みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

新・旧高取伊好邸宅見学記

2008年01月13日 07時00分55秒 | 日記・エッセイ・コラム

「唐津~旧高取伊好邸宅見学記」

 今日は、唐津で特別に見学会のあった旧高取伊好家住宅をご紹介します。
1997年か1998年だったでしょうか、見学に参りました。Img_0016

 国重要文化財に平成10年12月25日に指定されました。
所在地は、河村美術館(夭折の画家青木繁の展示)のすぐ近くにあります。

 わたしは伊万里焼の陶器に興味があり、今回普通の観光旅行がてら唐津にも行こうと思ったのです。美術工芸品を眺めるのがとても好きです。2007年現在、ここは一般公開されています。
 
 炭坑主として成功した高取伊好(これよし)(1850~1927)の住宅だったところで、唐津城本丸の西南の海岸沿いに建っています。                         Img_0017

 明治30年代、杵島炭鉱の経営が軌道に乗り出した頃、伊好は唐津城三の丸城壁の北、西の浜に本邸を建設し、明治時代の政財界人がしげしげと訪れ、私邸であるものの、迎賓館として、また会議、応接、式典、茶会、能楽会など、半ば公的な行事を行う場所でもありました。

 明治初年と言えば、外務卿に副島種臣、司法卿に江藤新平、文部卿に大木喬任、大蔵卿に大隈重信でした。司馬遼太郎に言わせると、汚職を嫌い、歪曲も許さない強烈な正義意識と非政治性は葉隠れの遺風で、秩序好きな気風が佐賀県人にはあると述べていて興味深いものがあります。          Img_0018

 終戦直後、闇米を買わず、昭和22年に餓死した東京地裁判事山口良平がそのもっとも典型的です。

 また、勉学熱心な藩で、佐賀県精煉方で中心になって働いた洋学者や技師の中に田中近江がいましたが、近江は「機械(からくり)近江」と言われるほど機械に明るく、その近江の子どもで名前は今わからないものの、その子が明治後に佐賀から東京へ上京し、芝浦で田中製作所を始めました。(司馬遼太郎「街道をゆく」より)

これが、後の芝浦製作所(株式会社東芝)の前身です。
  辞典によれば、創業者の一人、初代田中久重が、からくり人形「弓曳童子」や和時計「万年時計」などを開発し、「からくり儀右衛門」として知られたらしく、初代の田中久重が東京・新橋に工場を興し、息子の二代目田中久重が東京・芝浦に移転させたと言うことです。
 幕末に工業佐賀藩と言われた産業力の血は、今、東京で花開いています。
                
 明治30年代に佐賀県唐津市に建てた一部洋風のImg_0012 高取邸で、 97年5月に佐賀県の文化財の指定、98年10月には国の重要文化財指定を受けました。佐賀県内では最大級の建築です。
建物はすでに建てられて100年近くなり老朽化が進んでおり、現在では綺麗に修復されました。

 唐津城の西に海岸に面した旧高取家は、敷地面積は約2,300坪、建物は一部二階建で延べ面積は約300坪です。

建物は、和風を基調としながら、居間棟に洋間があり、大広間には能舞台を設けています。居室空間と来客迎賓の施設の二つの性格があるのが特徴です。たいへん規模の大きなものでした。

 洋間は応接室で、東側の壁沿にマントルピースを持ち、家具は舶来のもの。玉虫絵図のような引き出しや、現在の高取家の人が持ち込んでいる品々もあって、明治時代の貴族の邸宅のような趣でした。
広さは、十畳程度でしょうか。濃いピンク色なのか暖色系の色の絨毯、ベージュのカーテン、革張りのソファで品良くまとめられています。

 壁紙も落ち着いた淡い茶系に、焦げ茶の窓枠が重厚さを醸し出しています。床が他の部屋と違って、高くしつらえてありました。これがとても印象的です。

深い茶色のマホガニーの立派なサイドボードでしょうか、Img_0035 中央の方へ目が行きます。

その上には可愛らしい洋風人形の西洋陶器が幾つか置いてありました。大きなピアノも部屋にあり、こういう豪華で痛みの少ない、昔ながらの豪邸は、いまだかつて見たことがありません。

置物には、遠いギリシャ風の人物と、薔薇に鳥という取り合わせのゴブラン織り風の扉のあるものがあり、たいへん瀟洒な感じです。昨日まで、どなたか住んでいらしたと言ってもおかしくありません。

1998年までは市の文化財ではなく、昭和9年までお住まいだったそうです。それにしてもけばけばしさのない、西洋趣味だなと息をのみました。ここで、外国の技師を招いたり、鍋島家の華族の方々もお見えになって、舶来の洋酒や紅茶などをいただきながら、さまざまな談義に沸いたのでしょうか。
 
