みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

「河口湖女きままひとり旅」

2008年01月13日 08時32分29秒 | 旅行記

「河口湖きままひとり旅」その一

 7月中旬、仕事も一段落して、平日女ひとり旅に出ました。
 甲州の人は強いなあ、さすが武田信玄の生まれた国らしいと思いました。
 これは、太宰治の碑から感じたことです。これは後ほど述Img_0024 べます。

 都内から近い河口湖湖畔のリゾートホテルに宿泊しました。なかなか女性のひとり旅でいい宿泊場所を見つけるのはたいへんです。

 わたしが今回宿泊したホテルは、オルゴールをかけて歓迎してくれて、大きなベッドのある柔らかいベージュを基調とした配色の客室に案内してくれました。
 ホテルには、油絵が幾つか飾ってありました。「k.oya」 のイニシャルがあり、ロビーにはアッシジのサン・フランチェスコ修道院教会かしらと思う絵が描かれてありました。 また、ロイヤル・コペンハーゲンの独特の綺麗な青い飾り皿も幾つか飾られて並べてありました。

 でも、一番気に入ったのは、少し高台のホテルの部屋から、河口湖が目の前に広がっていて、とても見晴らしが抜群だったことです。 緑に縁取られた湖の眺めは、7階の部屋から見ると、実に優雅な気分にさせてくれます。          Img_0032_3

 暑い中歩き回って、昼間汗をかき、温泉にまず入りました。ここの温泉は、無臭のさ
らっとした温泉で、肌にべたつきません。浴槽もほどよい広さです。
 アロマテラピーのマッサージを予約して行きましたが、今までになくリーズナブルな値段で、長い時間気持ちよく応対してくれます。思わず、うとうとしてしまいました。

 夕食は、昼間の黒のカジュアルなパンツ姿から 少しドレスアップして、フランス料理のコースをいただきました。エビのスープがコンソメ味でとてもおいしく、ホロホロ鳥のお肉は驚くほど肉質が柔らかで、お料理は満足できるものでした。

また、女性ひとりのわたしにメニューの紹介をしてくれながら、淋しくならないようにと言う配慮なのでしょうか、ホテルの方々がうるさくならない程度にさりげなく声をかけてくれるのが、とても嬉しく感じました。

 ロビーのソファに座って新聞を広げれば、さっとホテルの方が冷たいハーブティーをグラスに運んで来てくれます。
 送迎もにこやかに電話一本ですぐ来てくれます。
 女性ひとりに優しいホテルは、実に有り難いものです。

 河口湖の周りは、最近新しい美術館などがたくさんできていて、ひとりでいてもあきない楽しさがあります。

 一日目は、与勇輝常設展がある河口湖ミューズ館に行きました。森林伐採を嘆く「ニングルストーリー」のお人形は、妖精の可愛らしさが溢れていましたが、特に印象に残ったのは、作者が人形を「いつも笑っていたら、人形の疲れてしまう。だから、笑った顔にはしない」というようなコメントがあったことです。人形にも魂があると感じているから出る言葉なのだろうと思いました。

 わたし自身が最近精神的に好きな人を失ったせいでしょうか、人間の男性を好きになった罰を受けて仲間外れになった妖精の姿がもの哀しく、心を打ちました。好きになってはいけない人に憧れるのは罪なことだけれども、「忍ぶれど色に出にけり我が恋は物や思ふと人の問ふまで」と言うほど、情念は抑えれば抑えるほど妖しく光ってしまうのでしょう。

与勇輝さんの作品は、ご自分の子供時代の思い出のものを郷愁にかられてお作りになったようなひと昔の日本の人々の作品もあり、わたしの明治生まれの祖母を思い起こしました。人形から溢れるこの情感は何であろうと、しばらく飽かず眺めていました。

 この美術館の周辺には、この時期、ラベンダーの薄紫の花々が咲き乱れ、青空と翡翠のような湖面と花々という取り合わせで彩りが豊かで、しばらく夏の暑さも忘れて、名物のラベンダーアイスクリームの奇妙な味を舌で味わいながら、ぼうっと景色を眺めていました。ホテルの方が言うことには、今年の暑さは異常でこちらは雨もほとんど梅雨の時期も降らず、ラベンダーの色が今ひとつ冴えない、と言うことでしたが、もっと例年は色が鮮やかだったのでしょうか。残念なことです。

