みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

長編小説「白梅物語」

2007年12月01日 23時33分00秒 | 本と雑誌

「白梅物語」

 せつなさを旅路に置き換えて述べなさいと言われたら、その代名詞を「京都」の旅に置き換えたくなるほど、やるせなさに胸がしめつけられる古都の出来事、そう、それは梶井基次郎の「檸檬」に託した丸善の店のような、もう手に届かない品々へのじれったさのような感覚で、京都の土産物街を歩きながら、高級な日本ブランドを購入したくてもお足が足りないという情けなさ。

 ただ、一度は手に入れた恋の思い出がさらさらと指の間から砂をこぼすように、もう二度と同じ砂を同じ分量で同じ粒だけ手には戻せない悲しみにまで膨らんだ恋物語になってしまった。

 あの頃はまだ自分が鮮魚のように刃を入れられて切られても切られてもぴちぴちと動くようなフレッシュな感触だった。
 カリフォルニア産の黄色い檸檬にかじりついて、そのきりっとした酸味に歯ぎしりしたいほどの衝動に駆られた恋だった。

 それは、ある大きな書店で、花梨(かりん)が自分の大学院の専門書を探していた時のことだった。
「古文真宝」という前・後集である。
前集がすぐ見つかったのに、後集が見当たらない。

 花梨は、薄化粧だったけれど、タイトのスカートに、襟の高い白いワンピースと言う簡素な姿だった。
後集を取ろうと手を伸ばしてみたら、傍から綺麗な長い指の手がすーっと伸びて、花梨(かりん)の手に重なった。
花梨は慌てて手を引っ込める。

「すみません。僕もそれを見ようと思ったんです」
 横を見ると、20代半ばか、よくわからない、背広をきちっと着こなした背の高い、すらりとした青年が佇んでいた。
 細面の目のちょっときつい人だった。
 だが、半分光が瞳にあって、かすかに笑っている。

「どうぞ」
花梨は促したが、青年は
「いいえ、いいんです。ちょっと見たかっただけですから」
そう答えた。
「君、先ほどからこのコーナーに30分以上いたでしょ。疲れない?」
花梨は観察されていたのかと思って、ちょっと不快な気分になった。

「あの」
と言い出すと、
「ちょっとゆったりして本は慎重に選ぶべきです。この本8000円もするでしょ。よく選んで買わないと」
 青年は、しばらく花梨があきれて聞いているのをいいことに、立ち話をした。

 花梨は、街で声をかけられるような女ではなく、青年のまじめなようなゆったりした雰囲気に包まれた。
「あ、そこの先においしい珈琲屋があるんです。スタバじゃないから、僕がおごりますよ。これ見て、いい本でしょ。少し読んでみて」
青年は、名訳詩集という本を鞄から取り出した。

「君、西洋詩は嫌い?僕はシェリーが好きなんだけれど」
花梨は、不思議な感じで、同年代の青年の言葉を聞いていた。

 花梨は、文学博士を目指していた。父親は猛反対で、一言、
「嫁に行けなくなるぞ」
と吐き捨てた。

 花梨は親に反抗し、奨学金を得ながら大学院に進んだ。

 花梨は、お堅い本を手にした自分に動じない青年と、一週間に一度珈琲店で待ち合わせして、つかのまの話し相手になった。

 青年はここから近い大手都市銀行マンだった。広報室にいると言う。時間は自由になると言う。
 花梨が、大学の話をすると、青年は休日に合気道をする話をした。

「人はマゾヒティックと言うけれど、柔軟体操して関節が柔らかくなるんだ」
と言う。
 外は小糠雨になっていた。
 青年といつも30分くらい話すと、彼は帰社する。
白いビニール傘をちょっと斜に構えて、
「また会ってくれそうだ」
と、に、と口元が笑った。
 
 夕方、飲みに行きませんか?と言い出したのは、それからかなり後だった。
花梨の初恋や今までの話を聴いて、
「君運がいいね。ほんとうは駄目だよ。僕みたいについてきちゃ」
と言うと、彼は几帳面に白く綺麗にアイロンのかかったハンカチーフを
取り出して、口元をぬぐった。
彼は小さな声でそっと話す。
あまり酒も飲まない。
立ち上がって、「行こう」と述べた。

花梨と青年は、しばらく歩いて、急にホテルの前で立ち止まって、
「僕、恋愛したい。君は僕が好きかい?」
と尋ねた。
 花梨は、不思議な青年を好いていた。
黙ってふたり闇に消える。

 部屋でふたり、ベッドに入る。
彼は、花梨の着やせした姿を発見して、黙って眺めて愛撫した。
だが、彼と花梨とは何もなかった。
「悔しい」
 そう男は叫んで、ベッドから飛びおきた。疲れているせいか、元気がないことを感じた。
なぜか彼は、
「君綺麗だね。恐れ入ったよ」
と裸身をつくづく眺めて、急に服を着だした。