 北棟には伊好の寝間・書斎と中座敷を東西に並べ、畳敷きの和室なのに、寝間と書斎の真ん中にマントルピースが置いてありました。
ふだんは、重厚な木のふたが閉められていて、気になりません。

これを開けると、暖炉が現れて、下には、白地に青い絵で亀の絵が描かれたタイルが貼られてあります。そのマントルピースの両側には、書棚がありまして、ここに漢書が置かれてあったそうです。

最近は英語や外国語を勉強する人は多くても、漢籍を勉強する人が少なくなりました。時代を感じます。

 天井には白地にピンクの小花の模様をあしらった陶磁の飾りの滑車があって、電灯がチューリップのような傘にしゃれて釣り下げられ、滑車で上げたり下ろしたりして、ここで漢籍の勉強をするため読書するスタンドのような用い方をしたそうです。

こういう邸宅で勉強をすることが出来るというのは、幸せなことだろうなと羨ましくもあり、その本人の意欲の在り方に感心したりしました。

伊好氏は、技師でもあったので、その研究もしていました。また、算盤勘定の商業とは言え、その会社の創業理念としての道義というものを、儒学初めとして漢籍から学んでいたのかも知れません。

 廊下は、昔のガラス作りながら、磨りガラスの部分と、四角形に絵を眺めるように透きガラスにも工夫されており、庭の緑の眺めも粋なものです。

お茶室の松風亭は、静かに光が射し込んでいて、落ち着いた和の空間がありました。淡いベージュというか、薄い緑がかった壁紙かなにかで統一されていて、書が置かれてありました。

途中、大きなカボチャの形をした火鉢があり、和室に誰かちょこんと座ってるかのようも思えて来ます。

伊好の家族団らんの場で、ここで日常生活を送ったのでしょう。

窓枠の珊が素晴らしく繊細で、綺麗な細い線がすっと縦縞に立ち並ぶあたり、細やかな心遣いを感じさせます。

 茶室に向かう部屋への土間の扉と、先ほどの伊好氏の書斎の縁側の壁にある杉戸は、斜め対角線上に向き合っており、両方に四枚で一つの作品として楊貴妃の曲水の絵図が描かれてありました。西洋貴族邸宅のようで、日本趣味的なところがあります。

楊貴妃の絵は中国趣味的なものでなく、色合いが落ち着いています。品があると言えばいいでしょうか。

 二階へ上がりますと、大きな座敷がありまして、Img_0019 ここで主賓をお泊めしたと思われます。
昔の古いガラスの向こうの前面は唐津の海と小島が見えて、打ち寄せる波も壮大な眺めでした。
 しばらく、ここに来た見学者はみな足を止めて、松島のように趣のあるダイナミックな海の景色を眺めていました。それは、日本画の大きな襖絵を前にしたように、圧巻でした。

 海鳴りが聞えそうな気がします。大きな波が白いしぶきをあげています。現代なら、大きな座敷の前に映画館の大きなスクリーンを持って来て、美しい海の風景を放映しているような感じでした。
 きっと賓客だった大隈重信も、この気色を眺めては、故郷に戻ったと実感し、心から海に心を大きく開かれ、ゆっくり休むことができたことでしょう。

 ほかの部屋もそうでしたが、欄間、床の間、棚、杉戸には、Img_0014 植物の浮き彫りや、型抜きの動物が施されていて、意匠が優れています。
確か、ここには、リスの型抜きの欄間がありました。
杉戸は、無数の群れの蛍の絵が描かれていて、見事です。
藤の花に能を舞う人、福の神も杉戸に描かれ、中国の文人らしき人々の姿も目にできます。

 欄間には白い光る貝で張り合わせた、兎や鷺の姿がはめ込めこまれていたり、大きなクジャクの姿を映した欄間もあります。引き手には、小さな楕円形の中に菊や桐を彫り込んだり、その他の草木を色鮮やかに繊細に描いたりもしました。

こういう繊細な彫り物をしつらえてあるところが、家の品格を高めています。家中が、骨董品のような具合です。美術が好きなわたしは、幾ら見ても飽きません。

 この座敷の下の階のトイレは、来賓にしか使われなかった青い見事なタイル張りのものがあるそうですが、今回は公開されませんでした。ここは、大隈重信公がお使いになったそうです。見ることができずにちょっと惜しい気がしました。

 下は、西庭の東側に、板敷きの常磐の松を正面に描いた能舞台があり、北に15畳の部屋が二部屋並び、床・付書院を造る大座敷になっています。
 この棟には杉戸が多用され、京都四条派の絵師水野香圃の作とされる絵が、今も色鮮やかに描かれています。
 しゃくなげの白い大輪の花と、何の花だったか可憐な赤い花が能舞台の正面の舞台を挟んだ杉戸に、格調高く描かれてありました。

