2006-1221-yis051
葬送の昇る煙に思うのよ
いつか私も見られるのだと 悠山人
○和泉式部集、詠む。
○前書きに、「山寺にこもりたるに、人の葬送したるを見て」。このところ宿している山寺から外の景色を見ていると、火葬場から煙がひとすじ、静かに昇って行く。お亡くなりになったのは、どなたかしら。私もいつかはこういう風にして、人から眺められるのね・・・。火葬は概ね上流階級の風習なので、誰の弔いなのか分かっていることも、十分考えられる。
□和051:たちのぼる けぶりにつけて おもふかな
いつまたわれを ひとのかくみむ
□悠051:そうそうの のぼるけむりに おもうのよ
いつかわたしも みられるのだと
2006-1221-yts274
幾人と幾百年と奏でられ
なほわが胸に汝は迫り来ぬ 悠山人
○短歌写真、詠む。
○ストラディは1700年前後の製作だから、ざっと三世紀は使われ続けていることになる。
¶来(き)ぬ=頻用動詞ほど活用形が不規則なのは、古今東西共通で、学習者・研究者を悩ませる。「来」を終止形と見れば、読みは「く」。古語辞典の見出し語となり、「自カ変」と注があるから、「自動詞・カ行・変格活用」であることが分かる。「来ぬ」を「きぬ」とよむと、「来た」の意。
ついでに言うと、旺文版では第1義に「来る」、第2義に「行く」とあって、現代日本語では全く別扱いであるが、英語やドイツ語では今でも come, kommen などは、古代・中世日本語と同じ用法が生きているから、不思議だ。そのこと自体が、重要な研究課題にもなる。
「来(こ)ぬ」と読むと、終止形「来(く)」の未然形で「まだ来ない」。
「来(く)る」も見出し語に載るが、「来(く)」の連体形。
一趣味人としては辞書を手離せない、という次第。
□短写274 いくたりと いくももとせと かなでられ
なほわがむねに なはせまりきぬ
【写真】承前。レタッチなし。