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百歳に向かってもう一度世界一周

百歳に向かってもう一度「歩いて世界一周」に挑戦したい。日中友好董存瑞育英基金を充実したい。富士登拝・・・

大東亜戦争に芙蓉部隊あり

2012-02-07 18:02:57 | 自分史

  2月7日 平成17年1月1日より2,603日目
          歩いた歩数          その距離
本日      15,355歩        10、749m
総計 36,236,089歩  25,365,262m
イタリヤ・オーストリア・ドイツベルリンを経てハノーバーに向かう。後219,588m

        
                   ユーキャンから心を動かす広告が来た。

 

ユーキャンの「世界を震撼した3年8ヶ月、海と陸の攻防太平洋戦争」の広告心を揺さぶられた。私たちの青春は戦争で始まり戦争で終わった。夢は大東亜共栄圏の建設であり、アジアの有色人種を開放し、民族独立を実現する理想に血湧き肉踊る燃えた記念碑的な人生を後世に伝えたい思いにかられた。

 昭和20年の春、長野電鉄線の車中で、私が日頃尊敬する町の有力者が突然「戦争は負けだ。もうダメだ!」と叫んだ。驚いた私はカッとなって「何を言うんだ!一億一心、本土決戦に向って戦意に燃えている時に詰まらぬデマを飛ばすな!」と怒鳴ってしまった。車中は殆どが女性だったが、私の声に応えて拍手に湧いた。それから数ケ月、終戦を迎えた。今思い出しても慙愧に堪えない。そんな思いの中で、PCのユーチューブで「特攻に抗命した芙蓉隊」の動画を見た。

 美濃部少佐は若干29歳ながら沖縄作戦に命を掛けて「特攻作戦に勝算があるというのか。命を惜しんで言うのではない。夜間攻撃こそ死に甲斐のある戦果があります」と。次々と戦果をあげて「芙蓉隊」は最後まで戦った。花と散った特攻か、夜間攻撃で戦果をあげた芙蓉隊か、正か邪か喧々諤々の論議は別として思い思いのコメントを載せておく。

◯ 目的が「死ぬ」事なのか「戦う」事なのか、区別がつかなくなって­いた日本にあって、冷静に考察する力と行動力があった方々にに敬­意を表します。

◯ 戦争がある限り平和を望み平和がある限り戦争が起こる

◯ 特攻が普通の時代の中に特攻に反対して違う形をとることは勇気の­あったことだと思う。

◯後世を信じて逝った彼ら・・・今の日本を見たらどう思うだろうか­?彼らの犠牲によって生かされた現代人は己を見つめなおし彼らに­恥じない誇りある日本人として生きなければならないのでは

◯ 戦争体験者にしかわからない戦争の実態。また恐ろしい事を繰り返­さないためにも、生存者の声に耳を傾けるべき。

◯ 今の価値・基準で、あの当時の事を判断するのは間違いです。大儀­の無い戦争などありません。「大東亜共栄圏」という大儀があった­ではないですか。負けてしまったから、今の日本のように否定され蔑まれつづけなけ­ればならなくなったのです。


中国学童作品展 (3)

2012-01-30 10:28:20 | 自分史

  1月30日 平成17年1月1日より2,595日目
          歩いた歩数          その距離
本日       14,006歩           9,804m
総計 36,151,907歩  25,306,335m
イタリヤ・オーストラリア・ドイツベルリンを経てハノーバーに向かう。後278,515m

  暫く「中国学童作品展を連載することにしましたので、中国の児童の作品を御覧頂いて、中国の義務教育の水準・在り方をご理解頂きたいと思います。

                 
                      硬筆 孔繁龍 5・4          韓冬雪 5・3

                          
                                                羅夢寶 8歳 

                     
                              四条屏 徐宏賓 五年生 

                     
                                             切り絵  丹鳳朝陽  丁 健  六年二組

   皆さん!ご覧になられた率直の感想をコメントしてください。それが何よりの「日中友好」だと思います。


中国学童作品展 (2)

2012-01-29 10:28:18 | 自分史

  

  1月29日 平成17年1月1日より2,594日目
            歩いた歩数            その距離
本日        10,920歩           7,644m
総計 36,137,971歩  25,296,531m
イタリヤ・オーストラリア・ドイツベルリンを経てハノーバーに向かう。後288,319m