 舞台裏には控えの間がありまして、襖にも中国の話にもとった絵が帯の柄のように細かく描かれています。記憶が曖昧になって残念ですが、絵画のすばらしさはかなりのものです。また、このようなの個人宅に能舞台が現存するのは、今は日本でもここだけとなっています。

 国立能楽堂で拝見した鍋島家の能衣装のすばらしさを想起すると、ここで優雅な能が、もしかすると、元藩主鍋島公初め、大勢の賓客を招いて観客にして、静粛に披露されたのだろうと思うと、身が引き締まる感じがしました。

 ここは、春だったか夏だったかのあるの月13日・14日だけの特別な見学会でした。地元の人々に知らされて、みなさんが、かなり昔から関心を持ちながら、待ちこがれて訪れたような有様でした。
 観光客は知らないのか、地元の人が車で駆けつけて、受付の名簿に名前を書き連ねていました。今回が、初公開の日でした。                                Img_0015

 さて、後日、友人にこの話をしましたら、こう教えてくれました。

「北から西九州の沿岸には炭坑のある島が数多く存在しました。長崎の近郊でも、大島、高島、端島(軍艦島)、伊王島などがあり、あるものは廃虚となり、あるものはリゾートなど新たな道を目指して開発がすすめられています。もちろん、塵肺訴訟など、過去における影を引きずりながらといったところですが。
炭坑労働者はそれは悲惨なものがあったのでしょうね。

一方炭坑主の方は絢爛豪華な暮らしをしていたわけで、搾取する側と搾取される側の対比が思い偲ばれます。
しかしながら、搾取する側がその財産を背景に文化の歴史や美術品を守ったという事実も考えると、やはりきれい事だけで済まされるものではありませんね。」と。

 友人の述べた、炭坑労働者の悲劇は、1880年産業革命で、官営工場を民間に払い下げることからスタートします。

明治21年4月30日第二代黒田清隆内閣成立。大隈重信が外務卿に起用され、同年6月18日雑誌「日本人」で、三宅雪嶺(樋口一葉の姉御分、田邊龍子の夫)が長崎の三菱弥太郎のもとにある「高島炭坑の惨状 」を掲載し、社会問題を引き起こしました。

 ただ、わたしはいつも思うのですが、三池炭坑始め、日本の多くの炭坑で悲惨な労働条件のある場所はたくさんあったはずなのに、なぜ高島炭坑事件だけがこう教科書に大きく記載されるほどになったか知りたいと思いました。

 ちょっと調べてみると、こんないきさつがありました。

雑誌「日本人」の社員松岡好一は、高島炭坑の鉱夫への暴力的な拘禁と悲惨な死が病が勃発するにあたって、当時三菱を擁護した犬養毅に朝日新聞上で決闘を申し込む(明治21年9月8日)が、犬養は野蛮だと回避しました。(明治21年9月10日)

 犬養毅の言葉では、「二三の新聞紙のいたづらに陰で人を傷つけようとしている」と述べています。(明治21年9月11日朝野新聞報道)
 松岡好一は三宅雪嶺の北守南進論に共鳴し活動し、その後、大陸浪人として中国問題に関わりました。

 あまりの社会反響の凄さに、政府調査団が入り、是正措置が図られたという(明治21年9月13日東京日々新聞)が、実際のところ、官営の時からすでに囚人労働をさせていて、岩崎の買収前からひどい有様だったらしいのです。

 しかし、三宅雪嶺は決闘を野蛮というのは浅ましいと犬養毅を糾弾しました。(明治21年10月2日東京日々新聞報道)
 こうして、決闘をめぐって法律家も激論する自体まで発展したのです。(明治21年10月2日東京日々新聞報道)
 ただ炭坑事件の解明と救済と言うより、政府内の確執もあったのかも知れませんが、ここでは脱線するので省略します。

 佐賀県出身でありながら、高取伊好は高島炭坑に関与していた技師であり、苦労話も伝記を紐解けば理解できます。明治19年、彼が県内最初の大規模炭坑に、芳谷炭坑の実地経営者となり、27年には引退して29年相知炭坑を開坑しました。

 明治44年代には、三菱財閥や筑豊の貝島太郎・麻生太吉(現自民党議員麻生太郎氏の系譜)の三者が県全体の坑区の50パーセント、坑夫人員の60パーセントを占めました。それに対して高取は、明治35年に杵島炭坑を開業し、県全体の坑区・坑夫の20パーセントを確保しました。しかも、大正11年に高取系の出炭高の75パーセントを占めたが、その後は時代とともに元気をなくしていきました。

 話を戻しますと、ともあれ、佐賀において、旧高取家は、大事な産業基盤であったことは間違いありません。高取氏も、資本家としてただ算盤を弾いていただけでなく、技師としてだいぶ苦労もしたのだろうから、炭坑時代の労働条件が悪かったことはあろうが、地元の人には、そう悪評はない名士のようです。地元の福利・教育に力も注いだようでもあります。