 この夏の異常な暑さで、京都議定書の件がいつも心にひっかかって、ちょうどこの頃イタリアのジェノバ会議のことを新聞で読んでいたから、どうなるのだろうと気にかけていました。ホテルの方の「今年は雨が少ないし、こんなことはかつてなかった。」と言う言葉に、わたしも最近のこの暑さは、人間にも外国では多大な害を及ぼしているので、日本にも「花」どころかとんでもない事態が襲って来るのは時間の問題だから、のんきなわたしですら身近に危機の兆候を感じました。わたしはアメリカの参加を是非望み、速やかに国々が対応して気温の上昇をくい止めないと、たいへんなことだと思って心痛めました。わたしは今アルバイトで、高校生の時事問題の小論文を添削しているから、ついそういう方向に考えてしまうのです。旅行先でも考えてしまうなあと苦笑しました。

 その後、久保田一竹美術館で辻が花の着物を拝見しました。久保田さんのお父様は、骨董屋さんだったそうで、お父様が収集されていたいろいろな国々のトンボ玉も展示されていました。アフリカなどから久保田さんのお父様が収集したトンボは、昔、とても貴重で、人間ひとりと人身売買して交換したほどでした。今は、相撲の有名な江戸東京博物館の傍の店で見かけたところ、なんと6千円でもアフリカのトンボ玉は入手できてしまいます。時代とともに、需要と供給の関係で商品価値は変わります。

 辻が花は、その模様を照る照る坊主のように布を寄せて絵の具を乗せていくので、完成した構図を緻密に頭で考えて作らないとうまくいかないので、たいへん高度な技術が必要なのだそうです。色鮮やかな富士をテーマにした鑑賞用の着物が何枚も飾られていて、豪華絢爛とした眺めでした。歌手のアルフィーがロックコンサートで辻が花の衣装をまとったそうで、陳列されて紹介していました。

 奥のほうにあったに小さな滝が幾つも流れている盆栽のような日本庭園の見える美術館のカフェは、水の流れる静かなところです。ここのぜんざいは小豆が非常に粒が大きく美味です。わたしは誰にもじゃまされず、のんびりひとりお茶を飲んでお庭を拝見していたら、外で中国人の男性が熱心に移動しながら庭の写真をカメラに撮影していました。彼は、日本庭園がよほど珍しかったのでしょう。係員の人にも中国語で盛んに作品について質問していたのを見かけましたから。

 よく食べるわたしは、ここのレストランで昼食もいただきました。スペインの建物のような雰囲気があり、テーブルに青や緑の一輪挿しのガラス瓶が涼しげで、噴水を眺めながら食事を取りました。

 そして、次に中原淳一美術館に行きました。大正時代に大活躍した美術界の人です。
 ひと口にそう言っていいものかわかりませんが、「ひまわり」などの挿し絵や服のデザインなど、あらゆる創作に携わり、人形作りをきっかけに有名になっていきました。中原さんの作品は、今見ても斬新な感じがしました。色使いが見事で、おしゃれはちょっとした工夫でできるものという持論がありました。

余り布でクッションカバーを作り、可愛い男の子や女の子の顔をパッチワークのように縫製していて素敵でした。良いものは古さを感じさせないものだと思いました。中原さんのエッセイもとても素晴らしいセンスをしています。女の子が女の子らしくありたい、こう言ってもいました。わたしもそう思います。

 せっかく女性に生まれたら、女性らしさもあって、その良さを生かしたいと思います。中原さんは、戦前軍の意向に反すると言う理由で「少女の友」の挿し絵などからおりました。館内に流れていたシャンソンなどの雰囲気からして、中原さんの美術館は自由を謳歌した大正ロマンが溢れていました。

 
「河口湖きままひとり旅」その二

 二日目、河口湖の近くにあるロープウエーに乗って、天上山の展望台に行きました。
 ここは、別名「カチカチ山」と言います。
 昔の民話にあります。戦前の教科書に載せられていました。

 現在はのどかで動物の置物があったり、遊園地のようです。
 展望台では太宰治のことも大きな看板で紹介されています。
 この山の中腹には、太宰治の碑があります。太宰の作「御伽草子」の中のお話のひとつとして、「カチカチ山」という物語があり、そのお話の中の太宰の言葉が碑になっています。
「惚れたが悪いか」

 ちょっと「カチカチ山」についてお話しましょう。
ご存じの方も多いかと思いますが、お爺さんに捕まった狸が、危うく狸汁にされるところ、お婆さんを逆に殺して婆汁にしてしまうのです。

