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百歳に向かってもう一度世界一周

百歳に向かってもう一度「歩いて世界一周」に挑戦したい。日中友好董存瑞育英基金を充実したい。富士登拝・・・

Y・Aさんを訪ねて

2012-01-25 18:12:13 | 自分史

 1月25(水)平成17年1月1日より 2,590日目
         歩いた歩数        その距離
本日       15、947
歩      11、163m
総計 36,099
,211歩 25,269,448m
イタリヤ・オーストリヤ・ドイツベルリンを経てハノーバーに向かう。後 315,402m

 昨夜、市の公民館から「先日校長先生からお話のあった表装の講習会の講師を中野市のS・T先生が出来るようだとY.Aから連絡を受けた」と電話を受けた。Y・Aさんとは年賀状こそ交換しているが、久しく声を交わしたこともないが、故人となられた書道の大家金木先生を一緒に訪ねた仲なので、早速電話した。

 午後、iphoneで電話、「自宅」をクリックすると公会堂の隣の家と判った。誰にも聞かず迷わず到着した。旧交を謝し、表装講習会の道筋を開いてくれたことの礼を述べ早速講師先生の紹介を受けた。嘗てS・T先生には既に表装の手解きを受けた恩師であることを知り、話は順調に進んだ。

 私の真の目標は、中国学童の習字の裏打ちをボランティアでして欲しいということで、そのために紙屋を訪ね、裏打ち紙を買いに来る者を訪ねたが、今は誰の居ない、嘗ての人達は故人になってしまったというので、道を絶たれて居たのを、再び曙光を見出したことを語り、今後の協力をお願いした。

 帰途、「書家金木壽遷 作品集」を頂いた。先生の遺墨展の実行委員長として奮闘した傍ら、素晴らしい作品集を作成された力量に深く感動した。

 


高齢者の自動車免許証書換

2012-01-24 17:07:02 | 自分史

 1月24(火) 平成17年1月1日より 2,589日目
         歩いた歩数        その距離
本日       15、573
歩      10、901m
総計 36,083
,264歩 25,258,285m
イタリヤ・オーストリヤ・ドイツベルリンを経てハノーバーに向かう。後 326,565m

昼食を終わった所で妻に「免許の書き換えに行かないか」と呼びかけた。昨年の12月、二人で中野の教習所で「高齢者講習」を受けて修了書も二人で貰ってあるし、二人とも2月生まれなので、一緒に自動車の免許の更新が出来る資格があるし、更新しなければならない時期に来ているのだ。

 「高齢者講習修了証書」をもって出掛けたが、掛けているメガネが良く見えない。ティッシュで拭いて見ると、パソコン用のメガネだった。慌てて引き返して警察に行くと、妻はすべての手続が済んで私を待っていた。私は乗用車だけでなく中型貨物(8t)もあるので、平衡感覚の検査もやり、写真は前回の物だったので撮り直した。二人の免許更新の手続きはすべて完了した。

 これで私は平成27年まで運転可能だ。90歳だ。卒壽だ。妻は88歳、米寿だ。こんな夫婦ってシャバに居るだろうか?まぁ平成27年まで生きていることが条件だが・・・。第一この年になるまでにはどちらか片方が落ちて居る方が多い。私たちは幸せだ。私が免許とったのは昭和27年、妻は私の仕事の片腕にと昭和37年にとったのだ。

 考えてみれば永い人生。二人でよく頑張って来たもんだ。過ぎてしまえば苦労も楽しい思い出だ。今妻は足が良くないので遠道はだめだが、老人クラブのタクシー替わりで楽しんでいる。定年過ぎた若夫婦も未だに勤めに出ている。お陰でこんな幸せな生活をしている家庭はあんまりないと喜んでいる。


中国の子供の作品が来た

2012-01-16 20:15:02 | 自分史

  1月16(月) 平成17年1月1日より 2,581日目
         歩いた歩数        その距離
本日       10、680
歩        7、476m
総計 35,960
,959歩 25,172,671m
イタリヤ・オーストリヤ・ドイツミュンヘンを経てベルリンに向かう。後 73,199m

         
                              中国から大きな贈り物が来た

         
                 中国から送られた子供たちの作品

 今日はパソコン同好会の年の初めの日。張り切って待ち構えていたが何となくムードが悪い。これが年の初めの勉強会かと思うと、ムカついた。自習に待ったを掛けて一発ぶっ放した。「皆さん、年賀状ありがとう!私が今年の年賀状を分析して3分の1が生きている証を示した物。「昨年は大変お世話になりました。本年もよろしく」と。昨年一度も便りがなくてやっと年賀状だ。私は未だ生きています、という挨拶で一番気に入らない年賀状。次はその挨拶に自筆で一言挨拶文、これが5ぶんの3、これがまぁ一人前の年賀状だ。写真入りの年賀状は19通来た。自分だけの写真が5枚。家族と一諸が5枚、旅行や行事を何枚か入れた写真が9枚。これは気に入った」と。

 残念なことに、パソコン教室で写真入りの年賀状を作ろうと頑張った同好会のメンバーからは写真の入った年賀状は一枚も来なかった。寂しかった。侘しかった。何のための勉強会だったのか、と嫌味を言った初寄りだった。

 家に戻ると玄関に大きなダンボールが有った。承徳外事弁からの贈り物、隆化の存瑞小学校の作品だと直ぐ判った。嫌な思いがいっぺんに吹っ飛んだ。期待した以上に大きな箱、開封に心が踊った。