 ただ、上に立って経営し、これだけの生活ができる人は当時少なく、やはり搾取した側と言われてしまえば、現代の労働条件からすると、やむなしと言う気がします。

しかし、一方で、これだけの文化を築き守る立場であったことも考慮すると、世の中清濁飲み込んであるのだと改めて認識しました。

 わたしは、美術品を眺めるという立場でしか思考していなかったので、見学当初は、友人の言葉のような内容まで考えられなかった自分を恥ずかしく思いました。わたしも生活に困れば、こうした旅行も美術品を愛でる余裕もなくなります。

「衣食足りて礼節を知る」という言葉がありますが、市民が平穏に過ごすことができて、初めて文化財の意義を認めて賞賛をするわけです。違う視点で、ものを見ることも大事なことだと思いました。

 ただ、今回見学した旧高取家の内装は、文化的にもレベルが高く、多くの方々にその質の高さを味わっていただきながら、過去の歴史も振り返る契機になっていただければと思っています。

○参考文献多数

司馬遼太郎「街道を行く」

鈴木孝一「明治日本発掘」

他(全部記載できず、申し訳ありません)


金沢花街物語

2008年01月12日 15時08分57秒 | 旅行記

お題は「金沢花街物語」

一晩能登の和倉温泉で日本海を眺めながら湯にImg_0007_5 浸かって金沢へとやって来た。

犀川の河岸段丘に建てられた金茶寮本店近くを通り、渋谷の神泉の花街にあるような段々の緩く広い坂道を、足にまといつくスカートの裾を払いながら降りて行く。

犀川のほとりをずっと歩いて行くと、河の上空から、とんびがわたしの頭上近くを羽を広げて横切り、ピンクのしだれ桜の花がもう枯れかけた木々の上まで飛んで行く。

犀川周辺の木々は新緑が眩しく、河のせせらぎと青く清い水に心洗われる。
室生犀星が「旅に出づれば心洗われ」と歌ったように、わたしの心も晴れやかになる。

この時期、来年のNHKの大河ドラマの撮影を開始したらしい。立て看板が目立った。(残念だが、わたしはドラマを見ていない)

加賀三代前田利常が奇抜な知略で移築した利家の「祈願所」だった日蓮宗・妙心寺を拝観する。
忍者寺の異名もあるが、ここは公儀隠密や外敵の目を欺くために隠し作りと迷路のような作りとなっている。
忍者とは関係はない。

実際、自分がそこへ入り込んでぐるぐる寺を廻ってみると、その巧妙さに驚く。生き残るには、ここまで深く謀をしなければならなかったのか、と体感した。

利常は当時加賀藩征伐に向けて幕府が目を光らせていたために母親を人質に差しだし、徳川家から嫁をもらって、参勤交代の際に痴呆を装いつつ、内部の本国では軍備を着実に進めていた。

よほど強い意志もあったのだろうが、参拝場所に庶民と同じように好きな時、仏を拝めるように隠しの二階部屋をしつらえた。
そのわずかな隙間より、利常は本尊に手を合わした。

 多くの観光客と畳に座りながら、わたしは首はひねって、その二階部屋へと視線を飛ばし、まるで今でも利常がいるかのように感じてじっと見やる。うーん、よく配慮された作りだな、と感心する。

落とし穴や隠し階段、金沢城まで続くと言われる伝説の井戸もあり、巨大な曲がりくねった梁が母屋を支え、重い雪に長年耐えて来た。
開かずの間は切腹の場所だが、加賀藩は持ちこたえて使われずに済んだ。
利常はいつも背水の陣で政を行っていたのだろう。
そんな緊迫感のある寺である。恐れ入った。        Img_0004_2

香林坊の繁華街を抜けると、用水沿いに長町武家屋敷跡があり、 鼈甲色の土塀と古木の取り合わせが昔の風情を感じさせる。

浅野川のほとり主計町のお茶屋は庶民の廓で、緑水苑に泉鏡花の作品の一文の碑がある。
どこか哀感が漂う、黒い瓦屋根の格子戸の街。
一度変名されたが、また戻った。「かずえちょう」。
五木寛之が「朱鷺の墓」ほか廓の物語を描いたが、過酷な仕事で泣いた女性も多い。

 ここで、わたしはうるしの手鏡を買う。
黒塗りのうるしの地に山吹の花が描かれている。
「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」
子供のいない自分のような花。
似つかわしく感じて手に入れた。

ひがしの茶屋街は綺麗に美観保存されている。
桟の細い間の紅殻格子の茶屋。
「志摩」という茶屋は昔のまま公開されているが、Img_0001_2 二階建てが 珍しい庶民にしては贅のあるつくり。
襖の緑の七宝焼きの引き手、天井の木組みなど、細部に狭い空間 ながら心配りがある。

 金沢は芸どころで能も舞ったし、和歌も俳句も作り、琴や弦の遊びまで披露された。
ここに富商だけが息抜きにやって来た。
男性も京都で遊んだことがあればこういった感じはご存じですね?