これを知った、お婆さんたちに世話になったことのある兎が、Img_0026_3 狸に仇討ちするのです。
 薪を背負わせて背に火をつけて、「何の音だ」と尋ねる狸に兎は、裏山がカチカチ鳴っている音だというのです。ここから、天上山はカチカチ山と呼ばれます。

 この話の最後は、狸が兎に舟に乗せられて、河口湖へ沈められてしまうのです。

 太宰治は、兎を男というものを知らない処女に、狸を好色な中年男に見立てて話を書いていきます。男は処女に恋してどこまでもだまされてもだまされてもついてゆくのです。太宰は、兎の仇討ちが「武士道にあらず」と言って、こんなに残酷なことができるのは、兎は青春期の女性で、どこまでもついてゆくのは狸が37歳という40歳に近いことを意識している複雑な心境の男であるからだろうと考えるのです。
 兎が最後に狸を殺そうとする時、狸は「惚れたが悪いか」と言って亡くなります。

 富士山が見事に正面に裾まで綺麗に見晴らせるこのImg_0028_3 展望台は、素晴らしいところです。太宰の碑のある中腹も、やはり綺麗に富士山が見晴らせる場所にあります。

 実は、河口湖を見るのは、ロープウエーの降り口からが一番の眺めとなっていて、展望台からの眺めも素晴らしいでが、こちらもお勧めします。こちらは外れに縁結びや厄除けなどの瓦投げによる的当てがあります。

天上山には昔「古事記」の世界でニニギノミコトが美しい姉妹を妻にして、妹のほうだけを召したため、呼ばれなかった姉の姫が恥じて自ら身を引きました。恨むことなどせず、徳がおありだったため、縁結びの神として祀られています。 これは天上山の看板に書いてあったことです。

 しかし、実際は、姉の気持ちではなく、「古事記」の記載だと 父の国津神が恥じ入って、姉を引き取ったのです。この姉の名前が石長比売(いはながひめ))と言い、天つ神のニニギノミコトに国津神は石のように永久不変の命を授けようとしたのですが、花のように華やかにお栄えくださいと父親が献上した妹の木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)だけを召したために、国津神の呪言によって天皇の寿命は桜の花のようにはかなく散り、長久ではなくなったとされています。 

木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)は霊峰富士山の女神で、「竹取物語」のかぐや姫が最初女神とされていたようですが、後にこの姫が浅間神社で祀られて、富士山の女神はこの方と定まりました。                                                              Img_0029_3

 この婚礼儀礼の話は大和朝廷が隼人の娘木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)を
娶ったので、薩南の辺境まで支配が及んだことを物語っています。
 話を戻しましょう。ちょうど帰国子女らしい年頃の少女が、お母様と一緒のようで、その瓦投げにチャレンジしていました。

 すてきな旦那様や恋人と出会えますようにね、と英語で話して笑顔で娘さんを見守っていましたが、「この子信じてないみたい」と、お母様はわたしに屈託なく笑っていました。展望台には、中国人の方もいましたが、みなさんは富士山が雲に隠れて残念そうでした。やがて、天に昇ったような三つ峠へ向かう手前のこの展望台の見晴らしを一応堪能し、みなさんはロープウエーでお帰りになりました。

 わたしは、帰る前に看板で見た太宰の碑が気になり、20分かけて下山して、割と新しい碑を見て、また20分で駆け上がって登山して、ロープウエーに戻りました。登山していたら、碑を見るために次々と男性がひとりづつ日本人の方々ですが、挨拶してくださったり、「碑まで後何分かかりますか」と尋ねられたりして、すれ違って行きました。最初どこまで降りていいか心細かったわたしは、よくぞひとりで行ったと思いました。

でも、わたしはすっかり大事なことをひとつ忘れていました。それは碑の背に長部日出雄氏が言葉を刻んでいらしたのに、見ないまま戻ってしまったことです。このことはずっと頭に引っかかっていました。
 碑は、太宰の故郷津軽から石を運んだらしいです。新しいことも気になりました。
 さて、それからわたしは河口湖の美術館をまた巡っていったのですが、その話は次回にして、観光を済ました後、また麓まで戻ったことからお話します。

 この辺りの登山道から太宰の碑まで登れるだろうか、と思って帰宅の高速バスの時間を気にしながら、登山道の途中まで行きましたが、上から降りて来た年輩のご夫婦に碑までどれほどかかるか尋ねたところ、往復で時間的に無理なことがわかりました。
そして、「太宰の碑の背には何と書いてあったのですか」と尋ねたのですが、人の良さそうなお二人とも「惚れたが悪いか」と言って、あとは知らないとお答えになっていました。
 非常に気になりました。次回は見てみたいものです。