 彼は、なぜか何もしないままになっていた。
「僕たち、何も後ろめたいことをしていないね」
そう彼は述べた。

「僕、東京から岡山に転勤になった。もう逢えない。最後の思い出だ」
花梨は驚いて、なぜ?と涙を浮かべた。
「そういうご時世さ」

 彼は、駅まで一緒に行くと、ちらっと振り返って、地下鉄の階段を下りていった。
見納め、花梨は彼をなじるわけでもなく、悲しみと孤独を感じ始めて、まだ寒い二月のJRのホームに佇んで冷たい北風を受けていた。電車を待っていたが、手が冷たい。

 花梨は、それからというもの、駅のホームの上を見下ろせる喫茶店で、高い一杯800円の珈琲を飲む習慣がついた。
まれに新幹線が通過すると、甥っ子みたいに心が弾むと同時に、軽い失望とため息が出る。

 花梨は、ある日、ふと見つけた昔の手帳を懐かしがって、青年のことを思い出した。
青年は、花梨の存在をそんなに意識していなかったが、勤務先が大手の会社だったので、部署なども記載されている。いきなり電話したら驚くだろう。そこで、花梨は手紙を会社宛に出したのだった。

 青年からは手紙ではなく、携帯へ電話がかかって来た。スマートな、話上手さは変わりがなかった。
 
 品川駅が奇麗に整備されて、新幹線で東京へ出張に来る青年は、夜は暇な時間があった。
友人同士で、同級生数人と会うことはあっても、女性とふたり品川駅で落ち合うのは初めてらしかった。

 ふたりは原美術館という現代アートの美術館へ行く。
青年は、別にデートの場所など、どこでも良かったが、花梨のことを不思議な記憶の中にとどめていた。

美術館の喫茶で、お勧めのシャンパンをいただく。
 「僕ももう30歳を越えた。花梨(かりん)ちゃんは、お見合いとかはない?」
青年は、余裕の仕草だったが、花梨をからかおうとした。

青年の奇麗にアイロンのかかった白いシャツに紺のストライプのネクタイを横目に、花梨は痛いことをつかれたと思った。
「うん、仕事楽しいし・・・」
言いたくない台詞がこぼれてきた。

 青年は、運動神経はよく、割とはっきり言うタイプだったことを思い出した。
花梨は、しばらくぼうっと芝生を眺めて、シャンパンを飲み込むと、
「あのね、わたし、社会人になって少しも出会いがないの。
あなたは結婚していたかも知れないし、遠距離恋愛は続かないと思ったんだけれど、素直に友人として逢いたいと思ったの」
自分にしては素直な言葉だった。

青年は、売店にあった商品をすばやく買っていたが、精巧な万華鏡を取り出して、
「花梨ちゃん、駄目だよ。淋しいからって、遠くの男に自分から声かけたら。
僕は狼かも知れないじゃないか、弄んで終わりになるよ」
青年は、万華鏡を花梨に見せて手渡した。

「人生は、これと同じで、見方によって随分世界は変わって見える。
花梨は、いつも優等生して疲れちゃうんだな。
身近な男には甘えられないんだ。

ただ、違った視点で世界を覗いてご覧よ。

僕は嬉しかったけれど、もう東京へ出張に来る予定は今後なくなった。
僕は君の、人に頼まれると、はいって素直に引き受けてしまう性格問題あると思ったよ。

僕は、君のこと気にかけていたけれど、自分が相手に意見を言わせて、聞きながらも自分の個性を人に表現するって大事だ。

僕は社会人になって痛感してる。これプレゼント。」

 花梨は、青年の意外な意見を聞いて、今初めて、青年が自分をどう見ていたか知った。
万華鏡を手にして、青年のネクタイに焦点を合わせた。マリーゴールドの花びらみたいに
世界がクルクル展開した。

 品川駅には、夕方、花の金曜日で、大勢の人が帰宅の途や移動にひしめいていた。
青年は、白い建物の品川駅の中にあるスターバックスを背に立っていた。

「花梨ちゃん、海外留学、短期で行って、日本人しか話さないで帰ってくるタイプだよね。自分を変えなよ」
花梨は、ほとんどもう何も言えず、ぼんやり青年を見つけめていた。

 新幹線に向かう青年、もう逢えないのかな、と花梨は感じながら、急に苦しく感じた。
「もう逢えないの?」
花梨は一言口にした。

青年は、すらっと背が高く、色白で端正な顔をしていたが、美しい二重瞼に真剣な光が点った。
「花梨ちゃん、僕さ、自分は若い頃もてると思っていた。
今もまあ、自信がないわけじゃない。
でも、花梨ちゃんはアバンチュールを求めてるわけじゃないだろ。
一時的に僕を見てぼうっとしていないで、ほんとうに自分を思ってくれる人を探すんだ。」

