悠山人の新古今

日本初→新古今集選、紫式部集全、和泉式部集全、各現代詠完了!
新領域→短歌写真&俳句写真!
日本初→源氏歌集全完了!

【資料】万葉木簡新発見M5

2008-05-26 21:01:00 | literature

憂楽帳:コンテナの山から
 滋賀県甲賀市の遺跡で出土した8世紀半ばの木簡に万葉歌が墨で書いてあったという。万葉集が成立する前の木簡だったことに学術的価値があるようだが、個人的には掘り出されたのが11年も前だったことに心が騒いだ。
 古代の堀や溝、水害被災地は宝の山である。当時の日用品が埋まっているからだ。ただし、何が何だか分からないかけらばかり。今回の木簡も厚さ1ミリ。木くずにしか見えなかっただろう。それでもきちんと保存されていたのである。
 各地の発掘現場に建つプレハブ小屋や埋蔵文化財センターの作業室で、土器片、石片、木片などを洗っては小さな記号を書き入れ、青いコンテナに整然と収める作業を見たことがある。その中に青銅器の鋳型があるかもしれないが、分かるのはいつ!と、その時は思った。
 それでも、研究者はコンテナの山から一つ一つ取り出して吟味を続けていたのである。11年かかっても無理はない。過去数十年間、開発のたびに発掘が行われ、コンテナは増えてきた。開発が減って発掘も減った今、次の大発見も再びコンテナから、かもしれない。【高原克行】

毎日新聞 2008年5月26日 西部夕刊
http://mainichi.jp/seibu/shakai/news/20080526ddg041070014000c.html


俳句写真296 世の海は

2008-05-26 05:00:00 | 俳句写真
2008-0526-yhs296
世の海は
それぞれにこそ
往くべけれ  悠山人

○俳句写真、詠む。
○潮の香り。穏やかな湾に、船の往き来するを眺めて、一時くつろぐ。
□俳写296 よのうみは それぞれにこそ ゆくべけれ
【写真】東京湾・海ほたるから東京方面を望む。撮影者の背面は千葉県。活字は二句までと結句で、反転色になっている。しばらくはこのあたりの俳句写真・短歌写真。先日。
ZyklusBT(Bay_of_Tokyo)1。世の海-混詠1。
*Hans Zimmer - Da Vinci Code, The - Salvete Virgines (Bonus Track) (3:12) | 209.9.229.206:80*

短歌写真593 残りたる

2008-05-25 05:35:00 | 短歌写真
2008-0525-yts593
残りたる牡丹はつかにいまだしも
うひうひしきはなぞ哀しかる   悠山人

○短歌写真、詠む。
○芸術公園の牡丹園を見回って驚いた。夏日が続くこのごろなのに、二、三株の牡丹がまだ見事に咲いていた。
□短写593 のこりたる ぼたんはつかに いまだしも
        うひうひしきは なぞかなしかる
【写真】芸術公園で、先日。

image538 矢車菊2

2008-05-25 05:30:00 | images
2008-0525-yim538
title : Centaurea_cyanus2
yyyy/mm : 2008/05
memo : 菜園には、青(いちばん多い)・紫・赤などが乱れ咲く。『広辞苑』には、別名として「セントーレア」と載る。羅語学名の英語風読みである。
 【写真】同前。

image537 矢車菊1

2008-05-25 05:25:00 | images
2008-0525-yim537
title : Centaurea_cyanus1
yyyy/mm : 2008/05
memo : 矢車菊(やぐるまぎく)。学名は Centaurea cyanus(ケンタウレア・キュアヌス)。英米語名は Cornflower、Knapweed。科-属-種は、菊-矢車菊-矢車菊。「ヤグルマソウともいうが、ユキノシタ科のヤグルマソウと混同しないようにヤグルマギクと呼ばれる。」(ウィキペディア、2008年05月) 麦藁菊と同じように背高なので、倒れ易い。

 【写真】数日前、自宅で。
*Randy Edelman - Daylight - Light At The End (5:25) | 209.9.229.206:80*