 太宰治の碑を見たい日本人の方は、ロープウエーで登りだけ行って、あとは徒歩で下山することをお勧めします。これが一番です。紫陽花の頃がImg_0031_3 いいでしょう。
 この話で狸が「かわいそう」とつぶやく娘を自分に似て馬鹿な子だと言いながら、兎のこの狸に対する行為は、太宰は「詭計」であると言っています。

自分の悪行に対する自業自得なのだからと言いながら、そう解釈した太宰に、長部氏は評論の記載の中で「これは戦前に兎が仇討ちをした忠心の厚いものと教えられていた人は、目から鱗が落ちたように感じた(価値観の転換を覚えた)」というのです。

 わたしは夜眠い目でこの話を読んだせいか変な解釈をひとりでしてしまっていました。長部氏のように感じるものなのか、碑にもそう言ったことが刻まれているのか、と知ることで、やっと一息つきました。

 実は、昼間その評論を見る前の晩に、眠い目で読んだそのお話は、太宰がアメリカ映画に触れていて述べていた箇所だけに意識が行ってしまって、「男女が純真に戯れているけれど、裏ではひどい行為をしている」が拡大解釈の元になり、かわいそうなのは原爆、空襲で逃げまどう「日本」ではないかなどと、余計なことを馬鹿な頭で考えて、太宰研究者に叱られてしまうと思いました。

 日本が昔様々な国際状況から戦争に追い込まれ、パールハーバーで奇襲をして、現在ではアメリカはその事実を知っていたと言う噂もあるけれど、「リメンバー・パール・ハーバー」でとことん叩きのめされました。

 わたしは昭和20年という昭和の占領下で、爆撃に怯えていた太宰は、巧みに言えない言葉を小説にして、発刊したのではないか、などと読んでしまいました。
 日本は世界で唯一の原子爆弾被爆国として、今も広島の原爆ドームは生々しく残っていて、海外から大勢いの方が歴史的な事実を見学にお見えになります。
 太宰治の墓は、三鷹市下連雀の「禅林寺」に森鴎外の墓と向かいあってあります。
 GHQ占領下では、日本人は複雑な思いを抱きながら、過ごしていました。

 『青踏』の平塚らいてふは、男女平等のためにも日本は敗戦して良かったと岩波のホールで上映したドキュメント映画の中で述べておりますが、当時の惨めな敗戦を経験した方々には、残虐な軍人もいたことでしょうが、一般の市民は「贅沢な敵だ」を「贅沢は素敵だ」と落書きしながら戦前は貧しくてもつましやかなに過ごし、廃墟の中で敗戦後死にもの狂いで生きてきたことは、まだ記憶に生々しいことでしょう。

想起しますと、ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」を読んで戦後生まれのわたし自身も衝撃を受けたように、日本人が物理的、経済的、精神的な打撃など様々受けた事実は否めません。当時のGHQの検閲も凄まじいものだったのです。その中で、太宰治は作品をヒットさせて行きます。
 でも、昼間読んだら、長部さんの言葉が普通なのだろう、と思いました。

 今はわたしにもアメリカ人の友人がいて、アメリカ人と結婚した幼なじみもいて、アメリカを今のわたしが嫌う理由もないわけです。

女性もひとり旅ができるほど、戦後は男女平等思想が幾らか広まって来ました。日本には「国民主権」の取得と、国家総動員法から「自由」になりました。法の下では国民は平等と謳われました。
 疑問に思う方はご自分で「御伽草子」をお読みください。昔、文部省で選定され教科書に記述された数々の寓話がパロディーになっています。

  しかし、あの人の良いご夫婦は地元の方のよImg_0034_4 うで、碑には「ただ、惚れたが悪いか」と書いてありましたよ、と屈託なく笑顔でお答えになっていたので、青空の下富士山が雄大に見える中腹にどんとある碑の言葉は、素直に取ったほうがふさわしいと思いました。

 太宰も作品の中で「惚れたが悪いか」に尽きると締めの言葉にしています。
作品がこの一言で完成されたと言われています。

 あのご夫婦にしても土産物屋、喫茶店の人々にしても、甲州の人は、屈託なく笑顔でいるところが凄い。「動かざること山の如し」と述べた武田信玄のように、どっしりしています。
 天上山には古い伝承があり、興味は尽きないが、たどるには時間が今はありません。

