GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

≪私の風のガーデン≫

2009年06月09日 | Weblog
私の風のガーデンを風が吹き抜けてゆく

七つの海を渡ってきた風かもしれない
熱い南の大陸で多くの悲しみを見つめてきた風かもしれない
寒い北のツンドラを吹き吹き抜けてきた風かもしれない
いま私のガーデンをその風が吹き抜けてゆく

再び戻らずとも私は嘆かない
また違った風が吹くことを知っているから

どんな命のあり様を見てきたのだろうか
振り返れば私の心も風が吹き抜ける


   
32年前 120名の同期が入社した。
12年後私が退職するころすでに10名足らずになっていた。

市場規模9兆円と云われていたその頃の外食産業はバブル期には30兆円まで伸びた。
その間に多くの仲間や知人、上司が去っていった。
交通事故で命を失った同じ大学から来た仲間もいた。
ギャンブルにはまり売上も持ち逃げしたヤツもいた。

妻帯者にも関わらず若い女性に手を出し、
お父さんが怒鳴り込んできた場に遭遇したこともある。
ヤクザの脅しに警察四課に協力を求めたこともある。
店の中でヤクザが暴れ出し、警察を呼んで現行犯逮捕されたこともある。

若い女性従業員がイケメン店長(妻帯者)に熱を上げ、
最後は自殺すると云って警察まで巻き込んで大騒ぎになったこともある。

その後彼女は違う店の店長といい仲になり、両親が私に仲人を頼みにこられた。
まだ若いのでと丁重にお断りしたが、
「あんな事があった子だから、頼める方はあなた様しかいません」
両親が畳に頭をこすりつけるように頼んで来られたので断り切れなかった。
神奈川県藤沢市、私が32歳、息子が5歳の時だった。

その後子供が幼稚園を卒業する年に丸12年勤めたD会社を退職した。
1988年の春だった。 (バブル最盛期は1990年)
私は地元の関西で飲食店をやりたいと考えていた。

中学時代の親友が営業部長をしていた繊維会社が、
中央区の倉庫街で2店の飲食店を営業していた。
それらの店の運営を任せたい、また開いている倉庫を利用して新たな店を開業しないか?
そんな話が舞い込んできた。
私はこの偶然を天の導きと受け取った。

現金は1,000万(D社の株)と12年間努めたD社の退職金200万円だった。
その繊維会社は親友の高校時代の友人が社長(同い歳)をしていた。
私とはまったく面識はなかった。

「いくら出資できますか?」その若社長は私に尋ねた。
「1,000万です」
「いつまでに用意できますか?」
「1週間以内には」
その間に若社長はせわしなく席を立ち、2度も電話に出た。

私は人生の大切なステージに立っていた。
彼はその事を感じているのだろうか?
向こうで電話に応対する彼の声が聞こえてきた。

「あれは売るつもりだ。もう一方の株の代金はできるだけ早く…」
(彼は株をやっている? 現金を必要としている?)

彼にとっては1,000万円という金額は微々たるものだったかもしれない。
しかし、私に取っては12年間の結晶であり、今後の糧だった。
その後、若社長のBMWで営業している飲食店を回った。
倉庫の外観をそのままにして、深夜に若者が集まりそうな作りだった。
出してした料理はイマイチだったが面白いと感じた。
東京や横浜でも同じような作りの店を何十店も回って資料作りを初めていたので
これからの関西の動きは読めていた。

車の中でも若社長の店に対する熱意は感じられなかった。
どこか上の空のように感じた。

(株のことを気にしているのか?)
私の頭の危険信号がまたも点滅を始めた。
(こんなヤツとは組めない)

「しばらく考えさせて貰います」
私はそういって彼と別れた。その時すでに決心はついていた…。
3日ほどして中学時代の親友を呼びだした。

「悪いが今回の話はなかったことにしてくれ」
「どうして?」
「若社長の店に対する熱を感じられない、株売買も気に入らない」
天の導きと考えていたが、自分の感性を優先した。


その後、父と共にキタやミナミの不動産を何件も回った。
店舗物件やその金額を調べるためだった。
父の店の権利金、私の1,000万円を合わせても3,500万円がやっとの資金だった。
しかし、不動産屋での調査ではまずまずの立地でも最低1億は必要と思われた。
私も父もバブルの恐ろしさを実感した。
(私には無理)