わたしなぞは明治維新で家が没落して身を売り飛ばさたと想定する。若い頃に若旦那さんに一晩お相手していただいて、遠く堺の商人だったお人が一度切りのことで帰国してもう忘れているのに、まだ思い慕っている籠の鳥のような身になった、などと、はかない恋のヒロインに扮して、その身を想像してみた。
 こじんまりとした小奇麗な座敷だが、男をただ待つだけImg_0002_2 は辛い。

懐華楼は金沢市保存建造物になっていて、今も年に三回ほど芸者衆が芸を披露して一般客相手の舞台になる。
ここの作りは補修されて、非常に綺麗になっている。

二階の畳は三つの色に分けられている。
群青の間は、畳を藍で染め上げていて、加賀友禅の着物が飾られ 今ではもう製作されない錦秋が布地に施されている。

ベージュの薄い黄色の間は、畳をタマネギで染めていて、市松の間と呼ばれる。いわゆる市松模様に畳みを正方形で組みあげた部屋があった。

天井から下がっている電気器具の傘には鯛のうろこが和紙Img_0003_2 の中にちりばめられて、点々と透きとおって飾りとなっている。
壁は漆喰塗りで、階段は朱塗溜塗りである。

奥のうぐいす色の畳は、よもぎで染めたもので、その部屋の壁には、明かり取りのために、飾りのような丸い木組みの装飾の窓がある。わたしが実際に畳に座って、その丸い窓のようなところから廊下を見やると、ちょうどお客さまが階段から上ってくるのを眺めることができる。
その時に、わたしだったら、身繕いをし直して、居ずまいを正しただろう。

今ではすっかり観光客のためだけの感じだが、和室は座って見ると、 昔の人の視線がわかり、部屋の装飾工夫に目が行くのが楽しい。

 金沢では、あと、興味を引いたのは、寺島蔵人邸跡で見Img_0005_2 た寺島応養が描いた「牡丹折枝図」で、ブルーの花びらの牡丹図を初めて見たような気がしたので、珍しく感じた。とても印象深い。

 今わかることは、牡丹は赤い花をもって最上とされる、中国上流貴族に愛された花。花言葉は「王者の風格」。なぜ「青」なのだろう。
 牡丹は島根県の県花で、松平治郷が愛した花として有名だし、殿様好みなのね。
 無知でわからないが、わたしはなぜか儒教的な香りを感じた。だが、そうだろうか。

いや、違う。よーく熟考すると、「文人画」だ。中国南宋の文人画らしきもの。
 中国文人画を描くということは道教思想を知っている。 Img_0006_2      
 つまり、当時のたいへんな知識人であり、高い教養人だったということになる。

 当時の儒教の教えの中にある武家社会に身を置いて、現実では君主・上役に服従を強いられながらも、その精神は高雅に羽ばたいて自由に遊んだのが文人画の世界である。

  (注・・・(財)金沢文化振興財団の ホームページより
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   寺島蔵人(くらんど)(1777~1837) は、禄高450石の中級武士として加賀藩に 仕え、 文政7年(1824)12代藩主前田 斉広(なりなが)が教諭方という藩政改 革のための親政機関を設置すると蔵人も その一員に加えられたが、その年斉広の 急死により教諭方も解散した。
  蔵人は手腕家であると同時に生来、思いやり深く正義感の強い人であったため、斉広死去後の藩の重臣の政治に納得がいかず、これと対立し、天保8年(1837) 能登島流刑となり、その年ここで波乱に 満ちた生涯を閉じた。
  蔵人は画人としても知られ、王梁元(おうりょうげん)、応養(おうよう)と号し、秀作を多数残している。   以上
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わたしにお金があれば、加賀友禅にでも目が行ったであろうが、 悲しいかな、眺めるのも空しいのでやめた。

でも、わずかながら伺われた昔の面影を追えたのは嬉しい。

印象としては新しい都会と化していたが、よくよく眺めれば、 やはり古都の趣は至るところで見受けられた。
当時の加賀藩の深慮遠謀な生き残りの智恵や、商人の粋な遊びの空間に心奪われ、先人の遺産の大きさに唸る旅になった。