 ここで、狸が河口湖へかちかちと背中に火をくべられて、山を転がり落ちたという民話は、最初は「狸」が「熊」だったそうです。千葉佐倉の歴史民俗博物館の美男子館長平川南先生が、「古代日本文字のある風景」で、館内をガイドなさっていた時、昔は「熊」は「こま」と言って、朝鮮のことであるというようなお話をなさっていたことが記憶にあり、日本の大和王朝成立の話とリンクするのではないかと、今になって思いますが、検証はしておりません。調べているうちに、わたしの人生は終わってしまいそうPhoto_2 です。

 暑い日が続く中、イタリアで京都議定書の件で会見に応じていた小泉首相の顔が何度もニュースで流れているのを家で見ていたら、今回の天上山にまつわる太宰治の戦争中の話などから、靖国神社参拝を前にした小泉首相はどう参拝するのかなあと、その時はちょっと複雑な心境になりました。靖国神社に祀られている方々には、第二次世界大戦で罪もある人、ない人も混在していることを、アメリカ人であるジョン・ダワーも書いております。難しい問題です。

 もうこのお話を読んだ方には過去のお話になってしまっているでしょうけれど、わたしは、詳しいことはよくわからないので、雄大な富士山をのんびり眺めて、他国ともめることなく素直に「今の平和を噛みしめることの大切さ」を大事にしたいと思いました。
 しかし、近況変わって、テロのせいでまた世界が騒々しく危険になって参りました。

近いアジアのことでは、北朝鮮拉致問題、北朝鮮の核爆弾開発問題なども、今の日本人には信じられないような事件が続々噴出しています。大きな戦禍に巻き込まれて、国が廃墟と化したという過去の出来事を日本はもう二度と味わいたくありません。

 現在の世界の出来事に対して、とても一口では今の心情は言い尽くせませんが、古代文字が韓国などアジアという範囲で共同解明する時代になる喜ばしい時代に、過去の悲劇的な過ちは二度繰り返さないことが大事なことです。

 ともかく、今回の旅では、第二次戦争中の悲惨な生活の中で様々な思いが胸に去来したものの、「惚れたが悪いかに尽きる」と言い切った「太宰治」に、日本の文学者の潔さを見た気がしました。

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新・旧高取伊好邸宅見学記

2008年01月13日 07時00分55秒 | 日記・エッセイ・コラム

「唐津~旧高取伊好邸宅見学記」

 今日は、唐津で特別に見学会のあった旧高取伊好家住宅をご紹介します。
1997年か1998年だったでしょうか、見学に参りました。Img_0016

 国重要文化財に平成10年12月25日に指定されました。
所在地は、河村美術館(夭折の画家青木繁の展示)のすぐ近くにあります。

 わたしは伊万里焼の陶器に興味があり、今回普通の観光旅行がてら唐津にも行こうと思ったのです。美術工芸品を眺めるのがとても好きです。2007年現在、ここは一般公開されています。
 
 炭坑主として成功した高取伊好(これよし)(1850~1927)の住宅だったところで、唐津城本丸の西南の海岸沿いに建っています。                         Img_0017

 明治30年代、杵島炭鉱の経営が軌道に乗り出した頃、伊好は唐津城三の丸城壁の北、西の浜に本邸を建設し、明治時代の政財界人がしげしげと訪れ、私邸であるものの、迎賓館として、また会議、応接、式典、茶会、能楽会など、半ば公的な行事を行う場所でもありました。

 明治初年と言えば、外務卿に副島種臣、司法卿に江藤新平、文部卿に大木喬任、大蔵卿に大隈重信でした。司馬遼太郎に言わせると、汚職を嫌い、歪曲も許さない強烈な正義意識と非政治性は葉隠れの遺風で、秩序好きな気風が佐賀県人にはあると述べていて興味深いものがあります。          Img_0018

 終戦直後、闇米を買わず、昭和22年に餓死した東京地裁判事山口良平がそのもっとも典型的です。

 また、勉学熱心な藩で、佐賀県精煉方で中心になって働いた洋学者や技師の中に田中近江がいましたが、近江は「機械(からくり)近江」と言われるほど機械に明るく、その近江の子どもで名前は今わからないものの、その子が明治後に佐賀から東京へ上京し、芝浦で田中製作所を始めました。(司馬遼太郎「街道をゆく」より)