花梨は頬を赤らめた。

「人生は万華鏡さ。花梨ちゃんの心の持ち方で随分違うよ。

僕ははっきり言う。遠くてもう逢えない。

だから、僕のいない世界でもしっかり生きていてほしい。

君を関西に連れていくほど愛せるか、今の時点では言えない。

でも、関西で日々忙しいと君の事を考えているのにあまりに遠い。僕は長続きさせる恋に自信はない。だから、これで別れようと思う。」

青年は、花梨の手をしっかり握って包んだ。

「僕も馬鹿かな。据え膳食わないなんて。まあ、同類相憐れむだからな」
わけのわかない言葉を青年は述べて、大きく手を振って、改札の中へ姿を消して行った。

花梨は、新幹線が通り過ぎるのを珈琲カップ片手に眺めていた。
万華鏡を鞄から探して、外を眺める。
「気の持ち方か。」

「彼は確かに美しい人だった。そうかも。
彼の美貌に惹かれてぼんやりしていたんだ。
自分はふさわしくないかも。
でも、きっと彼はそんな意味でああ言ったんじゃないわ。」

新幹線を眺めて思う。飛び乗って行きたいけれど、彼ははっきり述べた。
 いい男ほど、はっきりしてる。待たないで先を見て行かないと。

花梨は、背中をそっと押してくれた青年に深い友情を感じた。恋と愛と混ざったような不可思議な気持ちだった。
 一生覚えておこう。珈琲800円は高かったが、新幹線の走る速さがさっそうとして、自分の邪念を払ってくれた。

 それからしばらくして、花梨には親戚から次々と見合い話が届くようになった。
 大学の助手をしながら、もう30歳を越してしまった。

 だが、なかなか見合いが決まらなかった。

 顔は普通だが、仕事を理解してくれる男性で育児に協力する男性を見つけるのが難しかった。大学まで女子高で過ごし、合コンもあったが、今ひとつ気が進まない。

 友人たちは、髪を栗色に染め、柔らかなカールが女性らしさを強調し、目は大きく、唇に艶があった。

 花梨は、そんな友人に
「花梨、あなたもいらっしゃいよ。」
と誘われたが、自分がいても、男性の視線は頭を通り越してしまう。

友人たちに悪気はないし、花梨のことを「朝顔の君」とあだ名をつけた。
「花梨、女は化粧も努力なのよ。研究心を持ってしないと・・・」
花梨は、頬を染めて言った。
「わたし、もとが悪いから、いくらやっても時間がかかるだけで」
友人のひとりが言った。
「そういうところが、朝顔の君なのよね」
と苦笑した。

 友人たちは、会社勤務三年以内にどんどん結婚し始めた。
結婚披露宴で、話しかけてきた独身男性もいたが、主役は花嫁で、
「綺麗な女性だね。あいつ、どうやって射止めたんだろう」
と男性陣の話題は移っていく。

 花梨は、そんな中で、黙って分をわきまえて座っていた。
「天は人に二物を与えるんだわ」
そう思った。

 最後にお見合いを持ってきた伯母が言ったのは、
「花梨ちゃん、このままだと、再婚者との話しかなくなるわよ」
とため息ついていた。

 デートに誘ってくれる男性はいたが、
「君おとなしそうだから、いいや」
と言って、昼はラーメン、ファーストフード、デート先は公園散歩。
 大学の友人たちが、
「昨日、フレンチだったわ」
「昨日はディズニーランドだったわ」
 そう話していたので、内心がっかりしていた。自分がこうしたいと言うと、
「別の人に連れて行ってもらいなよ」
とかわされる。

 花梨は、ひとりで、日本を旅行することにした。
 仕事についてからも、京都へ日帰り旅行、一泊旅行など、ひとりだった。
友人たちが、
「へー、花梨、勇気あるんだあ」
と言うのであった。
彼氏や夫がひとりで行動することを止めると言う。

花梨は微笑んで言った。
「それって、大事にされているんじゃない?」
だが、婚期は遅くなっていた。

 三十歳を超すと、今度は男友達が結婚してしまい、周りはみんな既婚者だった。
 希に、デートをしても、どうも先へ行かない。
 二三度会って、合わないなあとか、向こうに断られた。

 花梨は、ひとりで、大学の帰りにコンビに寄ったり、珈琲店で遅い夜食を取った。
 珈琲店には馴染みの客がいて、マスターと話をしている。

 そのうち、通っている男性で、諸橋(もろはし)という男性と話す機会があった。

「僕は結婚していまして、子どもはいないんですが、家に家内と犬がいます。」
そう微笑んで話し始めた。
「あ、ご結婚なさっていたんですか・・・」
 花梨は、内心がっかりした。

 少し距離をもって話していたが、ある日、大学の研究室で大事な書類を誤って、うかつなことにシュレッダーにかけてしまった。教授始め、研究者の仲間は、みんな蒼白になると、次に叱りだした。

「君、いい年して、こんな初歩的な過ちをするなんて、たるんでいるんじゃないか」
 いたたまれないまま、うつむいて、頭を何度も下げて謝っていたが、教授の怒りは評価に響いた。
「自業自得だ」
 そう思って、顔をふせて、電車の中で思わず涙があふれた。ほかの人の手前、ハンカチを目に当てて、目が痛いかのように、堪えるのがやっとだった。

 いつもの珈琲店へ行くと、諸橋が、週刊誌を広げて、ゆったり珈琲を飲んでいた。
 花梨の異常な様子を察して、顔を訝しげに見つめた。
 花梨は、諸橋がこちらを見たので、帰ろうかと店の戸を開けて出て行くと、諸橋が後から追いかけて来た。

