滋賀・紫香楽宮跡/木簡に万葉歌 編纂前に墨書か/
「難波津の歌」裏返すと「安積山の歌」
奈良時代に聖武天皇が造営した紫香楽宮(しがらきのみや)(742~745年)があった滋賀県甲賀市の宮町遺跡で出土した木簡に、万葉集に収められた和歌が記されていることがわかり、22日、市教委が発表した。万葉歌が書かれた木簡が見つかったのは初めて。平安時代の古今和歌集の仮名序で、紀貫之が「歌の父母(ちちはは)」と記した「安積香山(あさかやま)の歌」の一部で、片面には対となる「難波津(なにわづ)の歌」が記されていた。万葉集が編纂(へんさん)されたのとほぼ同時期にあたり、日本最古の歌集の成立を考えるうえで極めて重要な発見となる。
木簡のデジタル赤外線写真。万葉集に収録された「安積山の歌」の一部(左)、裏面(右)に「難波津の歌」の一部が書かれていた=滋賀県甲賀市教委提供[引用者注]
万葉集巻16に収められた「安積香山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに」のうち、1字で1音を表す万葉仮名で「阿佐可夜(あさかや)」と「流夜真(るやま)」の7文字が墨書されているのが判読できた。歌の大意は「(福島県の)安積山の影まで映す山の泉ほど、私の心は浅くありません」。陸奥国に派遣された葛城(かつらぎ)王が国司の接待が悪くて立腹、かつて采女だった女性が詠んで、王が機嫌を直したという注がある。
木簡は長さ7・9センチと14センチの二つに割れており、いずれも幅2・2センチ、厚さ1ミリ。本来の長さは約60センチと推定でき、儀式や宴会で詠み上げるのに使った「歌木簡」とみられる。宮殿中枢部の西約220~230メートルの大溝から1997年度の調査で出土。744年末~745年初めに廃棄されたらしい。昨年12月から栄原 永遠男(さかえはら とわお)・大阪市立大教授(古代史)らが「難波津の歌」が書かれた木簡を再調査し、その裏側で確認した。
万葉集は745年以降の数年間に15巻と付録が成立し、巻16は付録を増補して独立させたとする説が有力。今回の木簡は、万葉集完成前に書かれた可能性が強く、市教委は「この歌が当時広く流布しており、収録したのだろう」としている。
「難波津の歌」は「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」で、仁徳天皇の即位を祝った歌とされる。万葉集には収録されていないが、木簡や土器に書かれた三十数例が出土している。古今集仮名序は二つの歌を最初に習う歌と紹介、今回の発見で、2首を1対とする伝統が、仮名序を160年さかのぼる奈良時代から続いていたことが明らかになった。
中西進・奈良県立万葉文化館館長(国文学)の話「万葉集編集の材料として、木簡も使われていた可能性がわかった。転写を重ねてできた平安時代以降の写本での仮名遣いが、木簡の文字との比較で正確だったことが明らかになった意義も大きい。万葉集研究のうえで重要な史料だ」
万葉集
7~8世紀に編纂された現存するわが国最古の歌集。全20巻で、天皇や庶民ら幅広い階層の約4500首を収める。恋や自然などを素朴に表現した作風が特徴。原本は残っておらず、平安時代以降の写本や注釈本が伝わる。
国文学と連携 謎に迫る
安積山(あさかやま)の歌木簡の出土は、聖武天皇が造営した紫香楽宮(しがらきのみや)が万葉集を生み出した舞台だったことを示した。
続日本紀に掲載された和歌・歌謡7首のうち、4首は742~743年(天平14~15年)に同宮での宴で詠まれた。天皇をたたえる内容も含まれている。近くからは「歌一首」と墨書した土器も出土。歌木簡と併せ、和歌が盛んな都の様相が明らかになった。
村田正博・大阪市立大教授(国文学)は「様々な場で歌の蓄積があり、万葉集が形成された。歌の伝承と記載という点でも示唆するところが大きい」と話す。
同宮は、聖武天皇が内憂を避け、新政治を進めるために造営したとされる。和歌の隆盛は同宮の成熟度と華麗さを物語るが、政治状況を考えると世相を明るくし、不安を払拭(ふっしょく)する演出があったとの見方もできそうだ。
難波津の歌は1948年に法隆寺五重塔で落書きが見つかって注目され、三十数例が分かっている。今回の発見を機に、安積山の歌に限らず、万葉歌に関する新資料が出てくる可能性は十分ある。毛利正守・武庫川女子大教授(国語学)は「出土遺物を国文学の立場で、もう一度“洗い直す”作業も必要だ」と期待する。
考古学と国文学が連携して、万葉集成立の謎に迫った意義は大きい。この学際的な取り組みを全国へ広げるとともに、奈良時代史の研究で重要な紫香楽宮跡の調査、研究を発展させてほしい。
(編集委員 柳林修)
(2008年05月23日 読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is80523b.htm