これが、後の芝浦製作所(株式会社東芝)の前身です。
  辞典によれば、創業者の一人、初代田中久重が、からくり人形「弓曳童子」や和時計「万年時計」などを開発し、「からくり儀右衛門」として知られたらしく、初代の田中久重が東京・新橋に工場を興し、息子の二代目田中久重が東京・芝浦に移転させたと言うことです。
 幕末に工業佐賀藩と言われた産業力の血は、今、東京で花開いています。
                
 明治30年代に佐賀県唐津市に建てた一部洋風のImg_0012 高取邸で、 97年5月に佐賀県の文化財の指定、98年10月には国の重要文化財指定を受けました。佐賀県内では最大級の建築です。
建物はすでに建てられて100年近くなり老朽化が進んでおり、現在では綺麗に修復されました。

 唐津城の西に海岸に面した旧高取家は、敷地面積は約2,300坪、建物は一部二階建で延べ面積は約300坪です。

建物は、和風を基調としながら、居間棟に洋間があり、大広間には能舞台を設けています。居室空間と来客迎賓の施設の二つの性格があるのが特徴です。たいへん規模の大きなものでした。

 洋間は応接室で、東側の壁沿にマントルピースを持ち、家具は舶来のもの。玉虫絵図のような引き出しや、現在の高取家の人が持ち込んでいる品々もあって、明治時代の貴族の邸宅のような趣でした。
広さは、十畳程度でしょうか。濃いピンク色なのか暖色系の色の絨毯、ベージュのカーテン、革張りのソファで品良くまとめられています。

 壁紙も落ち着いた淡い茶系に、焦げ茶の窓枠が重厚さを醸し出しています。床が他の部屋と違って、高くしつらえてありました。これがとても印象的です。

深い茶色のマホガニーの立派なサイドボードでしょうか、Img_0035 中央の方へ目が行きます。

その上には可愛らしい洋風人形の西洋陶器が幾つか置いてありました。大きなピアノも部屋にあり、こういう豪華で痛みの少ない、昔ながらの豪邸は、いまだかつて見たことがありません。

置物には、遠いギリシャ風の人物と、薔薇に鳥という取り合わせのゴブラン織り風の扉のあるものがあり、たいへん瀟洒な感じです。昨日まで、どなたか住んでいらしたと言ってもおかしくありません。

1998年までは市の文化財ではなく、昭和9年までお住まいだったそうです。それにしてもけばけばしさのない、西洋趣味だなと息をのみました。ここで、外国の技師を招いたり、鍋島家の華族の方々もお見えになって、舶来の洋酒や紅茶などをいただきながら、さまざまな談義に沸いたのでしょうか。
 
 北棟には伊好の寝間・書斎と中座敷を東西に並べ、畳敷きの和室なのに、寝間と書斎の真ん中にマントルピースが置いてありました。
ふだんは、重厚な木のふたが閉められていて、気になりません。

これを開けると、暖炉が現れて、下には、白地に青い絵で亀の絵が描かれたタイルが貼られてあります。そのマントルピースの両側には、書棚がありまして、ここに漢書が置かれてあったそうです。

最近は英語や外国語を勉強する人は多くても、漢籍を勉強する人が少なくなりました。時代を感じます。

 天井には白地にピンクの小花の模様をあしらった陶磁の飾りの滑車があって、電灯がチューリップのような傘にしゃれて釣り下げられ、滑車で上げたり下ろしたりして、ここで漢籍の勉強をするため読書するスタンドのような用い方をしたそうです。

こういう邸宅で勉強をすることが出来るというのは、幸せなことだろうなと羨ましくもあり、その本人の意欲の在り方に感心したりしました。

伊好氏は、技師でもあったので、その研究もしていました。また、算盤勘定の商業とは言え、その会社の創業理念としての道義というものを、儒学初めとして漢籍から学んでいたのかも知れません。

 廊下は、昔のガラス作りながら、磨りガラスの部分と、四角形に絵を眺めるように透きガラスにも工夫されており、庭の緑の眺めも粋なものです。

お茶室の松風亭は、静かに光が射し込んでいて、落ち着いた和の空間がありました。淡いベージュというか、薄い緑がかった壁紙かなにかで統一されていて、書が置かれてありました。

途中、大きなカボチャの形をした火鉢があり、和室に誰かちょこんと座ってるかのようも思えて来ます。

伊好の家族団らんの場で、ここで日常生活を送ったのでしょう。

窓枠の珊が素晴らしく繊細で、綺麗な細い線がすっと縦縞に立ち並ぶあたり、細やかな心遣いを感じさせます。

 茶室に向かう部屋への土間の扉と、先ほどの伊好氏の書斎の縁側の壁にある杉戸は、斜め対角線上に向き合っており、両方に四枚で一つの作品として楊貴妃の曲水の絵図が描かれてありました。西洋貴族邸宅のようで、日本趣味的なところがあります。

