今日は「半藤一利追悼の日」(私的には)1/13
※歴史分析と「歴史探偵」
(半藤一利著「あの戦争と日本人」他)
今朝の新聞(1/13)で
「半藤一利さん 死去」の記事が。
えっ、あの半藤先生が⁈
1930年生まれの90歳
私の母と同い年生まれだった
毎年 終戦の日を迎える
真夏の8月15日に
各メディアが集中的に流す
戦争に関する番組や記事の数々‥
しかし 大抵のものは
帯に短し襷に流しの様相で
隔靴掻痒の感を抱くことが多く
これだと思うような手応えのある
内容に出会ったことが
(寡聞のためか?)ほとんどない
そんな中
2011 年の初夏に
本屋さんで出会い購入したのが
半藤一利著「あの戦争と日本人」である
(2011年刊 文藝春秋社発行)
語り下ろしで
客観的 かつ 合理的、そして 批評的で
生身の息遣いのする本である
誰にも与(くみ)しない
誰にも忖度しないことに
とことん留意した、あるいは
拘った「歴史探偵」(研究家)である
その批評眼と歴史観の原点は
戦前、戦中、戦後の大人たちを
それぞれのステージで
周囲の大人たちの言動振る舞いを
冷静に 純粋な少年の眼で
じっと観察した経験がベースにある
(相次ぐ弟妹の病死、東京大空襲等)
あの戦争に関することを
どんどん掘り進め広げていくうちに
何と幕末の時代にまで辿り着き
その日本人の根っこの処まで
捉えることができた
何も戦争中に突然変異のように
日本人が豹変したのではなくて
その根っこ(ベース)の処は
連綿として深層のところで
引き継がれてきたようだ
だから
いわば「戦争状態」でもある
デジタル時代の令和の現代でも
自粛警察の役割を遂行する人や
批判だけのマスメディアと
それに乗っかってしまう人が
コロナ禍で疲弊している民衆や
関係担当者の不安感や閉塞感、
そして 疲労感、絶望感を
煽(あお)ることだけに
邁進しているのかもしれない
命がけで先頭に立つ者や
時には耳に痛いことも言う者、
現状を冷静に分析して
将来を見据えた施策を決断する者、
具体的な科学的なデータを出す者、
責任あるものや専門家として
自分の言葉で 心から訴えかける者
ーそんな人を見かけなくなって久しい
逆説めくが 社会が平穏になって
政治家も専門家も、そして科学者も
昔より随分小ぶりになったように思う
ps 2021.1.13 草稿 1.15 追記など
巨大な歴史分析家「歴史探偵」を
失くして 日本の歴史家や批評家は
大きな指針を、日本の方位磁針を
失くして 狼狽えているかもしれない
歴史の渦の中で もがき 苦しみ
そして喜びつつ精一杯に生きた人たちの
貴重な話を聞き出し 歴史分析の糧とし
『やさしい言葉で 昭和史を
後世に伝える仕事に注力した半藤さん。
平和は、国民の努力によって支え、
保つことができる、と訴え続けた』
また、『半藤さんは、今の時代、
政治とはイメージ操作だと書く。
「活字よりは音声、理屈より印象、
思考より気分」が優先されると」』
熊日新聞(2021.1.13)より
※引用あるいは参考にした
熊日新聞 2021.1.14 15:00 電子版より
『半藤一利さん、妻は漱石の孫 交流あった熊本の関係者、死惜しむ声』(タイトル)
熊本日日新聞 | 01月14日 15:00
12日に90歳で亡くなった作家の半藤一利さんは、1996年の夏目漱石来熊100年記念イベントをきっかけに熊本とのつながりを深めてきた。交流があった県内関係者からは半藤さんの死を惜しむ声が多く聞かれた。
半藤さんは、漱石来熊100年を記念して96年に舞台化された小説「草枕」の脚本を手掛け、この年に創設された「草枕文学賞」(~2002年)の選考委員も務めた。
漱石来熊100年記念イベントに関わった元熊本大教授の中村青史さん(86)は1980年代、漱石関係の情報を聞くために「文芸春秋」の編集部長だった半藤さんを訪ねたのが初めての出会い。「歴史家としての嗅覚に優れ、物事を必ず自分の足と目で確かめる人だった。親族としても、研究者としても、熊本が漱石文学の重要な舞台だったことを認識していた大事な人だった」と悔やむ。
96年の「くまもと漱石博」で事務局を担当した元熊日編集局長の平野有益さん(70)も「半藤さんの妻末利子さんが漱石の孫という縁もあり、“漱石探偵家”の半藤さんは漱石博に全面的に協力してくださった。熊本について『漱石にとって精神的に深いつながりのある土地』とも語っていた」と振り返る。関連イベントで参加者が漱石らに扮[ふん]する「ミスター漱石&マドンナコンテスト」では、面白がって夫妻で審査員を引き受けたという。(以上 電子版より抜粋)
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