その後、1年半は父や母と共に実家の商店街で店を手伝った。
いっしょに働いたことがなかった私にとって
今になって思えば素晴らしい時を与えてくれた気がする。
元気な母や父にわずかな期間だが親孝行できたような気がしたからだ。
私が青色申告書を記入して税務署に申告した。

そんな時、元D社で知人だったH氏(彼は店舗開発部、私は営業部)から
「H電鉄に来ないか?」と声がかかった。(9歳年上でH電鉄に再入社していた)
「H電鉄では異動(引っ越しを伴う)がないぞ」
この言葉が私の心を動かした。

(この商店街に未来はない)
そう感じていた私は新たな気持ちでサラリーマンに返り咲いた。
両親も大賛成だった。

係長としての入社だった。
D社を退職した時の年収は650万円だった。
H社での年収は600万円だった。今から約30年前の話だ。
2年後、配属されたグループ会社の飲食部を
創立以来初めて黒字化に成功し、課長に昇格した。
年収は一気に上昇した。私はH社では外様だった。
だがら部長昇格は至難の技だった。

しかし、グループ会社の社長の信頼を得て年収は大台を越えた。
その間に念願の飲食店をオープンさせた。
毎年1、200万円以上の赤字店だったお好み焼き店を閉店して
カウンターしゃぶしゃぶ「お箸の国」という名の店をオープンさせたのだ。
名前の由来は、その頃味の素のテレビコマーシャルで三田佳子が
「お箸の国の人だから…」というセリフから取った命名だった。

その後しばらくして、中学時代の親友から連絡が入り、
彼の繊維会社が倒産したことを知った。
原因は若社長の株売買による多大の負債だった。
和歌山の山や地所をすべて売って借金を返したという話だった。
本業の繊維部門での赤字が要因ではなかった。

私の親友は自分でアパレルの会社を興し、社長となって今も頑張っている。
若社長のその後の話は聞いていない。

課長昇格を果たさせてくれた「お箸の国」は、残念ながら今はない。
私の後任が焼き肉をファンも付けずに始めたものだからスクリンクラーが作動し、
お客様がいる中、店は水浸しになって大騒ぎになった。
その後、SCのリニュアル時居酒屋チェーンに貸すことに決まった。
後任はその後役職を剥奪され窓際で定年を待っている。

私は料飲部・企画部の責任者として他のグループ会社に異動した。
N市の臨海公園内にあるレジャー施設で
現在料飲部と建物の保守管理部、N市からの受託部門、公園部門の責任者をしている。
サラーマンとしての昇格人生はすでに終わっているが、
若い人を育てることに意欲を燃やしている。
今もできる限り新たなことにも挑戦したいと思っている。
売上は少子化や建物の老朽化、
新興の大手フィットネスチェーンの為に苦戦をしいられている。

年収は年棒制となり、昨年役職定年(55歳)を迎え大台を割り込んだが
それは世間流れと受け止めれば致し方ないこと。


四季の草花が咲き乱れ、施設の裏はすぐ大阪湾・海が広がっている。
季節の移り変わりが風が運んできてくれる。
サラリーマンの最終の地とすれば最高の場所のように思える。

吹き抜ける風は人生を彷彿させる。
D社時代10店舗のファミリーレストランをオープンさせたが、
15年未満の契約が殆どなので今はその店はない。
多くの店をオープンさせたが、
唯一私の店と云える「お箸の国」も今は幻の如く姿を消した。

しかし 決して幻ではない。
そこに人がいて私と共に汗を流したのだから。
彼らから今も年賀状が届く。 
結婚した、子供が生まれた 孫ができた…
そう 確かに幻ではないのだ。

心に初夏の風が吹き抜けてゆく
無常の世の中を随分見てきた
しかし いい思い出は幻ではない

いい別れはいい想い出となり
心の宝物となって私の心を支えてくれる

その宝物が無常の世で光を放ち
冷めていこうとする心の住処を温めてくれる
私が学んだ人生訓だ

すべての人は平等に いずれ逝く
作り上げたものはいずれなくなる
風が通りすぎてゆくように

私の風のガーデンを風が吹き抜けている
その風は 時に潮の香りを運び
時に今のように 初夏の湿った草花の香りを運んでくれる



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