「花梨さん、どうかなさったんですか。余計なことかも知れないけれど」
 まじめな顔で心配そうな顔をしていた。
 花梨と諸橋は、歩きながら、話をして、数距離れた喫茶店に入った。

 諸橋は話を聴くと、
「花梨さん、疲れているんですよ。こういう時は、気分転換が大事ですよ」
そう述べた。当たり障りのない慰め方であった。

「今週末、良かったら、ドライブにでも行きませんか?気分転換に海を見に行きましょう」
そう述べた。花梨は、一瞬戸惑ったが、今、こうして温かい紅茶を飲んで慰めてくれる諸橋がありがたい存在に思えた。

 日曜日、諸橋が車を花梨のアパートの近くの公園まで運転して来た。
「早く入って。人目があるから」
そう言って、車に花梨を乗せた。

房総半島までドライブだった。
軽快な音楽が車の中に流れていた。
努めて明るく楽しく諸橋は話題をもって行き、お花畑を通り、青い海が見えてくると、花梨は、どきどきしていた胸が収まって、嬉しくなった。

女子高生に戻ったように、諸橋と話し、軽いランチをし、何気ない会話を交わした。
諸橋は、夕日を眺めると、ハンドルを切って、帰宅の道へ向かった。

 だんだん夜の帳が下りて来て、ネオンが見えてくると高速沿いに見える「ホテル」がきらびやかで、なんとなく、花梨も諸橋も黙りがちになった。

 ドライブインに車を止めて、花梨に諸橋が話しかけた。
「花梨さん、僕、君の事を最近気になってしまって。最初は同情したんだけれど。でもね、
僕は・・・」
そう言うと、花梨に軽くキスした。花梨は息が止まりそうだった。

 諸橋は、外見も考え方もそれなりに落ち着いて品もある。
しかし、既婚者だ。独身の花梨は、せつないけれど、声に出して言った。
「今日はありがとう。でも、わたし、いずれ結婚したいの」
そう言って、目を伏せたら、諸橋は、花梨の手を握ってみせたが、すぐ手を離した。

「そうだね、僕は送り狼にならないようにするよ」
そう話した後、花梨の家の前まで無言だった。
ふたりは黙って、
「じゃあ」
と挨拶して別れた。

 諸橋の車が去って行き、花梨がアパートに入り、風呂を沸かせていると、急に電話が鳴った。
「もしもし」
「・・・・花梨さんですか」
女性の声だった。
「はい」
「わたしは、諸橋(もろはし)の妻ですが」
花梨は急に凍りついた。

「あなた、今日主人と一緒でしたね?
あなた、主人とわたしは恋愛結婚なんです。お互い信用しあっていました。

あなた、よく、あの珈琲店に行くでしょう。迷惑なんです。
あなたのような独身の女性が主人に身の上相談するみたいなこと。
あなた、恋人を作って結婚しないんですか。ほんとうに迷惑なんです。
あなたのような独身主義者。
人の夫を取らないでください」

 花梨は何か言おうとしても、諸橋の妻が感情的になって話して来る。花梨が次に何か言おうとすると、
「あなたのような人がいるから、男性を惑わすんだわ。
ほんとうに迷惑かけないようにしてくださいね。
いい加減主人と話すの、やめてください」

 ガチャン、ツーツーツーと音が鳴り響いた。
花梨は、怒りと屈辱で、思わず、電話を投げ飛ばした。
がしゃーん、と電話機がフローリングに落ちた。
花梨の目から涙があふれると、頬を伝わった。
肩が震えていた。

 その次の週、諸橋ともう会うこともなく、花梨は引越しの準備を始めた。
 近所の人が、急に引越しと聞いて驚いたような、興味ありげな顔で
「結婚なさるの?それとも・・・・」
と探りを入れた。
「いいえ、もっと気に入った場所を見つけたので、そちらへ越します」
そう述べて、そそくさ家の中に入った。

大学でも花梨が住所を伝えると、同僚が言った。
「同棲でもしたの?」
と笑う。
花梨は内心むっとして、
「そんな楽しい話はないわ」
と答えた。

 アメリカ文学で、ホーソンの「緋(ひ)文字」という小説がある。牧師と恋して妊娠してしまい、街中に見世物にされて胸に十字の烙印を押されて迫害された女性の話。
 
花梨は、
「わたしがどんな犯罪をしたって言うの?」
そう呟いて、月影に涙を落として、朝になると、ポーカーフェイスで大学に行った。
「誰でもいいわ。結婚しなくちゃ」 
そう思いつつ、それから何年もが過ぎて行った。

 五年後、花梨は研究会の交流会で、やっと恋人ができた。

東京の高島屋で新宿御苑を眺めながら、日曜日いつものように恋人とアイスクリームのクリームに唇を濡らしながら、花梨は急に鳴った携帯電話の鳴る音にいぶかしんでいた。

「誰?」と彼は軽く聴いたけれど、花梨は電話に出た男の一声で声がうわずってしまった。
 男は、自分の名前を名乗って沈黙し、今このまま話していいか聴いた。

 黙っている花梨に彼はまた「誰?」と不審さといらつきを見せて聴いたので、花梨は間違え電話とぶっきらぼうに答えた。

アイスクリームの甘さが泡のように舌の中へ滑り込んでくるのだけれど、それがバニラかチョコか判断できないほどになって冷たさに麻痺したかのような感じで味がわからなくなった。