【資料】万葉木簡新発見M4

2008-05-24 21:01:00 | literature
余録:「今昔物語集」に美しい大納言の娘が…
 「今昔物語集」に美しい大納言の娘が家に仕えていた男に連れ去られ、陸奥の安積(あさか)山中で暮らす話がある。数年後のある日、娘は歩いているうちに井戸を見つけた。その水面に映るわが姿の変わりようを見て、近くの木に書く▲「あさか山かげさへみゆる山の井の あさくは人をおもふものかは」。アレ最近似た歌を聞いたという方もおいでだろう。滋賀県・宮町遺跡で出土した木簡の万葉歌「安積山影さへ見ゆる山の井の 浅き心を我が思はなくに」のことである▲この歌、万葉集には全く別の話がのっている。葛城王(かづらきのおおきみ)が陸奥に遣わされた時、国司にないがしろにされた王が怒り、接待の宴がしらけた。その時ある采女(うねめ)が山の井の水を手に、王の膝(ひざ)をたたきながらこの歌を詠んで機嫌をとりもったという▲古今集仮名序が、安積山の歌は采女の戯れから詠まれたというのもこの話を受けてのことだ。歌にまつわる物語や伝承は「歌語り」というが、長く歌い継がれるうちにこの歌はさまざまに語り継がれ、「歌語りの王座を占めた」(伊藤博著「萬葉集釋注」集英社文庫)ようである▲8世紀中ごろのものという木簡には、古今集仮名序で安積山の歌と共に「歌の父母」とされた「難波津(なにわづ)に咲くや木(こ)の花冬こもり 今は春べと咲くや木の花」が書かれていた。二つの歌の組み合わせは古今集の150年前にさかのぼるらしい▲木簡の歌が万葉仮名で書かれていたことも、従来の有力説より古くから歌に万葉仮名が使われていた証拠になるという。万葉集の成立事情にも新たな光があてられよう。1200年以上の時を越え、歌の父母からはまた新たな歌語りがどんどん生まれそうだ。

俳句写真295 かをりては

2008-05-24 04:50:00 | 俳句写真
2008-0524-yhs295
かをりては
リラにまがひし
ひとの去り  悠山人

○俳句写真、詠む。
○紫丁香花、承前。人の気配のないのを確認し、近付いて微香をかぎながら、接写に没入する。するととつぜん背後から、ムラサキハシドイ? 聞いたことがないわねえ、などと声がした。思わず、驚いたなあ、誰もいないと思っていたから、と振り返って声の主を見た。一見して、園内をひとりウォーキングしている女性だと分かる。二言、三言の往復ののち、彼女は去った。四十台半ばの、自ずから気品の漂う美形であった。・・・
□俳写295 かをりては リラにまがひし ひとのさり
【写真】同前。

image536 紫丁香花

2008-05-24 04:45:00 | images
2008-0524-yim536
title : lilac
yyyy/mm : 2008/05
memo : 白色のライラックだな、と思って根元の名札を見ると、「ムラサキハシドイ/モクセイ科」と素っ気ない。電網で調べると、ライラックなど西洋語以外は、すべて「紫丁香花/むらさきはしどい」になっている。漢字は中国名、読みは大和風。そこで漢字の本家を訪ねると、「紫丁香花」が華やかだ。北京語読みでは、zidingxianghua 3111。大和言葉に漢字を当てると、「紫端集」。cf. 以前に調べた結果は、「短歌写真343 わが宿に」(2007年05月08日、yts343)、「短歌写真134 花花の」(2006年04月17日、yts134)。
 【写真】先日、芸術公園で。
【memo】中国語電網を探っていると、「哀悼死者、祈福生者!抗震救災、・・・」などの四字熟語がしきりに出て来て、この大震災のような時でも、音楽が生きていると、しみじみ(というほどの学力もないが)感じ入った次第である。
*Melody of Tea - love is only word | 61.72.254.153:8000*[-HAPPYDAY-Contemporary Instrumental]

