みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

金沢文庫三度目訪問記

2007年09月13日 23時03分56秒 | 日記・エッセイ・コラム
うーん、金沢文庫と行くとお勉強をさせられます。

「藤の枝の金沢文庫 謎多し 水路走りて江都の碑あり」

*5月になって、埼玉県牛島に行き、藤の花は真言宗の弘法大師のお手植えの藤の名残かも知れないと、思いました。弘法大師ではなくても、そういう藤を植える習慣があったのかも知れません。称名寺は、真言律宗ですよね。昔の伽藍のあとに、野生の藤木がありますが、なかなか人の目につかないようです。

「金澤へ神風吹かず 実時の姓は平と 記載せしなり」

「動かざる山の如しと 走ること千里を行くと旅行けり」

「兵法は戦わずして勝つといふ 孫子第一教えなりしか」

「金澤の 僕に関係ないけれど 信号機鳴る 人事のよう」

「頂上は金沢八景見晴らして 造船所まで海眺めをり」

「金澤の水面浅し鏡池 木々まで映り朱の橋照りぬ」

「称妙寺 ライトアップ 金と朱の太鼓橋をも池面に映し」

「人は人わたしはわたし 君は西吾は東とまた逢う日まで」

「まだ知らず金澤文庫あれこれと 歴史の奥は深かりしこと」


まず、すぐ目に付くのは、誰も見ない橋の傍の忠魂碑。
明治27年から昭和9年まで日清戦争から始まった陸軍・海軍の戦没病死者を慰霊する碑があるのです。昭和10年からは、靖国神社に祭祀されますが。昭和10年、あの226事件が起きて、日本の情勢は変わります。

昭和10年と日付があり、称妙寺の寺近くの車庫の傍の碑は、廃れていた称妙寺に大橋新次郎が寄進し、寺を復興させたとあります。
金澤 住職 小林 某と記銘
新潟県長岡市 諸橋(けん)次 謹呈

現在、行きますと、仏像展を開催していますから、次のことが理解できます。
*注1

次に、古い山門近くにある碑は、読んで見ると、寛政6年(寛政異学の禁があり、天明の大飢饉のあとの寛政の改革後)の日付けがあったので、なんのことかなあ、碑文を睨んでいましたが、どうも、下記のことを書いてあったようです。碑、金澤貞次の名が見えます。違ったかな、もうひとりは名前を判読できませんでした。
*注2

日蓮宗の昔の反体制主義は凄い。
大和朝廷を「皇倭」と述べている。驚いた。
その記載だったのでしょう。
読めない部分もあって、ちょっと不安。

あまり余計なことは言えないな・・・・。
争乱、国は敗北し、国乱れ、一家離散、そんな時期があったそうです。
碑の文に、平(北条)顕時が金沢文庫を置いたという記述は間違いありません。
この記述はどういうことだろうか。

その前に北条実時(平実時)につていの記述もあります。
漢文に自信のある方は、ご覧ください。
そのほうが確かです。

後、(北条)平・顕時は、出家して金澤顕時となります。北条貞顕の父です。

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注1 出典 抜粋http://www.zephy.com/Masamichi.htm

法華宗真門流
丹波 立正山 妙法寺
兵庫県丹波市青垣町佐治 妙法寺 住職   竹内 正道氏のHPより

法華経を最も尊重して最澄の意を伝えようとしたのは道元と日蓮ですが、道元が禅を重視したのに対し、日蓮は法華経の行者として法華信仰に生きました。

また常行堂中心の阿弥陀信仰は、恵心僧都源信が浄土教を説きます。世は末法の世で天変地異が相ついで起こり、流行病がはやり戦乱の続く世相でありましたので、この世では救われない人々が、せめて来世は安楽な世界へ生まれたいと願ったのです。

 法然はどんなに貧しい人々も南無阿弥陀仏と唱えさえすれば極楽浄土に往生できると浄土宗を、親鸞は浄土真宗、一遍は時宗をはじめました。阿弥陀堂の建立はいたるところで流行したのです。

 寺社奉行をつとめていた足立遠元も鎌倉の阿弥陀堂奉行でありました。
 空海は中国より密教をもち帰り真言宗をはじめましたが、加持祈祷によって病気・出産・財産・位階・戦勝までが霊力によって得られるとして信じられました。この宗派は朝廷、貴族に受けいれられ、さかんに造寺造仏がなされました。