 開いてまた驚いた。絵には子供の日中友好の気持ちが表現されていて頼もしかったが、書は私でさえとても出来ない勢いのある筆さばき、品格さえ具えた書法、何処でどうやって修練を積めば此処まで上達できるのかと感嘆せられる書に圧倒された。

 お世話してくれた肖振玲さんにメール。盟友のYさんと基金の会計のSさんに電話で吉報。今後お世話になる日中の会長と理事長には電話で報告した。明日は作品展を共催する関係者に連絡をとる予定だ。

 この贈り物を宝に、これを力に、今年一年日中友好に身を入れて尽くす覚悟だ。

 

 


正受老人と白隠禅師

2012-01-15 14:08:04 | 自分史

 1月15(日) 平成17年1月1日より 2,580日目
         歩いた歩数        その距離
本日      14、962
歩      10、473m
総計 35,950
,279歩 25,165,195m
イタリヤ・オーストリヤ・ドイツミュンヘンを経てベルリンに向かう。後 80,675m

           
                               
道陸神を作る鉄砲町の人たち

 「これから作って今夜燃やすんだ」という。「町中なので作って置いては火災の危険があるから」と消防署から指導されているのだという。御気の毒なこと!

           
                  吉岡氏が刻した篆刻印

 先日、盟友Yさんが年始にやってきて、【安岡正篤記念館】(財)郷学研修所発行の【郷学78号誌】とカレンダーを呉れた。畏まった難しい冊子で取っ付き難かったが、正受老人と白隠禅師の故事が記されて居たので目を通した。

 【臨済宗中興の祖と崇められている白隠禅師が慧鵅と呼ばれていた頃、信濃飯山の正受老人こと道鏡慧端に参じ、所見を呈すると、正受老人が「這箇(しゃこ)は是れ汝が学得底(がくとくてい)」これはおまえが頭で学んで得たものだ。「那箇か是れ見得底(けんとくてい)どれがおまえが本当に心の目で見て来たものかと厳しく迫った。そして数々の公案、禅問答の末、白隠が悟ったと自負していた自慢の鼻柱をへし折った。それ以来白隠は正受老人の許で真剣に参じ、辛辣な難業の末大悟した。】と。

 正受庵の登り口は【蹴落とし坂】と云われている。白隠禅師は高田で修行して来て、ここで正受老人と問答、蹴落とされたという。

 この文章を寄稿された吉岡純一氏は大阪府の方で、日本農士学校9期生で、終戦の詔書に「万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」と加筆されたと云われる陽明学の大家安岡正篤先生並びに菅谷検校先生から伺った話であると記されている。上段の篆刻はその想いから、定年後永年の夢であった篆刻を自ら刻印されたものだという。

 私も中国から色々な石を仕入れて来て篆刻を試みたが、気に入った印が出来上がった験しがない。吉岡氏のこの篆刻は真に見事、品格を具えた逸品である。感じ入った。

 もう一つの思い出は郷里の歴史研究家水野さんに「白隠禅師が正受庵を辞して清水に戻るときに、正受老人が別れを惜しんで見送ったという善光寺街道の別れ途まで連れて行って貰った事を思い出した。郷土史を学んだ頃の懐かしい話だ。


鏡開き

2012-01-11 16:51:27 | 自分史

   1月11日(水) 平成17年1月1日より 2,576日目
         歩いた歩数        その距離
本日       10、231
歩        7、162m
総計 35,888
,878歩 25,122,215m
イタリヤ・オーストリヤ・ドイツミュンヘンを経てベルリンに向かう。後 123,655m

 今日は妻と妻の姉の家に年始に訪れた。正月なので【お神酒を】と勧められたが、車の運転を妻に任せられないので遠慮すると、昼近く「黄粉餅」が出された。それで【鏡開き】を思い出した。

 我が家では1月11日は【鏡開き】の日として正月に神棚や玄関に供えた鏡餅を下げて【御汁粉】で食べるのが永い間の習慣だったが、子供や孫も成長し、お汁粉も食べたいときに食べられるようになって来たので、忘れがちになって来た

 私たち一家が神田の神保町の前田ビルに越した翌年の正月11日、初めて【お汁粉】を腹いっぱい食べた。浅草でのお正月には頂いたが、それは儀式そのものだったが、ここ前田ビルの一階は日中は整骨院で夜は柔道の道場で賑わっていたので、多くの青少年が出入りしていた。正月11日は稽古が終わった後、お汁粉の大盤振る舞いが行われた。私もそのお相伴に与ったという訳だ。その美味かったこと!

 しかしそのお汁粉の大盤振る舞いは永くは続かなかった。戦争が次第に激しくなって、多くの青壮年が兵隊になって出征して行き、道場は次第に勢いを失って、前田ビルは錦水館と名前も変えられた。

 甘いものは段々と手に入らなくなってお汁粉を腹いっぱい食べることなどは出来ない時代が永く続いた。私が世帯を持ち、子供がうまれ、生活もやっと安定した頃になって、子供の頃に食べたお汁粉の美味かったことを思い出して、我が家でも復活した。

 それが、何時でもいくらでも食べられる時代になって、お汁粉の有難味も薄れてきた。今になって、妻に1月11日は鏡開きの日、お汁粉の日だ。日本の美風だ。必ずこの風習は守って呉れという程の権威も威厳も失くなってしまった。残念!