【資料】万葉木簡新発見Y1

2008-05-23 21:05:00 | literature

滋賀・紫香楽宮跡/木簡に万葉歌 編纂前に墨書か/
「難波津の歌」裏返すと「安積山の歌」

 奈良時代に聖武天皇が造営した紫香楽宮(しがらきのみや)(742~745年)があった滋賀県甲賀市の宮町遺跡で出土した木簡に、万葉集に収められた和歌が記されていることがわかり、22日、市教委が発表した。万葉歌が書かれた木簡が見つかったのは初めて。平安時代の古今和歌集の仮名序で、紀貫之が「歌の父母(ちちはは)」と記した「安積香山(あさかやま)の歌」の一部で、片面には対となる「難波津(なにわづ)の歌」が記されていた。万葉集が編纂(へんさん)されたのとほぼ同時期にあたり、日本最古の歌集の成立を考えるうえで極めて重要な発見となる。

木簡のデジタル赤外線写真。万葉集に収録された「安積山の歌」の一部(左)、裏面(右)に「難波津の歌」の一部が書かれていた=滋賀県甲賀市教委提供[引用者注]

 万葉集巻16に収められた「安積香山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに」のうち、1字で1音を表す万葉仮名で「阿佐可夜(あさかや)」と「流夜真(るやま)」の7文字が墨書されているのが判読できた。歌の大意は「(福島県の)安積山の影まで映す山の泉ほど、私の心は浅くありません」。陸奥国に派遣された葛城(かつらぎ)王が国司の接待が悪くて立腹、かつて采女だった女性が詠んで、王が機嫌を直したという注がある。
 木簡は長さ7・9センチと14センチの二つに割れており、いずれも幅2・2センチ、厚さ1ミリ。本来の長さは約60センチと推定でき、儀式や宴会で詠み上げるのに使った「歌木簡」とみられる。宮殿中枢部の西約220~230メートルの大溝から1997年度の調査で出土。744年末~745年初めに廃棄されたらしい。昨年12月から栄原 永遠男(さかえはら とわお)・大阪市立大教授(古代史)らが「難波津の歌」が書かれた木簡を再調査し、その裏側で確認した。
 万葉集は745年以降の数年間に15巻と付録が成立し、巻16は付録を増補して独立させたとする説が有力。今回の木簡は、万葉集完成前に書かれた可能性が強く、市教委は「この歌が当時広く流布しており、収録したのだろう」としている。
 「難波津の歌」は「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」で、仁徳天皇の即位を祝った歌とされる。万葉集には収録されていないが、木簡や土器に書かれた三十数例が出土している。古今集仮名序は二つの歌を最初に習う歌と紹介、今回の発見で、2首を1対とする伝統が、仮名序を160年さかのぼる奈良時代から続いていたことが明らかになった。
 中西進・奈良県立万葉文化館館長(国文学)の話「万葉集編集の材料として、木簡も使われていた可能性がわかった。転写を重ねてできた平安時代以降の写本での仮名遣いが、木簡の文字との比較で正確だったことが明らかになった意義も大きい。万葉集研究のうえで重要な史料だ」

万葉集
 7~8世紀に編纂された現存するわが国最古の歌集。全20巻で、天皇や庶民ら幅広い階層の約4500首を収める。恋や自然などを素朴に表現した作風が特徴。原本は残っておらず、平安時代以降の写本や注釈本が伝わる。