 何年か前に駅で別れた青年だった。あの本屋の岡山の青年。なぜ今頃。
 携帯電話の番号を変えず、相手が覚えていたことに驚愕した。

 恋人は、好きな電化製品を電気街で眺めたがって、いつものように二人別行動にすることになった。花梨は、大学のレポートに必要な本を買いに走った。

 花梨は紀伊国屋の本棚をぐるりと見渡して、いつも通りほしい本を探していた。今日、探していたのは図書館の用語集だった。

事典類だと思って探していたが、見あたらないので店員に尋ねたところ、
「それは社会という分類の棚にあります」
と言われた。

 図書館学が「社会」に分類されるのはあらゆるジャンルを図書館学は要求するせいかな、と思って、自分の進路に漠然と重たい荷をを感じた。
 教授に助手として、研究室の書物の管理もしてほしいと頼まれ、通信教育で図書館学を勉強していた。
 
 大学で、研究室にいて、少額の給料、そして派遣のバイト。これだけじゃあ、将来生活できないって不安だった。

 あら、社会の棚に図書館学見あたらないって思って、再度店員に聴いた。
「それは、教育の棚にあります」
二十六歳くらいのつるつるした白い肌の女性の店員が答えてくれた。
なんだ、教育かあって見直した。

再度着信あり。
電波が通らないんだからってむっつりした。
公衆電話から久々に岡山の男に電話する。
日曜日の昼間、彼は何をしているんだろう。
ダイヤルする手が震えていた。

こうしながら、わたしはこっそりその男(ひと)と会話すると、夢は京都の四条河原の夜の街へと導かれて行った。
まるで犯罪に荷担したかのような罪の意識を伴って・・・。

 カクテルグラスが煌めく中、ジャズが流れるバーでおしゃれにお酒を飲んでみたいと言うと、父親はよくたしなめた。
「あれはね、既婚者がリスクを犯すかわりに連れて行く場所だよ」

そう、わたしは独身で今の恋人にもそんなデートに誘われたことがない、だから憧れてしまった。恋人は、割り勘ね、とたまに言う、ごく普通の軽いイタリアンがせいぜいのタイプだった。
「僕は気取っているの好きじゃない」
これは彼の持論だった。

 岡山の銀行員は、勤務先が大企業だし、それなりにお金もあって、しゃれた会話のできた人だった。
 食事もそつなく連れて行ってくれるだろう。彼は素敵な人だった。でも、はっきり別れを述べた相手が7年ぶりにどうしたというのだろう。

 恋人とは別れて、夜アパートに帰宅して、携帯電話からかけると留守電だった。
「わたし、花梨。何年かぶりにどうしたの?」
メッセージを吹き込んでおいた。
 
 翌月曜日の夜8時、花梨がテレビを見ていると、携帯電話が鳴った。
「あ、僕。紀正(のりまさ)だよ。久しぶりだね。」
 
 花梨はかつて好きだった青年と話しこみ、相手がもう独身でないことを知った。
しかし、なぜか無性に花梨に会いたくなったと述べていた。
少し酒に酔っているのか、割とぺらぺらしゃべる。

「ただ、懐かしいのさ。今度の連休、僕は京都に出張してそのまま滞在するつもりだけれど、君、京都に来ないかい?」
花梨はびっくりして、真意を測りかねたが、花梨のほうも懐かしさでいっぱいだった。

今の恋人は悪い人じゃないけれど、どこか煮え切らない男だった。
紀正のはきはきした言動が、魅力的だった。
花梨は手帳を取りだし、予定を組んでいる自分に驚いたが、手がかってに口が勝手に動いて約束を交わしてしまった。

 花梨は、アルバイトで溜めたお金で、京都へひとり旅に出かけた。
恋人には一応、告げたいたけれど、「はめはずしすぎるなよ」と言われた。

 新幹線に乗るとうきうきして、心が弾む東京を出発して品川に来た時は、もう心は京都にあった。わたしは純粋に京都旅行を楽しむつもりだったし、京都の彼とは会うとしても何年も久しいことだった。

 昼間観光をして、夜四条大橋で落ちあい、先斗町へ向かった。
彼は、値段の書いていない店を外して、値段の明記してあった店にやっと入った。
 食事を頼むと、
「やはり、こういう場所だと予約がある店がいいなあ」
とつぶやいた。
 軽く食べてから、一階がバーになっている店に向かった。

 シャンパンを頼んで二人で「源氏物語」の話をする。紀正は話上手で、楽しいひとときだった。だが、そのうち、ふたりとも話すのをやめて、沈黙し始めた。
 自分たちは、リズミカルに話していたけれど、ほんとうは・・・。