  暫く「中国学童作品展を連載することにしましたので、中国の児童の作品を御覧頂いて、中国の義務教育の水準・在り方をご理解頂きたいと思います。

この作品を寄せられたのは、中国河北省承徳地区隆化県の存瑞小学校の児童の皆さんです。此処は北京の北330km程の田舎です。

     
                          硬筆 馬駿鳴 5年1組          牛吉祥 5年3組 11歳       

         
                     和平共処  王 爽胎 6年8組 12歳

                        
                             劉 蘇溫 10歳 書

                
                      楷書四屏 牛 吉祥 五年三組 10歳

                           
                                        故人聯句 霊嵩 年齢不詳

 皆さん!ご覧になられた率直の感想をコメントしてください。それが何よりの「日中友好」だと思います。

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           飯 山 市 に 豪 雪 警 戒 本 部   

    飯山市は積雪が2mを超えて更に降雪が続くとの予報に足立市長を本部長とする「豪雪警戒本部」を設置した。長野地方気象台は28日午後8時、野沢温泉253cm(平年143cm)小谷247cm(同102cm)飯山226cm(同93cm)、29日にかけて更に大雪と予報、30cmと予報」した。県内のJR線は除雪作業のため、28日、信越線や飯山線の一部に終日運休し、更に29日も戸狩野沢駅~越後川口間を運休して除雪するという。

          
 無散水消雪道路も余りの豪雪に機能を失い、除雪車のご厄介になってやっと排雪された。       

 

    


大雪

2012-01-27 20:21:11 | 自分史

 

1月27日(金)大雪 平成17年1月1日より 2,592日目
         歩いた歩数        その距離
本日      7、998
歩      5、599m
総計 36,119
,024歩 25,283,317m
イタリヤ・オーストリヤ・ドイツベルリンを経てハノーバーに向かう。後 301,533m

大雪

 3階の部屋から見た雪風景 無散水消雪道路になっている路も用をなさず、車は難行。人々は朝から除雪に追われている。我が家は昨日トラックで排雪して貰ったばかりだが、また一階は埋まってしまった。

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                   中国学童の作品展で

 中国から送られた学童の習字の裏打ちをボランティアでする計画で、昨日公民館を訪れたところ、館長さんから「素晴らしい作品なら、私は美術館長もやっているので、長野の書道の権威に見てもらい、評価されたら美術館で裏打ちを引き受けても良いという意向を伺ったので、飯山小学校の教頭先生にその話を伝えると、校長に報告して了解を得れば、公民館にお願いしたいと。

 今朝、校長の了解をえたという電話を受けたので、午後大雪の中公民館に運んだ。館長に昨日の礼を述べ、作品を持参したことを告げると、館長は「私が見ても分からない。時に長野へは行ってられない。春にでもなれば・・・」と言う。私は「小学校では6年生はあと40日あまりで卒業になるので、6年生だけは卒業前に講堂にでも並べて鑑賞してもらう心算だと言っているで、一応持ち帰ります。折角持ってきたので、部屋を借りて写真を撮らせてください」と告げた。

 館員が事務室前の101号室を指示されたので、そこで作品を床に並べて、机の上から撮影を始めた。作品は掛軸が1本、書き初め大のものが15枚、大幅が11枚、硬筆の書が12点、絵画が10点で、2時間近く掛かった。

 私は昨日の館長の好意ある対応に感謝していたが、今日の応対はまるで別人のように豹変したので、冷たい刃で心臓を抉られた思いをした。並の人なら持参した包が中国の子供の作品であれば、誰でも開けて見せて欲しいと言うだろう。この人は私は見ても解らないと言って見もしなかった事と、101号室に2時間近くも居たのに、館長ばかりか、一人の職員も顔を見せなかったのには呆れ返った。これが公民館の実体かと思った。

 生涯学習を掲げて指導している公民館に、暇を見つけて覗きに来る好奇心さえ無いのか、それ程勤務が厳しいのか、と思った。家に帰って次第に腹立たしさが込み上げてきた。晩酌も不味かった。

 


同級生 大塚一男を偲ぶ

2012-01-26 20:16:53 | 自分史

 1月26日(木)大雪 平成17年1月1日より 2,591日目
         歩いた歩数        その距離
本日       11、815
歩        8、271m
総計 36,111
,026歩 25,277,718m
イタリヤ・オーストリヤ・ドイツベルリンを経てハノーバーに向かう。後 307,132m

