観光客は知らないのか、地元の人が車で駆けつけて、受付の名簿に名前を書き連ねていました。今回が、初公開の日でした。
さて、後日、友人にこの話をしましたら、こう教えてくれました。
「北から西九州の沿岸には炭坑のある島が数多く存在しました。長崎の近郊でも、大島、高島、端島(軍艦島)、伊王島などがあり、あるものは廃虚となり、あるものはリゾートなど新たな道を目指して開発がすすめられています。もちろん、塵肺訴訟など、過去における影を引きずりながらといったところですが。
炭坑労働者はそれは悲惨なものがあったのでしょうね。
一方炭坑主の方は絢爛豪華な暮らしをしていたわけで、搾取する側と搾取される側の対比が思い偲ばれます。
しかしながら、搾取する側がその財産を背景に文化の歴史や美術品を守ったという事実も考えると、やはりきれい事だけで済まされるものではありませんね。」と。
友人の述べた、炭坑労働者の悲劇は、1880年産業革命で、官営工場を民間に払い下げることからスタートします。
明治21年4月30日第二代黒田清隆内閣成立。大隈重信が外務卿に起用され、同年6月18日雑誌「日本人」で、三宅雪嶺(樋口一葉の姉御分、田邊龍子の夫)が長崎の三菱弥太郎のもとにある「高島炭坑の惨状 」を掲載し、社会問題を引き起こしました。
ただ、わたしはいつも思うのですが、三池炭坑始め、日本の多くの炭坑で悲惨な労働条件のある場所はたくさんあったはずなのに、なぜ高島炭坑事件だけがこう教科書に大きく記載されるほどになったか知りたいと思いました。
ちょっと調べてみると、こんないきさつがありました。
雑誌「日本人」の社員松岡好一は、高島炭坑の鉱夫への暴力的な拘禁と悲惨な死が病が勃発するにあたって、当時三菱を擁護した犬養毅に朝日新聞上で決闘を申し込む(明治21年9月8日)が、犬養は野蛮だと回避しました。(明治21年9月10日)
犬養毅の言葉では、「二三の新聞紙のいたづらに陰で人を傷つけようとしている」と述べています。(明治21年9月11日朝野新聞報道)
松岡好一は三宅雪嶺の北守南進論に共鳴し活動し、その後、大陸浪人として中国問題に関わりました。
あまりの社会反響の凄さに、政府調査団が入り、是正措置が図られたという(明治21年9月13日東京日々新聞)が、実際のところ、官営の時からすでに囚人労働をさせていて、岩崎の買収前からひどい有様だったらしいのです。
しかし、三宅雪嶺は決闘を野蛮というのは浅ましいと犬養毅を糾弾しました。(明治21年10月2日東京日々新聞報道)
こうして、決闘をめぐって法律家も激論する自体まで発展したのです。(明治21年10月2日東京日々新聞報道)
ただ炭坑事件の解明と救済と言うより、政府内の確執もあったのかも知れませんが、ここでは脱線するので省略します。
佐賀県出身でありながら、高取伊好は高島炭坑に関与していた技師であり、苦労話も伝記を紐解けば理解できます。明治19年、彼が県内最初の大規模炭坑に、芳谷炭坑の実地経営者となり、27年には引退して29年相知炭坑を開坑しました。
明治44年代には、三菱財閥や筑豊の貝島太郎・麻生太吉(現自民党議員麻生太郎氏の系譜)の三者が県全体の坑区の50パーセント、坑夫人員の60パーセントを占めました。それに対して高取は、明治35年に杵島炭坑を開業し、県全体の坑区・坑夫の20パーセントを確保しました。しかも、大正11年に高取系の出炭高の75パーセントを占めたが、その後は時代とともに元気をなくしていきました。
話を戻しますと、ともあれ、佐賀において、旧高取家は、大事な産業基盤であったことは間違いありません。高取氏も、資本家としてただ算盤を弾いていただけでなく、技師としてだいぶ苦労もしたのだろうから、炭坑時代の労働条件が悪かったことはあろうが、地元の人には、そう悪評はない名士のようです。地元の福利・教育に力も注いだようでもあります。
ただ、上に立って経営し、これだけの生活ができる人は当時少なく、やはり搾取した側と言われてしまえば、現代の労働条件からすると、やむなしと言う気がします。
しかし、一方で、これだけの文化を築き守る立場であったことも考慮すると、世の中清濁飲み込んであるのだと改めて認識しました。
わたしは、美術品を眺めるという立場でしか思考していなかったので、見学当初は、友人の言葉のような内容まで考えられなかった自分を恥ずかしく思いました。わたしも生活に困れば、こうした旅行も美術品を愛でる余裕もなくなります。
「衣食足りて礼節を知る」という言葉がありますが、市民が平穏に過ごすことができて、初めて文化財の意義を認めて賞賛をするわけです。違う視点で、ものを見ることも大事なことだと思いました。
ただ、今回見学した旧高取家の内装は、文化的にもレベルが高く、多くの方々にその質の高さを味わっていただきながら、過去の歴史も振り返る契機になっていただければと思っています。
○参考文献多数
司馬遼太郎「街道を行く」
鈴木孝一「明治日本発掘」
他(全部記載できず、申し訳ありません)