   (C)2005 copyright by みなりん                                                 


詩「法師温泉」

2008年01月05日 00時54分49秒 | 旅行記

「法師温泉」                                                          Dscn0518

浴衣姿の君が大きな神棚の前で佇む

八幡様、大黒様、恵比寿様、天照大御神、出雲大社、など

君は歴史が好きで弘法大師のゆかりの湯よなんて

少しは無口なってほしけれど良くしゃべるね

火鉢にフランス人と恋人が寄り添っていて

混浴にいたよ 僕たちはどうしよう

男女別に大きな風呂へ交替で入るけれど

明治20年代のイギリス人設計の湯広々してる                  Dscn0514

むこうの天城の湯から

白い雪をいただく山が見えたわ

そう君はなんども通い湯する

僕はすっかりいい湯でのぼせてしまった

昭和15年って三国同盟の結ばれた日よ

君は昭和館にしようか明治館にしようか                                     Dscn0531

それをすぐ歴史に結びつけるね

与謝野晶子の部屋や

若山牧水の部屋を見たがっていたね

また来ればいいじゃないか

法師温泉は木がふんだんに使われていて                                 Dscn0492

ほんとうに居心地がいい

廊下を歩くのも楽しみだね

薄暗い中で法師温泉に浸かった君は

満足そうに微笑んで帰って来た

木目はいいね                                                                                Dsc00471

畳も炬燵もいいね

僕たちが都会で失ってしまったものがあるね

君はいつも土地の人とよくしゃべる

みやげ物屋に何時間いたんだい

ちょっと面倒な女だね

椿山房で

時間がなかったわ                                Dsc00430

君は資料を丹念に見たがっていたけれど      

バスの時間がないよ

また来ればいいじゃないか

ミュシャの挿絵に似た

『明星』の挿し絵をつくづく眺めていたね

君も源氏物語を訳すのかい

そんなことを夢見たことがあったね                     Dscn0539

君は欲張りだから一箇所にじっとしていないよ

そんな欠点だらけの君だから

僕しか君を見てあげられないよ

教会があったよ

今度は見てご覧

また来ればいいさ

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詩「越生の梅林」

2008年01月03日 23時43分31秒 | 旅行記

君は今日も天気がいいと花見だね            Dsc01260_2

なんでまた、越生まで東京から行くのかい

江戸城築城した大田道灌の父道真の隠遁の地さ

大田道灌は暗殺された

道真と健康寺とは縁が深いんだ

今は無人の寺だがね                        Dsc01169_2

君は土地の人にざわざわ尋ねて歩いて行くんだね

梅林は春の小川の傍にあって

水がさらさらと透明に流れていく

その近くに品格高い白梅が枝を伸ばしている

最勝寺の庭は梅が綺麗だったね                 Dsc01221_2

遠くには山々が見える

越生の梅林と言われる場所以外を

七福神を訪ねて行くと

一面あの辺りは白梅の森があって

まるで桜が咲いているかと見まがうよ               Dsc01213

君はすまして歩いているけれど

地図を見て大丈夫かい

円通寺まで行くのに

道を教えてくれた酒屋さんは親切だね

庚申塚があったり、地蔵があったり、かなり古い町だね   Dsc01238  

弘法山まで階段を登って行くんだね

真言律宗だ 木に梵語が書かれている

住職がなんだか珍しがっていたね

馬頭観音がいらっしゃるよ

ここは弁財天 芸能と恋の神                    Dsc01244                    

すずらんまで笑っているよ

福寿草が咲いていたね

越生は一面ずっと白梅が咲き、菅原道真を偲ぶよ

君はあいつを思うとため息をつくだろう           Dsc01125

彼は君をなんとも思っていないと言っているのに

でも、白梅やしだれ梅だけは君を包んでくれるよ

白い花々の中で君は迷うかい

君は山岡鉄舟ゆかりの最中を甘味好きで、また買うね

なぜか明治天皇の侍従なのに勝海舟ほど有名にならない  Dsc01298

そう、ちょっと列車の中であいつを思い出す

君は、ほんとうは誰が好きなの

それは僕だけが知っているよ

君の好きな人を思うと僕は痛みが走るよ

あいつにとって君は通りすがりのひとりさ               Dsc01272_2

君は違ったね

そう、いつも君は誰かを待っている

白梅の中で仰ぐ顔が明るいよ

そう、そういう顔をしていないとね

君の気持ちはわかるが、           Dsc01282

思い通りにいかないね

白梅の甘い香りと楚々とした美が

君の瞳に写っているよ

白梅咲く中、待っているんだろう

いい加減忘れないか 忘れられないね

ひっそり遠くから待つ女さ 

白梅の女は                     Dsc01128

君の思いが東の風に乗って、西へ吹き、

あいつが香りが残っているあいだに思い出すといいね

やるせないね せつないね だが、待つ女さ

白梅の女は


奈良紀行女ひとり旅パート2

2008年01月03日 14時11分54秒 | 旅行記

「奈良紀行女ひとり旅パート2」

「1 般若寺」

わたしは次に向かったのは、紳士と再会を約束した、般若寺であった。
開基は朝鮮高句麗の僧慧灌(えかん)と言われる。
聖武天皇が735年官寺とし、堂塔を建立したと伝わる。