楊貴妃の絵は中国趣味的なものでなく、色合いが落ち着いています。品があると言えばいいでしょうか。

 二階へ上がりますと、大きな座敷がありまして、Img_0019 ここで主賓をお泊めしたと思われます。
昔の古いガラスの向こうの前面は唐津の海と小島が見えて、打ち寄せる波も壮大な眺めでした。
 しばらく、ここに来た見学者はみな足を止めて、松島のように趣のあるダイナミックな海の景色を眺めていました。それは、日本画の大きな襖絵を前にしたように、圧巻でした。

 海鳴りが聞えそうな気がします。大きな波が白いしぶきをあげています。現代なら、大きな座敷の前に映画館の大きなスクリーンを持って来て、美しい海の風景を放映しているような感じでした。
 きっと賓客だった大隈重信も、この気色を眺めては、故郷に戻ったと実感し、心から海に心を大きく開かれ、ゆっくり休むことができたことでしょう。

 ほかの部屋もそうでしたが、欄間、床の間、棚、杉戸には、Img_0014 植物の浮き彫りや、型抜きの動物が施されていて、意匠が優れています。
確か、ここには、リスの型抜きの欄間がありました。
杉戸は、無数の群れの蛍の絵が描かれていて、見事です。
藤の花に能を舞う人、福の神も杉戸に描かれ、中国の文人らしき人々の姿も目にできます。

 欄間には白い光る貝で張り合わせた、兎や鷺の姿がはめ込めこまれていたり、大きなクジャクの姿を映した欄間もあります。引き手には、小さな楕円形の中に菊や桐を彫り込んだり、その他の草木を色鮮やかに繊細に描いたりもしました。

こういう繊細な彫り物をしつらえてあるところが、家の品格を高めています。家中が、骨董品のような具合です。美術が好きなわたしは、幾ら見ても飽きません。

 この座敷の下の階のトイレは、来賓にしか使われなかった青い見事なタイル張りのものがあるそうですが、今回は公開されませんでした。ここは、大隈重信公がお使いになったそうです。見ることができずにちょっと惜しい気がしました。

 下は、西庭の東側に、板敷きの常磐の松を正面に描いた能舞台があり、北に15畳の部屋が二部屋並び、床・付書院を造る大座敷になっています。
 この棟には杉戸が多用され、京都四条派の絵師水野香圃の作とされる絵が、今も色鮮やかに描かれています。
 しゃくなげの白い大輪の花と、何の花だったか可憐な赤い花が能舞台の正面の舞台を挟んだ杉戸に、格調高く描かれてありました。

 舞台裏には控えの間がありまして、襖にも中国の話にもとった絵が帯の柄のように細かく描かれています。記憶が曖昧になって残念ですが、絵画のすばらしさはかなりのものです。また、このようなの個人宅に能舞台が現存するのは、今は日本でもここだけとなっています。

 国立能楽堂で拝見した鍋島家の能衣装のすばらしさを想起すると、ここで優雅な能が、もしかすると、元藩主鍋島公初め、大勢の賓客を招いて観客にして、静粛に披露されたのだろうと思うと、身が引き締まる感じがしました。

 ここは、春だったか夏だったかのあるの月13日・14日だけの特別な見学会でした。地元の人々に知らされて、みなさんが、かなり昔から関心を持ちながら、待ちこがれて訪れたような有様でした。
 観光客は知らないのか、地元の人が車で駆けつけて、受付の名簿に名前を書き連ねていました。今回が、初公開の日でした。                                Img_0015

 さて、後日、友人にこの話をしましたら、こう教えてくれました。

「北から西九州の沿岸には炭坑のある島が数多く存在しました。長崎の近郊でも、大島、高島、端島(軍艦島)、伊王島などがあり、あるものは廃虚となり、あるものはリゾートなど新たな道を目指して開発がすすめられています。もちろん、塵肺訴訟など、過去における影を引きずりながらといったところですが。
炭坑労働者はそれは悲惨なものがあったのでしょうね。

一方炭坑主の方は絢爛豪華な暮らしをしていたわけで、搾取する側と搾取される側の対比が思い偲ばれます。
しかしながら、搾取する側がその財産を背景に文化の歴史や美術品を守ったという事実も考えると、やはりきれい事だけで済まされるものではありませんね。」と。

