「高知ファンクラブ」 の連載記事集1

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三郎さんの昔話・・・野中兼山の昔話

2010-11-25 | 三郎さんの昔話

野中兼山の昔話

 小学一、二年の頃、大石の祖父母の元へ父の使いで四、五キロもある草の山道をテクテク歩いて、干物魚や煙草を度々届けて喜んでもらい、泊まるとお祖父さんと寝て昔話をいろいろと聞くのが楽しみであった。
 ある晩、「昔、野中兼山という偉いお侍が居てのう」と話し始めた。
 「土佐の殿様山内一豊が偉い戦功を上げて、この土佐の国二十五万石を授かって高知へ来てお城を築いて治めたが、土佐の土地は広いが田んぼが少なくて、とっても二十五万石には程遠い。
 そこでこりゃ何とかせにゃいかんと考えた末、学者で偉い野中兼山というお侍を見付けて連れて来て、田んぼを増やす(開拓)奉行にして、土佐の国を開かした。
 兼山はあの山田の東の大川(物部川)に大勢の人夫を使うて難儀して関を造って、長いゆ溝を引き広い香長平野をみな田んぼにした。
 それから寿雄が住んぢょる土居の町(本山町)にも上ゆ下ゆの二つのゆ溝があるろう。ありゃ大石と向かいの吉延の間の、この下、樫の川の岩がんまくを二か所も関き込んで水を引いちゅう。
 それから森の土居を流れちゅう太いあのゆ溝も、一里も上の床鍋で森川を関いて流して田んぼに引いちゅうがぞ。
 吉延の上にも千間ゆがあるぞ。下津野の田町へも水を引き、それから土佐の国の隅から隅まで、山でも野原でも、田んぼの出来ると思うくには水を引いて田んぼを増やした。
 それで兼山のお陰で土佐は二十五万石どころか五十万石もお米が取れるようになった。本たい兼山という人は偉い人じゃった。
 でものう、その関やゆ溝を造るときは、お祖父らのような百姓は大変じゃったと。春の植え付けや秋の取り入れ以外はお上に狩り出されて、関やゆ溝掘りの人夫にセッセコセッセコと使われて大難議したと。
 その中でもうるさかったのは、夜引っ張り出されて、寒いのに一人づつ一丁おきに提灯をさげて山の中に立ちらかされ、伝達の使いが来て草山を上へ下へと動かされて立ち詰めたと。(測量)
 ゆ溝を掘り進めていて大きな岩や岩石に出会うと大難儀、穴をくったり割れ目を探して、干しずいきをギシギシ竹べらで無理にぎっしり詰め込んで、それに沸かした湯を掛けてひたして、岩が割れかかると、大槌でくらして割らにゃいかん。当時の百姓は、しょううるさかったと。
 それで今でも、人が難儀でうるさい顔をしちょるのを見たら、「おんしゃー、少々のことで、芋のずいきを出すような顔をすな。」と言いよる。そればあ干しずいきを作って出したと。
 関やゆ溝を造って田んぼを増やした兼山さんも本たい偉いが、当時の百姓も物の供出や人夫に狩り出され詰めで、そりゃまっこと大難儀をしたと。でもそのお陰で土佐は方々に田んぼがどっさり増えて楽になったがじゃ。
 野中兼山というお侍も偉かったが、昔の百姓もしょう難儀をした。」
と、声を高く低く上手に話してくれているうちに、寝入ってしもた。

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