ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

メモ:『性の歴史』第2巻 快楽の活用

2005年05月05日 | 読書
 フーコーは『性の歴史』2巻と3巻で古代ギリシア時代の性規範について詳述する。当時の哲学者・医学者の文献を渉猟することにより、何が問題とされ、何が規律違反とされ、何が指弾されるかを探り、そのことから「性を律する主体」がどのようにとらえられているかを分析している。

 第2巻で分析されるのは
     「アフロディジア」愛欲の営み
     「クレーシス」活用
     「エンクラテイア」克己

 快楽を持続されるためには「節制が必要」(ソクラテス)
 と同時に、「しかるべき時を選んで」が大切(プラトン)

 だから、若すぎたり年老いすぎたりして性交するのはよくないとか、季節もいつがいいとか、事細かく書いてある「養生訓」がいくつも存在する。

 というような話に始まって、養生訓だの家庭管理術だの恋愛術だの、当時の哲学者たちが訓戒を垂れた内容を事細かくフーコーは紹介・分析していく。

 手っ取り早く結論だけまとめよう。

 あまねく認められた実践(養生生活の実践、家庭管理の実践、若者にたいして行われる《求愛》の実践)の領域のなかで、しかもそれらの実践の入念な磨きあげを目差していたいくつかの省察をもとにして、ギリシャ人は道徳上の賭金としての性行動について問いかけたのであって、彼らはその性行動において必要だと思われた節度の形式を規定しようと努めた。
 
   ………
 [この三つの問題構成の]まわりにギリシャ人は生きる技法、ふるいまい方の技法、《快楽を活用する》技法を、気難しくて厳しい原則にしたがって展開したのである。

 後にキリスト教の時代がきて厳格な性規範が一般化したというのは間違いで、既に古代ギリシャ(紀元前4世紀)から厳しい規範が述べられていたのだとフーコーは言う。

 性の活動はそれ自体として危険で犠牲をともなくので、しかも生命にかかわる物質(精液)の喪失とつよく結びつくので、その活動は、必要なものでない限り、綿密な節約策によって制限されるべきだ、というものであった。同じくまた、夫婦の双方にたいして、「結婚以外の」あらゆる快楽を等しく絶つように求めていると思われる婚姻上の考証という範例も見出される。最後に、成人大性の、若者とのあらゆる肉体関係の断念という主題も見出されるのである。(p318)



 若者愛にかんするこの省察のなかにおいてこそ、プラトンのエロス論は、濃い、快楽の断念、真理への接近、という三者のあいだの複雑な関連の問題を提出したのである。

 ………

 自由な成人男性によって構成される最小部分の人口にとっては、性の一つの美学を、力(=権力)の作用として知覚される自由についての熟慮にとむ技法を磨きあげる方法なのであった。この性倫理は、部分的には今日のわれわれの性倫理の起源になっているのだが、なるほど不平等および高速にかんするきわめて過酷な体系(とくに女性や奴隷について)に立脚していた。しかしそれは(ギリシャの)思索のなかでは、自由な成人男性にとって、自分の自由の行使、自分の力(=権力)の諸形式、真理への自分の接近、これら三者の関連として問題構成が行なわれてきた。(p321-322)


 要するに、性規範を守ることによって人格を高め権力を得るのはあくまで男なのだ。ギリシャ時代のお説教って、フェミニストが読んだら悶絶しそうな「人生訓、養生訓」なんだな。で、フーコーによれば、ギリシャ時代には若者愛について厳しい倫理を求めていた当時の社会規範が、時代と共にその対象を変遷させる。後には女性にかんして。近代以降は子どもと身体へ。

 フーコーは最終章で「真の恋」という項目を挙げて、若者愛(同性愛)について述べる。なにが「真」なのかというと、恋に通暁するというのは、恋の客体になることではなく恋の主体になることである。恋愛術は求愛する者とされる者との格闘技だ。

 ソクラテスの教訓は、真の恋は肉体の接触を断たねばならない、というもの。厳しいねぇ~、ほんとの恋は相手に触れてはいけないのだそうだ。
 恋が向かうべき対象は若者の肉体ではなく魂だと、プラトン先生も言っている。

 さて第3巻冒頭は『夢占い』だ。長くなったので別エントリーに。

<書誌情報>

 快楽の活用 / ミシェル・フーコー [著] ; 田村俶訳
           新潮社, 1986(性の歴史; 2)


最新の画像もっと見る