戦乱で伽藍が焼けて再建を繰り返す。Izumo006 十三重石塔は高さ14メートル。日本最大級の多重石塔である。周りをコスモスが夢のように咲き乱れて、何人かの人がコスモスの波の中を散策して、遠く十三重石塔を眺める。

ソフィア・ローレンが映画『ひまわり』でぼんやり立ちつくすように、わたしも般若寺という名前が不思議なほど穏やかな寺の周りを、夢うつつのように巡る。

四方がコスモスに囲まれて、秋の風情に浸る。可愛らしいピンク色のコスモスが幻想的である。ここで映画の撮影に使用したら、さぞかし綺麗なことだろう。

 風にそよぐコスモスにトンボが静かに留まっていたりする。自分という存在がなんだかいとおしくなるような、柔らかさに包まれる。

200210_037 一句

コスモスの風になびきて平成は般若寺の名に首かしげたり

 後で知ったことだが、奈良市北方地域には中世「」と呼ばれ差別された病人(ハンセン病など)や貧者などの住む地域だったらしく、西大寺を本山とする叡尊が社会事業を展開したらしい。般若寺は火災、兵火、廃仏毀釈など何度も困難を乗り越えて現在ある。

 般若寺の客殿は、現在の荏原製作所の創業者の畠山一清が、元薩摩藩主島津家別荘跡地を購入し、東京白金に移築して料亭「般若苑」として、現在営業されている。
わたしも何度か足を畠山美術館へ運びましたが、趣深い場所である。

ここを拝見し終わると、駐車場に、あの親切な紳士が到着して待っていてくださった。
「ありがとうございます。ほんとうにいいのですか?」
わたしがそう述べると、紳士は
「ああ、良かった。またお会いできましたね。さ、参りましょう。車でないと不便な場所ですから」
紳士は穏やかな笑顔を向けてくださった。わたしは車に乗り込んだ。

随分走って、どんどん山の奥へ車が上っていく。行きは、車と行き交うこともほとんどなく、長い時間どんどん人里離れるので、わたしは紳士を信じていいと思いながら、身体が硬直し、いや、もし、なにかあって殺されたり脅されたら、もう一貫の終わりだと緊張感が走り、怖さで胸はいっぱいになって来た。あんなに怖い思いを旅でしたのも久しぶりである。内心はらはらして、身体に悪かった。紳士もそんなに話しかけて来ない。

「2 岩船寺」

やっと、岩船寺に到着した時は、胸を 内心なで下ろした。天平年間に聖武天皇が阿弥陀堂を建立を発願され、行基に命示して創建されたと言う。観光客は全く居なくて、紳士とふたり御堂にあがる。

ここの僧侶が、大きな金色の阿弥陀如来を仰いで祈って眺めていると、
「世相が厳しくなるほど、阿弥陀さんが円く円く作られたのです。」
と述べておられた。

わたしは、その金色の像が、どうしてこんな山奥に出来たのだろうと思うと、昔の人の信仰と祈りの篤さに圧倒された。

 確かにまるまるした巨像の阿弥陀如来様で、仰ぎ見て感心した。現在、不景気だが、人々の祈りの心をしっかり胸に焼き付け、祈った。

 奥には、象に乗る高さ40センチの藤原時代の作で、普賢菩薩の小さな像があり、自宅においておきたいほどの気品と美しさがあり、敬宮愛子さま誕生の折、象がインドからお祝いに贈られたことなどが解説されていた。外国の方がそうお祝いするほどである。それにしてもこの像は美しい。

 わたしは白い普賢菩薩を拝見して、愛子様の将来を思案した。この像のように、大事に養育され、聡明な女性になるように祈った。そして、あらゆる日本の女性に希望を与えてほしいと願った。

一句

岩船寺阿弥陀如来はふくよかなお身体なりし衆生救済

「3 浄瑠璃寺」

 次に浄瑠璃寺へ行く。
735年行基が創建と言われている。寺伝には義明上人の説もある。
都会から離れ、王仁の乱で燃えなかったので、昔の風情が色濃い。
 200210_048 朱塗りの三重塔(国宝)は東方浄土の救済を行ない、西方浄土へ送り出すと伝えられる。中央にある弁財天池の前で振り返って、西にある本堂の、定朝様式の藤原時代の、阿弥陀如来九体仏(国宝)に来迎を願うと良いらしい。

 昼間は、三重塔の方の傍の池から、本堂の扉が開け放たれて、九体仏を遠くより拝見できるようになっている。大きな九体仏が圧巻で、それが九体いかにも仏教の数らしい感じがする。