国文学と連携 謎に迫る
 安積山(あさかやま)の歌木簡の出土は、聖武天皇が造営した紫香楽宮(しがらきのみや)が万葉集を生み出した舞台だったことを示した。
 続日本紀に掲載された和歌・歌謡7首のうち、4首は742~743年(天平14~15年)に同宮での宴で詠まれた。天皇をたたえる内容も含まれている。近くからは「歌一首」と墨書した土器も出土。歌木簡と併せ、和歌が盛んな都の様相が明らかになった。
 村田正博・大阪市立大教授(国文学)は「様々な場で歌の蓄積があり、万葉集が形成された。歌の伝承と記載という点でも示唆するところが大きい」と話す。
 同宮は、聖武天皇が内憂を避け、新政治を進めるために造営したとされる。和歌の隆盛は同宮の成熟度と華麗さを物語るが、政治状況を考えると世相を明るくし、不安を払拭(ふっしょく)する演出があったとの見方もできそうだ。
 難波津の歌は1948年に法隆寺五重塔で落書きが見つかって注目され、三十数例が分かっている。今回の発見を機に、安積山の歌に限らず、万葉歌に関する新資料が出てくる可能性は十分ある。毛利正守・武庫川女子大教授(国語学)は「出土遺物を国文学の立場で、もう一度“洗い直す”作業も必要だ」と期待する。
 考古学と国文学が連携して、万葉集成立の謎に迫った意義は大きい。この学際的な取り組みを全国へ広げるとともに、奈良時代史の研究で重要な紫香楽宮跡の調査、研究を発展させてほしい。
 (編集委員 柳林修)

(2008年05月23日  読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is80523b.htm


【資料】万葉木簡新発見A1

2008-05-23 21:04:00 | literature
万葉集成立前?に万葉集収録の歌を書いた木簡が出土
2008年05月22日

 滋賀県甲賀市教委は22日、奈良時代に聖武天皇が造営した紫香楽宮(しがらきのみや)跡とされる同市信楽町の宮町遺跡(8世紀中ごろ)から、国内最古の歌集の万葉集の歌が書かれた木簡が見つかったと発表した。万葉集収録の歌が木簡で確認されたのは初めて。出土した他の木簡に記載された年号から、この歌が収められた万葉集16巻の成立(750年前後)より数年から十数年前に墨で書かれたとみられる。

万葉集の歌などが記された木簡=滋賀県甲賀市、諫山卓弥撮影[引用者注]

 木簡は上下二つに分かれて出土し、上部は長さ7.9センチ、下部は14センチ、いずれも幅2.2センチ、厚さ1ミリ。上部の片側には漢字1字で1音を表記する万葉仮名で「阿佐可夜(あさかや)」、下部には「流夜真(るやま)」と書かれている。万葉集16巻には、陸奥国に派遣された葛城王をもてなした前(さき)の采女(うねめ)(元の女官)が、王の心を解きほぐすため宴席で詠んだ「安積香山(あさかやま)影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに」が収録されている。  反対側の面にも「奈迩波ツ尓(なにはつに)」「夜己能波(やこのは)」「由己(ゆご)」とあり、10世紀初めの平安時代に編さんされた古今和歌集収録の「難波津(なにはつ)に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」の一部とみられる。「難波津」の歌が書かれた木簡は奈良県の平城宮跡などで見つかっている。
 この2首の歌について紀貫之は古今和歌集の仮名序(905年)で「歌の父母のやうにてぞ手習ふ人の初めにもしける」と、初心者が最初に習う一対の歌として紹介している。2首を手本とする考え方はその150年前から存在していたといえそうだ。 木簡の元の長さは文字の大きさから約60センチと推定。宮廷の儀式や歌会などで用いられた可能性が高いとみている。  市教委は25日午後1時から同市内の信楽中央公民館で報告会を開き、木簡を展示する。定員150人(先着順)。26~30日にも同市内の宮町多目的集会施設で展示する。いずれも無料。
◇  「安積香山(あさかやま) 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに」(安積香山の影までも見える澄んだ山の井のような浅い心では私は思っていないのです)=小学館の「日本古典文学全集」などから
◇  「難波津(なにはつ)に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」(難波津に梅の花が咲いています。今こそ春が来たと、梅の花が咲いています)=小学館の「新編日本古典文学全集」などから
◇  〈上野誠・奈良大教授(万葉文化論)の話〉 万葉集の原本は見つかっておらず、これまでの研究はいわば写本の比較にとどまっていた。今回の発見は、人々の間に広まっていた歌が書き記され、歌集になるという万葉集の一連の成立過程を明らかにする上で極めて重要な発見だ。

[引用者注:図1~図3は別掲]
http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK200805220108.html