 今日、寒中見舞いが来た。「お健やかにお過ごしのことと存じます。新しい年のご挨拶を早々に頂戴致しまして有難う御座いました。夫、大塚一男は昨年9月3日、86歳で永眠致しました。生前のご交誼、ご厚情を深謝いたします。ご挨拶遠慮させて頂きました皆様のご健康とご多幸をお祈りもうしあげます。」と奥様からでした。

 亡くなられたことも知らず、年賀状を差し上げたことの失礼を詫びるとともに、何故?どうしてとの思いからiphoneを見た。大塚一男と入力すると、<訃報>大塚一男さん86歳=松川事件の主任弁護人。拡大写真=1979年撮影 3日、肺がんのため死去。葬儀は7日午前11時、東京都三鷹市上連雀2の5の13の法専寺同朋会館。喪主は妻ます子さん。と出た。

 はてなキーワードには(転載)

 弁護士

1925年、生まれ。2011年9月3日、死去。

長野県出身

農林学校を卒業後、弁護士を志して早稲田大学(専門部法律科)に学ぶ。

1944年9月繰り上げ卒業。翌月現役兵として中国大陸(河北)の部隊に入隊。武昌で終戦を迎え1946年3月復員。その年復活した高等文官試験司法科に合格し、1947年5月司法修習生(1期)となる。

弁護士登録後間もない1949年8月17日、福島県松川町(現福島市)の東北線で列車が転覆し機関士ら3人が死亡した「松川事件」が発生。故岡林辰雄弁護士と共に、起訴された旧国鉄労組幹部らの主任弁護人を務め、1963年に最高裁で全員無罪を勝ち取った。

 私は長野県飯山尋常高等小学校で1年から4年まで忠組で学んだ同級生だ。昭和24年お盆の同級会で彼は「怖くて汽車にも乗れんなぁ!汽車が脱線転覆したんだってょ!」と言ったが、東京に戻った彼はその被告の弁護団員となり、後に団長として指揮して最高裁で全員無罪の壮挙を成し遂げた。彼は日頃、「弁護士は被告の弁護をするが、坊主がお経を呼んでも死人は生き返らない。弁護士が弁護するのは被告の気休めにしかならない。そんな事じゃダメなんだ」と言っていたが、遂に「やった!」と私は思った。