 友人の述べた、炭坑労働者の悲劇は、1880年産業革命で、官営工場を民間に払い下げることからスタートします。

明治21年4月30日第二代黒田清隆内閣成立。大隈重信が外務卿に起用され、同年6月18日雑誌「日本人」で、三宅雪嶺(樋口一葉の姉御分、田邊龍子の夫)が長崎の三菱弥太郎のもとにある「高島炭坑の惨状 」を掲載し、社会問題を引き起こしました。

 ただ、わたしはいつも思うのですが、三池炭坑始め、日本の多くの炭坑で悲惨な労働条件のある場所はたくさんあったはずなのに、なぜ高島炭坑事件だけがこう教科書に大きく記載されるほどになったか知りたいと思いました。

 ちょっと調べてみると、こんないきさつがありました。

雑誌「日本人」の社員松岡好一は、高島炭坑の鉱夫への暴力的な拘禁と悲惨な死が病が勃発するにあたって、当時三菱を擁護した犬養毅に朝日新聞上で決闘を申し込む(明治21年9月8日)が、犬養は野蛮だと回避しました。(明治21年9月10日)

 犬養毅の言葉では、「二三の新聞紙のいたづらに陰で人を傷つけようとしている」と述べています。(明治21年9月11日朝野新聞報道)
 松岡好一は三宅雪嶺の北守南進論に共鳴し活動し、その後、大陸浪人として中国問題に関わりました。

 あまりの社会反響の凄さに、政府調査団が入り、是正措置が図られたという(明治21年9月13日東京日々新聞)が、実際のところ、官営の時からすでに囚人労働をさせていて、岩崎の買収前からひどい有様だったらしいのです。

 しかし、三宅雪嶺は決闘を野蛮というのは浅ましいと犬養毅を糾弾しました。(明治21年10月2日東京日々新聞報道)
 こうして、決闘をめぐって法律家も激論する自体まで発展したのです。(明治21年10月2日東京日々新聞報道)
 ただ炭坑事件の解明と救済と言うより、政府内の確執もあったのかも知れませんが、ここでは脱線するので省略します。

 佐賀県出身でありながら、高取伊好は高島炭坑に関与していた技師であり、苦労話も伝記を紐解けば理解できます。明治19年、彼が県内最初の大規模炭坑に、芳谷炭坑の実地経営者となり、27年には引退して29年相知炭坑を開坑しました。

 明治44年代には、三菱財閥や筑豊の貝島太郎・麻生太吉(現自民党議員麻生太郎氏の系譜)の三者が県全体の坑区の50パーセント、坑夫人員の60パーセントを占めました。それに対して高取は、明治35年に杵島炭坑を開業し、県全体の坑区・坑夫の20パーセントを確保しました。しかも、大正11年に高取系の出炭高の75パーセントを占めたが、その後は時代とともに元気をなくしていきました。

 話を戻しますと、ともあれ、佐賀において、旧高取家は、大事な産業基盤であったことは間違いありません。高取氏も、資本家としてただ算盤を弾いていただけでなく、技師としてだいぶ苦労もしたのだろうから、炭坑時代の労働条件が悪かったことはあろうが、地元の人には、そう悪評はない名士のようです。地元の福利・教育に力も注いだようでもあります。

 ただ、上に立って経営し、これだけの生活ができる人は当時少なく、やはり搾取した側と言われてしまえば、現代の労働条件からすると、やむなしと言う気がします。

しかし、一方で、これだけの文化を築き守る立場であったことも考慮すると、世の中清濁飲み込んであるのだと改めて認識しました。

 わたしは、美術品を眺めるという立場でしか思考していなかったので、見学当初は、友人の言葉のような内容まで考えられなかった自分を恥ずかしく思いました。わたしも生活に困れば、こうした旅行も美術品を愛でる余裕もなくなります。

「衣食足りて礼節を知る」という言葉がありますが、市民が平穏に過ごすことができて、初めて文化財の意義を認めて賞賛をするわけです。違う視点で、ものを見ることも大事なことだと思いました。

 ただ、今回見学した旧高取家の内装は、文化的にもレベルが高く、多くの方々にその質の高さを味わっていただきながら、過去の歴史も振り返る契機になっていただければと思っています。

○参考文献多数

司馬遼太郎「街道を行く」

鈴木孝一「明治日本発掘」

他(全部記載できず、申し訳ありません)