ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

『赤毛のアン』のテーマは「結婚」である

2004年10月28日 | 読書
 初めて『赤毛のアン』を読んだのはたぶん、小学3年生ぐらいだったと思う。やせっぽちでそばかすだらけのみっともないアンがわたしの自画像と重なった。そばかすこそなかったし髪も赤毛じゃなかったけど、子どもの頃のわたしは痩せて険しい表情をし、かわいげもなく、アンと同じように癇癪持ちで気が強くお転婆で、クラスで一番勉強ができて、空想癖があっておしゃべり好きだった。

 少女時代のわたしはアンのおしゃべりに夢中になり、アヴォンリーの美しい風景にうっとりし、やさしいマシュー小父さんの無口で内気な様子にハラハラし、とにかくアンの世界に魅了されてしまった。だから、アン・シリーズは全作読んでいる。

 というように、日本には異様にアン・ファンが多いのだそうだ。著者によればその理由は、

『赤毛のアン』の中に、日本にはない光景、日本的ではない植物、日本にはない家屋や家具、日本では貴重な食べ物を含め、日本にはない「風景」が描かれていたからである。(p262)


 そして、夢見る少女たちは戦後の日本社会で、アンに惹かれ、アンに自己を同一化した。


アンの「孤独」は、戦後日本のすべての努力家の少女の「孤独」の表象である。どれほど成績が優秀でも、日本人女性を「学校」が数字で評価してくれるのと同じほど公正に評価してくれる「社会」(=会社)はいまだ存在しなかった。(p270)



 本書は、『赤毛のアン』の作者モンゴメリの評伝であり、モンゴメリに仮託して戦後日本の女性心理の一端を追ったものだ。アンの物語は、日本社会に「あるべき女性の姿」を植えつけるのに成功したという。

「自立」を目指しながら、最終的には「ロマンチック」な愛情によって、主人公はけっして集団から転落することがないという結末ゆえに、『赤毛のアン』は、読者にとってはきわめて「安心」で、社会にとってはきわめて「安全」な読み物であった。戦後日本は「疑似近代社会」を作るために『赤毛のアン』から、大きな恩恵を受けている。(273p)


 著者は結婚について善悪の判断を書いていないが、明らかに「結婚」に対してマイナスの価値しか与えていない。だから、赤毛のアンのテーマが「結婚」だと著者が言うとき、それは赤毛のアンがしょせんはつまらない保守的な家庭物語に過ぎないと酷評しているわけだ。


「学校」という「場所」によって自分の存在を確認し、「クラスで一番」でいることを誇らしく思う学力優秀な女性を迎え入れる社会的「場所」は、日本にはまだ用意されていなかったからといって、勝ち気で勤勉な少女が、勉学上の努力を放棄することは望ましいことではない。「学校」で一番の少女が、結婚までは「自立」を目指して努力し、そのあとに「自発的」に結婚制度の中に入るという意味において、つまりは最終的には保守的な人生に回帰するなら、それまでは最も活発で、努力しさえすれば夢が叶うと信じ込ませる「読み物」を普及されることほど、室の高い家内労働力を作る有効な手段はない。(p273)


 そして、そのような生き方しかできなかった作者モンゴメリ自身の思考を大胆に切り開いていく。
 モンゴメリは保守的な性差別者だった、人種差別者だった、国家主義者だった、情念がほとばしる恋愛感情に左右されることなく打算で結婚相手を選んだ云々。と、モンゴメリがミソクソにけなされると、アン・ファンはいい気持ちがしないだろう。

 極めつけはこれだ。

『赤毛のアン』の熱烈な読者は、心の底では夫よりも実は「結婚」の方を愛しているのである。(p274)


 アン・ファンには痛いところをつかれる分析。少なくともわたしにとってはそうだ。痛くも痒くもない人も多いかもしれないが、どっちにしてもアン・ファンには憎まれそうな本を書いたものだ、小倉さん。
 ただ、痛いのは痛いが、ある意味ではすっきりした。なぜ子どもの頃に夢中になって読んだアンの物語を二十歳過ぎたら見向きもしなくなったのか、なぜアンの物語が続編を重ねるたびにつまらなくなったのか、その理由がはっきりしたから。

 それにしてもこの人の文章はなぜこうも読みにくいのだろう。読点の位置が不適切なのだ。岩波の編集者も書き直させればいいのに。
 
<書誌情報>

「赤毛のアン」の秘密  小倉千加子著 岩波書店 2004年


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