「わたし、もうホテルに帰る」
そう言い出したとき、相手が言った。
「今日、挙がってもいい?」
「駄目よ。わたし、なんかうしろめたいから、彼氏に」

すると、紀正は「あほやな」と言った。
「あほ?」
「そう、あほ。馬鹿とちゃうで」
と言われると、頭をごつんとぶつけた。

「正直に京都で知り合いがいるってみやぶられたんじゃない?」
「うーん、そう」
「だから、あほや」
花梨は下を向いてしまった。

「あほは、そう悪い意味と違うよ。僕が最初に覚えた関西弁はあほ。」
彼は、少し笑っていた。

「ホテルの部屋にあがっていい?」という男(ひと)に、「駄目」って頬が引きつって言った瞬間、わたしたちは暗闇でキスを深く交わしたのだった。

 彼が、まるでバスケットボールの球をうまく投げ入れたかのように、わたしの唇にさっと覆い被さって、長い闇全体を吸い込んだかのようにキスし続けていたのだ。

わたしは東京の恋人に釘を刺されて来たから、その日は身を切られるような思いで、男の誘惑から逃げて部屋へ駆け込んだのだと記憶を想起していた。

 源氏物語の空蝉はこんな気分だったんじゃないか、そう思い返してキスして振り返りもせず黙って立ち去った男をあとで目で追って、数分後にはあきらめてホテルのロビーに姿を隠したのだった。

 すばやくキスして、「じゃあ」ってきびすを返して、後も見ないで歩いて行った。
 わたしはぼんやり、見やって、ホテルに到着すると、フロントの人が

「今日はおとりさまですが、ツインのお部屋になっています。驚きにならずにお使いください。料金は同じです」
そう言われた。わたしはホテルへ入ると、へなへな座りこんだ。

「馬鹿みたい、わたし」
そう呟いた。
「言わなければわからないのに~」

「ああ、あほかあ」
わたしはバスタブに浸かりながら、紀正を思った。

 だが、紀正のことが頭から離れない、もう逢えないかな、とか未練だなと思った。振り向きもしないなんて、とぶつぶつ言う。

恋路を行くのではなく、ほんとうに観光がメインだったと言い訳した。今でも、「あほ」と言われて、ちょっと顔がほころぶ。不思議な言葉だった。

 あの男(ひと)はお互いほろ酔い気分で道もわからなくずうろたえたわたしの様子にあきれてながら、ビジネスホテルへ見送ってくれたのだけれど、わたしには恋人が東京にいて、岡山に妻子がいる男(ひと)とは、狭い京都の街でまるで犯罪を犯す人間のように、はらはらしながらこっそりと逢瀬をとげたんだった。

京都の町は狭い。おかしなカップルが歩いていたら、すごく目立つ。そう男は述べていた。
 結局何もないまま、ただ甘い余韻が残って、かすかな記憶の底に沈んで行った。

 頭の中を今もぐるぐる、恵比寿のガーデンプレイスの中にある東京都写真美術館の壁面にある、フランス人のカップルの路上のキスの場面がまるであの時のわたしと男のようだったと鮮明になって今も記憶によみがえる。

出張先で訪れた京都、ふたりは偶然だったが、運命的な出会いをした。
ふたりは、二ヶ月後、また再会することになる。

 東京の恋人との結婚は、花梨が大学の研究者ということで、むこうの家の姑舅の受けはよくなかった。結婚しても研究を続けますと言うと、
「息子の世話をできるんですか。子供はどうするんです」
と言われてしまった。
花梨は研究を続けたかった。結婚話は暗礁に乗り上げた。

 花梨は思い切って岡山まで新幹線に飛び乗った。紀正と再会し、ふたりともまた昔のように好感を抱いた。
紀正は出張と仕事の軋轢で参っていた。
花梨も疲れていた。
食事しながら、回想して、7年の歴史を振り返った。
お互い旧知の仲のようだった。ふたりしみじみと語り明かした。

 だが、妻子を愛していた紀正は、花梨に同情をしながらも、自分の家庭は守りたい。
 自家用車を運転し、二度目のデートのドライブで慰め、花梨の慕情をどこかで吹っ切りたかった。身の堅い花梨は、遊んで捨てるより、なんとか距離を置いておきたかった。

花梨は、食事のあと、軽く、ルージュを車の中で引いた。
紀正はそれを眺めてはっとした。

そうだ、と。

 花梨が、ある日、食事のあとにトイレットに入った際、セカンドバックに入っていたポーチを取り出し、すばやく口紅を抜き取った。
その口紅は、花梨が家計の遣り繰りをして、やっと手に入れた一本だった。

他人の紀正には、ただのたかがルージュ一本であった。そして、花梨も大勢いる女たちのひとりだった。

 花梨へのメールにこう記載されていた。
「君が落としていった口紅を妻が見つけて大騒ぎになった。僕はまた逢いたいけれど、さすがに離婚には至らなかったけれど、もうそう会えない」
その言葉で、探し回っていた口紅の行方を確認した。