 もう一つおまけに後輩の弔辞を転載しておこう。

TOP トピックス> 藤本弁護士(自由法曹団東京支部長)の記事「大塚一男団員を悼む」が、東京支部ニュース(2011年9月、No.454)に掲載されました。

藤本弁護士(自由法曹団東京支部長)の記事「大塚一男団員を悼む」が、東京支部ニュース(2011年9月、No.454)に掲載されました。

 大塚一男弁護士(1期)は、1951年1月に当事務所が創設された時の所属弁護士です。本年9月3日ご逝去されました(享年86歳)。謹んでお悔やみ申し上げます。

大塚一男団員を悼む
                                                      藤本 齊
 大塚一男支部団員が、9月3日、亡くなりました。謹んで哀悼の意を表します。
 大塚さんは、研修所1期、73年まで東京合同法律事務所で、その後は四谷法律事務所で長く活動され、松川事件の主任弁護人を一貫して務められたのを始め多くの事件で自由法曹団員としての仕事を成し遂げられてきた一方、日弁連人権擁護委員長をはじめ同委員会を中心に弁護士会の中でも大きな活躍をされてきました。
 私自身にとっても忘れられない貴重な大先輩の一人でした。東京合同事務所にはいってすぐの事務所の飲み会は四谷事務所に移る大塚さんの歓送会で、その司会をさせられたのは一年生の私でした。実に複雑な思いでしたが、その後も結局は江津再審請求や芦別国賠請求事件等で延々と大塚さんの謦咳に接することで私の弁護士生活は始まったのです。
当時の弁護団合宿は一組しかない正規記録一式を山奥の一室にずらりと並べておいて、いくつかの事務所からやってきた各人、担当関係を黙々と読み、黙々と書き、また黙々と読み書き上げるというものですから、山の中に4,5泊するのが普通で、散歩と入浴以外は他にすることもなく、夜を迎えるわけです。夜の食卓の周りで一番しゃべってたのは大塚さんだったような気がする。色んな裁判官や検察官や弁護士を定点観測して来た大塚さんの個別個人批評を感心しながら聞いたものです。まだ若かった私たちは、個人の個性の問題じゃなくて制度や支配的イデオロギーの問題なのだと、言ってみれば思考省略をしていたのですが、ギリギリ制度を追求して来て見れば、そこから人間も見えてくるものらしいということに不思議な感銘を覚えたものです。でも、未だに、私も又私達の世代もそういう風には到達しえていないようです。
 更に夜が更けると、橋本紀徳さんが胴元になってのトランプのブラックアウト(余り知られてないかも知れないですが、実に単純なルールなのに実に飽きない。)に興じることになり、その累積結果が毎朝鴨居に貼り出されてぶる下がっている下で、再び黙々たる合宿が始まるという次第です。でも、大塚さんはこれには参加せず批評的な眼で我々を眺めてらした。何を考えてらしたのでしょうか。
 岡林辰雄さんの笑顔について、私はかつて団通信紙上で、顔からはみ出る満面の笑みと評したことがありましたが、大塚さんのそれは、ちょうど顔一杯の過不足なき見事な満面の笑みというべきでしょう。本当に日頃から優しさそのものの様な人でした。それだけに、叱責されたときは怖い。何しろ過不足ないのですから。日弁連の人権委の企画の関係で一度叱責する顔を見たことがある。怖かった。
 弁護士になって5年目の78年4月22日の九段会館での大塚さんの講演は忘れがたいものがあります。日弁連全国統一行動として日弁連・関弁連・東京三会共催の「弁護人ぬき裁判と刑法・少年法改悪阻止を訴える東京集会」で前々人権委員長だった大塚さんがされたメインの講演です。優に2時間に及んだんじゃないかと思う膨大な講演の最後を、大塚さんは次のように述べて終えました。印象的でした。
「国民とともに歩み、ともに悲しみ、ともに憤りつつ、真実と正義の実現に苦闘してきたところの在野法曹の100年の歴史というもの、そしてその100年の歴史を現代において唯一最高の形に結集したのが、日本弁護士連合会であります。どうかみなさん、日弁連とともにこの(弁抜き)法案を廃案に追い込み、代用監獄を廃止させ、少年法と刑法の改悪を防ぐためにいっしょになって立ち上がってください。私はその一人として、乏しい経験の中から感じたことをここにつづってみなさんへのご報告にさせていただきました。」(日本評論社「回想の松川弁護」p295~332)
 ここには、さまざまな意味で、いかにも大塚さんらしい考え方、センス、配慮、・・・思想がにじみ出ていると私には感じとれました。以降しばらく、このときの大塚さんの講演の発想を下敷きにさせていただきながらあちこちでの講演に活用させていただく日々が続いたことをまざまざと覚えています。
 大塚さんの多くの著書の中で、何といっても衝撃的だったのは、「最高裁調査官報告書 松川事件にみる心証の軌跡」(筑摩書房1986)と同事件の被告人とされた本田昇さんとの共編著「松川事件調査官報告書(全文と批判)」(日本評論社1988)でした。死刑4名を含む17名に鈴木禎次郎裁判長が「確信をもって言い渡す」とわざわざ言って「確信判決」などと称された大誤判の上告審での調査官報告書です。元来が門外不出・厳重に秘密にされているはずの調査官報告書の現物(ご丁寧に手書きの注や線まである)が、市場で偶然発見されて入手されたということ自体がまずは信じられない驚愕の出来事だったわけだけれども、その調査を指揮し最終的な全体の修訂を行って統一した主任調査官であった青柳氏の内容がまた、被告団・弁護団に対する悪意に充ち満ちたとんでもないものであったことに大塚さんらさえが驚きをかくせないというしろものです。というより、退官して大学教授となった青柳氏の言動がそういう松川有罪論の報告書の存在を推測させていたところ、それが古本屋で発見されたというわけでもあります(もう一人の補助の龍岡調査官の内容やその後の対応等については大塚さんは青柳氏と比べ節度あるものとして区別して評価されているようです。)。この報告書にもかかわらず最高裁がよく差し戻したともいえます(7対5。実際、田中耕太郎長官らの少数意見はこの報告書を下敷きにしたものです。)。松川の裁判闘争が実際目に見えている以上に奥行きの深いものであったことを思わせるものと言えましょう。若い団員のみなさんにはご存じない方も多いかと思いますが是非一瞥を。前出の「回想の松川事件」等にも概略が触れられています。
 私たちは、いずれやむを得ないこととは言い条、間違いなく偉大な先輩をまた一人失ったことになります。
 でも、今は、心から感謝したいと思います。大塚先生、本当にありがとうございました。