 また平安末期より、人が救いを求めるとその声を聞いて助けに来てくれる観音信仰がさかんになります。観世音菩薩は南の補陀落山に観音浄土があるとされ、鎌倉にも南に補陀落寺があり、長谷観音とともに信仰を集めました。この頃より三十三観音霊場めぐりが流行して畿内と、坂東・秩父でもその霊場ができています。

 頼朝は終生法華経を信仰して、毎日の読誦をかかさず書写もしていたといわれ、「山王(叡山)の霊威を蔑如してはならない」として天台法華を信仰、また俊乗房重源の東大寺再建にも援助しました。

そして法華経の化身と信じられていた八幡大菩薩を信仰し参詣していました。頼朝に供奉していた北条義時や足立遠元も同様の信仰をしていたと思われます。

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*注2 前と同じ出典
「弘安合戦と平禅門の乱」 

 安達泰盛は妹が時宗に嫁してのちの執権貞時を出生してから幕政の中枢にありました。
時宗は弘安7年に急逝したのですが、その時の評定衆は泰盛父子のほかに平(北条)顕時、北条政長などの安達家の姻族が6名もおりましたし、引付衆にも泰盛の弟が2人(長景、時景)のほかに二階堂氏、大江氏などの姻族が4名おりました。

 このように安達氏とその姻族は幕府の最高職の半数以上に就任しており、施策の決定は泰盛の思いのままで、その権勢は強力なもので、得宗中心に北条一門と安達氏一族の有力御家人による政治が運営されていたのです。

 しかし幕政の実態は、蒙古の襲来以来戦時の総動員体制は継続しなければならないし、異国警固番役の負担は重く、恩賞に対する不満もあり、御家人困窮は深刻であり、御家人の利益を守ることにも限界があり、御家人との合議で幕政運営をすることに反対である御内人の平頼綱とするどく対立していました。

 侍所所司をしていた頼綱は、その地位を利用して兵を動かし、弘安8年(1285)11月17日、出仕してきた泰盛を捕えて斬殺し同時に安達邸を襲い一族を殺害、安達氏一族のみならず泰盛についていた御家人を捕えて斬首するという恐怖政治を展開し、得宗専制政治を開始しました。

 武蔵、上野中心に五百を越える御家人が斬首され、自害してはてることとなり、

「争乱も常陸、信濃、播磨、筑前にまで波及し、」
多くの御家人の所領が没収され、文永、弘安の役の恩賞として配分されました。

 足立氏も遠元の孫遠親の子の時代となっていましたが、足立宗家の太郎直元左衛門尉は敗北して足立郡の所領も没収され、自害しました。自害者の中に和泉六郎左衛門尉もいますが、天野景村のことで、遠景の子孫までこの事件に連座していますので、足立、安達同族のすべてをまきこんだ争乱でありました。

 しかし、足立の本家遠親の三男元氏の子孫は逃げのびて、後に北条貞時13回忌法要に円覚寺へ参詣し、足立家の惣領足立左衛門入道として供物を進上しています。北条氏の被官となって得宗家で活躍していたのです。

 同様のことは安達家にもあり、泰盛の甥宗顕は21歳で泰盛の一件で殺されましたが、息子の時顕は救われて後に秋田城介となり執権北条高時の外戚として幕閣で重きを成しました。

 平頼綱は恐怖政治で独裁し、ついには次男の助宗を将軍にしようとしました。

永仁元年4月13日

「関東に大地震があり、将軍御所をはじめ諸大寺が倒壊、炎上し、死者2万3千余という大惨事となりました。」

 この世情不安の中、22日未明、執権貞時の兵が経師ヵ谷の平頼綱邸を襲い、頼綱、助宗父子をはじめ一族を滅亡させます。
この一族90余人が自害しますが、世人は泰盛を討滅し、日蓮聖人を迫害した報いとうわさしたとのことです。

 日蓮聖人と頼綱は何度も対面していますが日蓮聖人をにくみ、徹底して迫害し、法華門徒を全滅しようとしたのが頼綱です。文永8年9月10日に対面した時も、聖人に「理不尽なあやまちによって同志討をくりかえし、外国より侵略の難を受ける」と諫言され、「物に狂う」ようになったのです。

 松葉ヶ谷庵室を襲ったのも、竜の口で斬首しようとしたのも、佐渡流罪で殺害しようとしたのも頼綱です。文永11年4月8日にも対面しますが、聖人に「権力によって心をば随えられたてまつるべからず」と精神の自由を説教されたのですが、理解できず「物に狂」うたような恐怖政治で法華門徒を弾圧し続け、自滅した得宗御内人だったのです。



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