「奥様には申し訳ないことをしたわ。お詫びして、大事になさって。家庭を壊すなんて、お子さんにも申し訳がたたないわ。奥様を抱きしめてあげて。」

 そうメールを送信すると、紀正から、もう半年以上なかった末のメールが、また来なくなった。花梨は、胸を痛めたけれど、自業自得なのだと思った。

 ただ、ある日、ふと思った。口紅がなくなったのは、すいぶん前のことで、半年過ぎてから、こういうメールを送るものだろうか、と。

 紀正は、花梨の性質をよく知っていた。家庭に波風が立つといえば、子ども好きな花梨が身を引くのは明らかだった。

 紀正の要領のよさと聡明さは自分でも自信があり、海外勤務をなんなくこなす性質で、会社の人望もある。女に不自由をしない。
花梨に束縛されるのは、一番いやだった。

花梨は、春の白梅を眺めながら、大事な口紅を落としたことを嘆いていた。
あの口紅は4000円したわ。ない財布から、また口紅を一本購入する。

「これを使い切るのはどれくらいかしら」
花梨は、紀正の言い訳を、淋しく受け入れた。

花梨は、うつらうつら思案した。
「あれは最後の言い訳だわ」
怒りと屈辱の末、頬が赤くなったが、相手は既婚者である。あきらめたほうがいい。

 花冷えだ、そうコートの襟をたてて、嘆くことから、少し冷静になって、新しいルージュを引き、美容院に行った。

 東京の恋人は、やがて、姑を罵倒した。
「花梨が悪いんじゃない。おふくろ、いい加減にしてくれ」
縁談はなかなかまとまとまらなかった。
花梨は、
「ほんとうに好きだったのは、紀正だった。今の彼に悪い。縁談は延ばそう」

 花梨は、寒空の下、湯島天神へ通って手を合わしてきた。
「恨みはしないけれど、いつかあの人に真心が伝わりますように」
白梅は薫り高く、もう終わりを告げていた。

忘れ草生ふる野辺とは見るらめど こはしのぶなりのちも頼まぬ

(あなたは私を忘れ草の生えた野辺~あなたを忘れてしまっている私~とご覧になっておられるようですが、この草はしのぶ草です~私はあなたをよそながらお慕いしているのです~これからも後も変わらず頼り申し上げます )

伊勢物語第100段  

花梨は、読んでいた本を静かに閉じた。

「奥さんも愛していたのかも知れない。わたしが好きになるくらいだから。ほんとうに好きな人のことは一生忘れないわ。忘れたくても忘れられないの。」
大学ノートにそっと和歌を書いて置いた。

 「松の枝雪の重みにしなれどもほのかに薫る冬至梅    花梨」

 一方、紀正は、妻に対して優しかったが、どことなく、妻の母親ぶりに閉口するようになった。妻がいつのまにか、女性と言うより、子供たちの母であり、自分が父親である。
 これは世間の誰にも言えなかった。
紀正は、家族に理由をつけて、花梨に会うため京都駅への新幹線に飛び乗った過去があった。

 花梨は、親戚のつきあいで、能を鑑賞することがあった。親戚の叔母と一緒で、有名な『道成寺』を鑑賞した。
 自分の嫌いな源氏物語の葵の上のように、魂が新幹線を伝い、紀正の住む土地の妻のもとへ行くような気さえした。

 花梨は、そんな自分をいやに思いながらも、まれにふっと紀正とその妻の馴れ合った姿を想像し、憎悪を感じていた自分を情けなく思った。
そんな繰り返しがあった。

 紀正への思いはなかなか消えなかった。妄執というのはこれか、と初めて思った。人の家庭が羨ましくてならなかった。
 能の『道成寺』のように、逃げる男へ、自分の身は嫉妬と情念の炎に燃えた。
    
わすれゆく人の心をとる筆に哀とみえんすみつきもがな

うらみても海人のこりつむ もしほ木のこらずそ 人を思ひこがるる

「六帖詠草 恋歌」より

 都会で、花梨は、化粧もしないでぼんやりと庭の梅を眺めていた。つやのない髪につやのない肌、仕事は山済みで、残業してもアルバイト先では喜ばれない。
「まるで、すごく働いているみたいだね」
と上司に嫌味を言われた。

 梅の甘い香りを吸おう、そう思って訪れた静かな庭園に行く時間があるなら、美容院に行けばよいのにと思う。
手入れをしても、髪に触る相手もいない。

 花梨は、仕事の暇の合間に映画を見たりはしたが、桜咲いて小学校の入学式シーズンに夫婦そろってスーツを着て子どもを連れて歩く親の姿を見て眩しくてサングラスをかけて町へ行く。幸福そうな写真に家族像が納まっている都会。

 紀正は、4月転勤して本社の東京に戻ってきていた。
紀正は、妻の絵里子に打診された。
「ねえ、授業参観に来てくれるわよね」
紀正は、
「ああ、勿論さ」
絵里子を引き寄せ、軽く口づけを交わす。

 花梨は、桜が満開になり、春風に舞う桜吹雪の中で、朝の通勤列車を待っていた。
ふと、あの見事な散り際に感嘆し、
「ああ、綺麗。」
そう呟いて、思わず、ホームの前に足を出して進んだ。

