GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

『新・平家物語』を読み終えて

2013年11月03日 | Weblog

 今年初めての旅行が平家一門が滅びた「壇ノ浦」、武蔵と小次郎が決闘した「巌流島」を訪れることになったのは、連れ添いのアイデアですが、私が一年半以上をかけて読んできた『新・平家物語』(全16巻)がきっかけになっているのは間違いありません。また「巌流島」は吉川英治氏の『宮本武蔵』ファンなら一度は訪れたい場所でもありました。

 58歳の吉川英治氏が7年をかけて『新・平家物語』を完成(昭和32年)させました。彼は私が最も敬愛する作家ですが、この作品を書き上げた時期と奇しくも私の年齢が被っているのを初めて知りました。
 さて、16巻もの超大作『新・平家物語』を読み終えて、印象に残っているのは建礼門院(清盛の娘:徳子)が平家一族をすべて失って京都大原の三千院・寂光院に28歳の若さで籠もり、その後20年余りの歳月を過ごしたことです。平家一門の栄華の頂点は、自らが高倉天皇の中宮として安徳天皇を生んだときです。そして、清盛の死後たった4年という歳月で、その栄華の一切を失い、自ら壇ノ浦で身を投げます。しかし、独りだけ助かってしまうのです。その後の20年余りの長い歳月を何を思って寂光院で暮らしたのだろうか、まるで竜宮城のような作りだった赤間神宮を訪れたとき思いました。。このことについて吉川英治氏は多くを語っていません。清盛の永遠のライバルだった後白河法皇が寂光院を尋ねるシーンでは、妻でもあった建礼門院にこう語っています。
『…煩悩、抜け難いは、人みなの相(すがた)、おりには、世への恨みもおわそう。過ぎし日の、あれこれ、ひとり悲しゅう、思い出らるることもあろうに…』と。それはまさしく後白河法皇の気持ちでもあったでしょう。

    

    

 一ノ谷から義経の本格的な平家追討劇が始まります。そして、屋島、壇ノ浦まで、まるで神が乗り移ったかのような快進撃に頼朝まで目を見張ります。しかし、その後頼朝の猜疑心のために義経は一度も鎌倉に入ることなく追われることになります。一旦京都に戻りますが、吉野、奈良、伊勢、伊賀、安宅、そして平泉へと落ちていきます。義経が藤原家を頼ったがために栄華を極めた藤原氏も頼朝に滅ぼされます。山口県の西の果てから東北の平泉まで、こんのような大きな戦いがかつてあったでしょうか。

 頼朝は藤原基成・泰衡に義経追討を命じて、義経が衣川館で自害に追いやられたのは1189年、その後基成は泰衡に殺され、泰衡もまた義経を今まで匿っていたとして頼朝に殺されます。1192年、後白河法皇が亡くなってようや征夷大将軍に任じられて鎌倉幕府が正式に認めらることになります。7年後、頼朝は相模川の橋供養に出かけた帰り、稲村ヶ崎辺りで落馬して17日後、53歳の若さで亡くなっています。
 
 日本全土を巻き込んだこの源平合戦の図式は、その後、天下分け目の戦いと言われた関ヶ原の戦い、そして、江戸幕府末期の戊辰戦争も見方を変えれば東西の戦いと云えなくもありません。現在この日本で生きている私たちは、源平合戦のDNAを内在しているはずです。そして、そのDNAが私たちの生き方に多少の影響を与えているのかもしれません。こんなふうに考えると大きなロマンを感じます。私自身は東西のどちらのDNAを多く内在しているのだろかと。日本史を振り返るとき、それは自らのDNAを振り返るとこと同義ではないかと考えずにはいられません。