ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

こういう物の言い方でいいのかなぁ

2004年12月22日 | 読書
 今日から休み。今年は休みが短いから悲しい。クリスマスツリーを片づけようと思ったけど、雨が降ったので中止。今日はせっせと年賀状を書いた。住所と宛名ぐらいは手書きしようとシコシコ書き始めたのはいいけれど、ふだん字を書かないもんだから、手がだるくってしょうがない。あー、疲れた。

 さて、今日は売れているらしい、この本『物は言いよう』について少し。

 マスコミをにぎわせる「問題発言」「差別発言」をズバズバと採点し、「フェミ・コード」によってすっぱすっぱと切っていく痛快な本。ということなんだけど、確かに文体は痛快でおもしろいからスラスラ読めても、その物の言い方にはあちこちで引っかかってしまう。

 右も左も関係なく、次々に「この発言はジェンダー・バイアスがかかっているからダメ」と切り捨てられていく。西村慎吾や石原慎太郎が批判されるのは当然としても、大江健三郎や「週刊金曜日」の論者まで俎上にのせられてしまうのだ。

 で、斎藤さんは「この言い方ってどうよ。」と批判し、どこが悪いのか懇切丁寧に教えてくれて、おまけにどう言い換えればいいのかまでご指導くださる。実に親切な実用書である。

 しかし、こうなると、フェミニズムもマニュアル本にされてしまって、本来の思想的な部分が換骨奪胎されつくしている感がある。こんなんでいいのかなあと思うのはわたしだけではあるまい。それに、なんでもかんでもフェミコードでほんとに切り分けていけるのか?

 ちょっと上野千鶴子・小倉千加子らの『男流文学論』を思い出してしまったわ。

 差別語を言い換えるという作業は、二つのことを結果する。一つは、差別の構造を温存したまま言葉だけを言い換える姑息な人間を増やすということ。もう一つは、けれどやっぱりそれを超えて人の意識を変えていくということ。

 西村慎吾みたいな人間は、言葉の言い換えかたを教えたぐらいでは本質は変わらないと思う。人は言葉によってものを考える。言葉が変われば考えも変わる。それは間違いなく、ある人々については有効だと思う。


<書誌情報>

 物は言いよう 斎藤美奈子著 平凡社 2004 

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