 往生には、九つの往生があると言われ、人間の心がけで下品下生から上品上生まである寄木造り金200210_042_2 箔。壮観な眺めであった。思わず、圧倒されて何も頭に浮かばなくなった。

 この時期、ちょうど、秘仏吉祥天女像(鎌倉時代重要文化財)が開帳されちて、五穀豊穣・天下泰平を祈る。厨子の周囲には、梵天。帝釈天・四天王、弁財天など諸像が見事な彩色で描かれている。吉祥天が麗しく、わたしが眺めていたら、受付の女性が「水の女神ですよ」と教えてくださった。 五穀豊穣を祈る、平和の女神。

 200210_044 時は、ちょうど京都市で世界水のフォーラムが主催されていた年で、いかに重要なテーマか、心に残った。お堂宇で吉祥天にぬかずく男性を拝見して、仏教はまだ死んでいないと感じた。
 「水」貴重な「水」。人間に必要で、日本の水はまだおいしい。水が美しく清らかだから、天皇の祖はこの日本に移住して来られたのだ。高千穂狭で天孫降臨が事実かのように感じたのも、緑の濃い神秘的な瀧の存在を見て、
「ああ、こんな美しい場所があったとは」
と思ったほどで、「水」のおいしく美しい国が日本だったと、ずっと思っている。豊かな水に恵まれて、どれほど素晴らしいことだろう。

 ヨーロッパに行き、イタリアで水を買うしかないし、ただで水を飲めないのをほんとうに不自由に感じたし、ほかの地域でも水は貴重なもので、いかにわたしたちがその当たり前のように飲んだり使う水が貴重で大事か、昔の人はしっかり感謝していたことを感じさせた。

 吉祥天の扉の絵も、中の細工も色遣いも繊細で綺麗で、絵はがきを購入し、胸が熱くなった。吉祥天が神々しかった。女性が頂点にいると、柔らかな気持ちになり、優雅な気分になる。平和を毅然と見守るようだと。
 
 わたしを案内してくれた男性は、わたしが仏像に見惚れていると、黙って待ってくださっていた。

200210_040 途中、

「お礼にお茶などいかがですか?」
と述べても、
「いや、結構です」
と述べられるので、何もお返しができていなかったけれど、吉祥天を拝見し、
「この吉祥天の開帳時だから、わざわざ見せてあげようとしてくださったのだわ」
と気がつき、深く内心感謝した。 浄瑠璃寺にいらした阿弥陀如来堂から、僧侶がおふたりお出ましになり、三重塔を見つめていたり、お庭の花を見つめていた、わたしたち二人に微笑んで帰りを見送ってくださった。
        200210_047_2

 寺に障害者の方が製作なさったという綺麗な絵入りの石けんを土産に購入し、それを見つめていた紳士の顔も優しかった。ほんとうの善意とご好意によるものだと、改めて知って、帰りの車の中では、ふたりの会話は弾んだ。

 

 わたし、日本人で、なんて幸せなんだろう。なんて、すがすがしい気分なんだろう、そう思って暖かな気持ちに浸った。

一句

浄瑠璃寺吉祥天を拝顔し黒髪に紅金に勝れり

 車の中で、紳士が正月になると東大寺に初詣をしに行くらしく、わたしがお礼状を書きたいので、
「住所を教えていただけますか」
と述べると、
「一期一会ですから」
と言って、駅まで送ってくださった。珍しく大事な御縁だった。

 何度もお礼を述べて、近鉄の駅へ向かうと、駅のチケット売り場まで、あの紳士が
「待ってください」
と大きな声で呼びに来た。
「あ、どうかなさったんですか?」
そう思って驚くと、
「吉野家の牛丼しかなかったと言っていましたね。ちょっと来てください」
そう言われた。

 驚いて紳士について行くと、柿の葉寿司の売店まで連れて行ってくれた。
「ここのお寿司は名物です。是非電車の中で召し上がってください」
そう述べると、いいですよと言うわたしの言葉を遮って、柿の葉寿司を購入してくれた。
名前は・・・・。うーん、何年も前で思い出せないが、非常に有名な店だった。後に食べて、ほんとうにおいしかった。

 紳士は微笑んで、
「奈良にもおいしいものはありますよ。一期一会です。僕はこのことばが好きでしてね。何かの御縁です。お気をつけてお帰りください」
そうさらりと述べて、車にお乗りになった。
「ありがとうございます」
 そう言いながら、車が豆粒のように見えなくなるまで敬礼した。
 心から、釈迦のお使いの方ではないかと思うほど、たいへんなお世話になり、仏教を身近に感じた旅になった。

 紳士がとても良い方だったせいか、わたしは奈良をまた見直し、日本の良さを深く味わったのである。
 東大寺のお水取りを想い出し、懐かしさとありがたさでいっぱいだった。
 奈良、なんと美しい平城京(710年)・・・・。

終わり