「列車が参ります。白線の内側までお下がりください」

構内アナウンスが流れる中、何も耳に入らず、花梨はまたさっと手を差し伸べて、足をまた前へ踏み出すと、
「あ、危ない」
という横の声と同時に列車が警笛を鳴らす中、ホームの中へ沈んで行った。

「桜の海の中で波に飲まれたみたい。紀正(のりまさ)・・・・」
花梨は、そう頭の中で思案して、どさっと線路の轍の中に身を落とした。

傍にいた、ある勇気ある青年が、とっさにホームに飛び降りて、花梨を起こして、ほかの乗務客と線路から引き上げた。
列車に緊急警報が押されて合図され、列車は緊急ブレーキを駆けた。

駆けつける駅員や、遠回りに見ているほかの客の中で、花梨は助け出された。
ニュースで、足が滑って女性が線路に落ち、列車に15分の遅れが生じたと、新聞の片隅に掲載された。

 紀正の妻絵里子は、新聞を読んでいて、こう述べた。
「ほんとうに迷惑な話よね、死ぬなら、勝手にひとりで死ねばいいじゃない。」
紀正は、どれ・・・と新聞を覗いて、
「事故だって、書いてあるじゃないか。おまえもそそっかしいから気をつけろよ。結構、通勤時は、人がひしめいているからな。」

紀正は、朝のトーストを囓って、冷めた紅茶を飲むと、背広をまとって玄関に出かけはじめた。妻の絵里子を軽く抱いた。
「行って来ます」
紀正には、もう花梨の姿も表情も何もなく、スケジュール表を眺めるのに精一杯だった。

 
 姉の慶子が、妹の花梨の見舞いに来た。
花梨は軽い怪我をして、寝込んでいた。
「花梨、ほんとうに危なかったんだから」

書棚を見渡して、慶子は呟いた。
「何がおもしろいのかしら。ほんとうに、こんなものばかり集めて。でも、聖書があるわ。神社仏閣が好きだったんじゃなないの?」

慶子は聖書を取り出して、
「汝の敵を愛せ。アーメン」
とふざけて見せ、机にぽんと置いた。
「信心深いと命も助かるかもね」
慶子は抱いていた幼児のおしめを取り替えに隣の部屋へ移動した。

 机の上に置いてあった聖書が、春の嵐に吹かれてページが勝手にめくられた。
 誰もいない子猫が昼寝をしている庭先から、居間に強風が吹いてきたのだ。
 子猫がテーブルに乗って、あくびをして覗くと、こう書いてあった。

「喜べ、不妊の女よ。声をあげて喜べ、産みの苦しみを知らない女よ。ひとり者となっている女は多くの子を産み、その数は、夫ある女の子らよりも多い」

“ Be cheerful, barren woman who dose not bear; break out with shouting,
You who have no birthpangs, because more noemerous
Are the children of the desolate woman than
Of the one who has a husband,”

GALATIAN4 ガラリア人への手紙第四章

 
 桜が公園では咲き誇り、紀正と絵里子と子どもが手をつないで歩いていると、桜の花びらが突風になって吹き付けた。
絵里子の目に張り付いて、桜の花びらが取れない。

「いやだわ、目に入った」
紀正が笑って言った。
「確率からすると、すごく珍しい。」

そう話した紀正の喉に桜の花びらが吹き込んだ。思わず、つばを吐いたが、歯茎に張り付いて取れない。子どもが叫んだ。
「ああ、すごい。雪みたい。」
春の嵐はなかなか収まらず、晴れ上がらず、花曇の中、親子は歩いて行く。

 紀正が、あとから来る車に気をつけて、と妻子をかばうと、すーと爽やかな風が吹き上げて来て、紀正の頬をなでると、背中をそっと前へ押し出した。
空から急に太陽が顔を出し、銀の光が目に入った。
「眩しい」
 紀正は、思わず、目をふせた。

 絵里子は、
「あなた、何しているの。早くして。」
とせかしていた。

紀正は、暖かな光の中で、思わず、花梨が財布につけていた銀の鈴を思い出したが、一瞬の出来事だった。
「遅刻してしまう」
 親子は、春の嵐の中、学校へと足早に歩いて行った。

「桜の木の下には死体が埋まってる」梶井基次郎

 丸善の本屋で、梶井基次郎コーナーに本が置いてあった。
姉の慶子は、なにげなく思い出して、振り返った。
今日は子供の誕生日。

「こういう時、花梨ちゃんがいるといいのよね。長靴下のピッピ、ドリトル先生航海記、エルマーの冒険、などと児童書にも詳しかったもの。」

 すると、子供の信也がまじめな顔をして言った。
「あの浦島太郎の亀さんのお話したネネ?」
「そうよ。また会いに行きましょうね」
慶子は微笑んで、子供の手をひっぱって行った。    

終わり



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1 コメント

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何でもござれのみなりんさん、 (悠山人)
2007-12-01 01:39:20
何でもござれのみなりんさん、
随筆もいいけれど、小説はまた別人のように、軽い運び。
これもいいなあ・・・と勝手な独り言♪
ところで numerous かな?
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