ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

メモ:『性の歴史』第3巻「自己への配慮」

2005年05月22日 | 読書
 フーコーの『性の歴史』は1巻だけがおもしろくて、あとの2冊はトリビアルな知識ばかり増えるような話が延々と続く退屈なものだ。こういうのに耐えて何かをつかむというのは実に忍耐のいる作業だ。

 だらだらと続くかのような古典の分析を通じて、いつのまにかフーコーのいわんとした精髄に近づくわけだが、その「ダラダラ」につきあい切れない読者も多いんじゃなかろうか。

 フーコーは2巻・3巻を通じてギリシャ・ローマ時代の同性愛(若者愛)について詳細に分析を試みる。同性愛が否定されていなかったギリシャ時代、若者は大人の男から求愛される美しい存在だった。だが、若者は男の愛を受け入れる受動的存在でありながら、その「受け身」において抑制の効いた自己(主体)を確立することを求められた。また、求める側の大人の男も、若者に対する愛を精神的なものにとどめることによる拷問のような自己抑制を耐えぬくことが偉大な人格を形成すると賞揚されたのだ。

 なんだか妙な道徳観のような気がする。そんなに自己抑制がエライのか?

 ま、それはさておき、第2巻で書かれていた若者愛について、以下の部分が興味をそそる。
 

 男が女を求めるのは動物の雄が雌を求めるのと同じことであり、それは高貴な人間らしい振る舞いではない。むしろ、男が若く美しく才能ある若者に惹かれることこそ、人間にしか見られない愛の形だ。これこそがまさに人間らしい高貴な愛だ。という、考え方をプロトゲネスとペイシアスは力説する。

 [女性との交渉という]行為へわれわれを駆りたてる欲求と衝動は、激しく制御のきかないものにつねになろうとしていて、そうなると、それらは欲望に変わってしまう。このように人は、女性が構成しているあの自然な客体のほうへ、二つの仕方で駆りたてられる。すなわち欲求によって、つまり、世代の存続を分別のある目標として定め、快楽を手段として用いる自然の動きによって。そして欲望によって、つまり、「快楽と喜びを目的として」定める、激しい、内的規則を欠いた動きによって。このどちらもが真の姿における<愛>ではありえないのが、人々には明らかに納得される。前者(欲求)は自然本性的であって、すべての動物に共通するからであり、後者(欲望)は思慮分別の限度を越えて、心を肉体の悦楽に結びつけるからである。(p261)

 真の愛は若者愛しかない。

 不当な快楽はこの愛[若者愛]には無いからであり、この愛は美徳と不可分な情愛を必然的に含むからである。(p262)


 以下は、プルタルコス(1世紀、ローマ帝政下のギリシャ哲学者)の主張と、それに対するフーコーの論評。読みやすいように、原本にない改行を加えた。

 夫婦であることは、共同生活をいとなむあいだの生活の共有を意味する。そのことは(夫婦)相互の思いやりを促す。そのことは完全な共同体を、しかもことなる(ふたつの)肉体における魂の統一を、つまり夫婦は「もはやふたりでありたくない、もはやふたりだとは考えない」ほど強い統一を想定する。最後にそこのことは、他のあらゆる交渉関係をあきらめさせる相互的な節制を要求するのである。

<エロス>の理論から夫婦生活の実践への転換が最も興味ぶかいのは、この最後の論点においてである。事実その転換は、結婚の高い価値にかんして、ストア派の人々に見出しうる観念ときわめて異なる観念を示唆するからである。プルタルコスは実際、「外部から」生じ、方への服従でしかなく、恥と恐れによって押しつけられる節制に、<エロス>の効果たる節制を対置する。夫と妻を互いに相手にたいして燃えあがらせる時の<エロス>こそが実際、「自己統御と慎み深さと忠実さ」をもたらし、夫婦の愛し合う魂のなかに<エロス>が「羞恥心、静けさ、穏やかさ」を持ち込み、その魂に「控え目な態度」を与えて、魂を「唯一の存在に注目」させる。

 その点に、男同士の会いにおける<エロス>の諸性格を再び見出すのは容易である、つまり、愛する者の魂における徳と節度の作用素であるその<エロス>、ソクラテスのような最も完璧な人々の場合、その人が愛する相手の面前でその人を黙らせ、その人の欲望を統御させていたあの慎み深さの根源であるその<エロス>の諸性格を。

 同じ性に属する愛する者のいだく友情に長らくずっとふり当てられてきた種々の特徴を、プルタルコスは夫婦の二元性へ転換するのである。 (p266-267)


 <エロス>なき<アフロディテ>(愛欲の営み)は、金で買える一時の快楽だとプルタルコスは言う。

 プルタルコスは、若者愛が夫婦愛のように、魂と魂の絆が肉体の快楽と結びつく<エロス>と<アフロディテ>の調和ある合成となるのを何が妨げているのか、を規定しようと努める。それはやさしさと好意の欠如だ。

 女性への愛は、やさしさと好意に基づき、快楽が友情と結びつき、完璧なものとなるという。ところが、若者愛はこのようなやさしや好意に基づかない。プルタルコスは、性行為が夫婦の絆に活力を与える情愛関係全体の出発点と位置づける。

 なるほどねぇ、今でもセックスレス夫婦が社会問題視されていて、セックスは夫婦のコミュニケーションにとって必要なものだとかよく言われるが、そういった論理展開はローマ時代からあったわけね。

 そして、プラトン的なエロス論とプルタルコスのエロス論はかなり異なる。ギリシャ文明のエロス論から変化しているのだ。プルタルコスは愛の「二重の能動性」を重視する。つまり、お互いに求め求められなければならないってこと。夫婦は互いを求め、互いを愛する。愛されるよりも愛することのほうが大きな幸福だ、というテーゼ。
 その点、若者愛というのは一方的に若者が年上の男に愛されるわけだから、こういうのはほんとの愛じゃないとして排斥される。

 ふーん。愛って、奪い合うことなのね。ちゃうか(笑)。プルタルコス流にいえば、「愛って与え合うことなのね」になるのかな。

 なんだか説教臭いエロス論だな。


 さて、少々はしょって結論部分へと急ごう。

 のちのキリスト教的性道徳、つまり一夫一婦制の遵守、処女性の重視、同性愛の禁止、の萌芽がすでに紀元1,2世紀に既に現れているのだろうか? それまでのギリシャ哲学の伝統を打ち破ったのだろうか? 性に関する厳格さはローマ帝政期の哲学の中で確立されたのか?

 いや、違う。とフーコーは言う。プラトン、イソクラテス、アリストテレスはそれぞれ言い方は異なるけれど、夫婦の貞節を勧告していた。「また若者愛には人々は最高度の価値を付与できたが、しかし、その愛が人々の期待していた精神的価値を保ちうるために、その愛には、節制の実践がやはり求められていた」。(p310)

 とはいえやっぱり。とフーコーは続ける。えーい、なんじゃそら。結論をさっさとわかりやすく言うてんか! くねくねと逆接逆接で文章を繋ぐんじゃないよ! とフーコーに突っ込みをいれつつ、では結論を思いっきりピピ的にわかりやすくまとめてしまうと、要するに後の時代の厳格な性道徳の萌芽がこの時代に見られる、ってこと。同性愛(若者愛)は否定されていないけれど、最高の価値観は与えられていない。

 この『性の歴史』2巻と3巻でフーコーが分析しようとしたのは「自己抑制」の価値観だ。「訳者あとがき」からこの部分のまとめを抽出しよう。

 フーコーにとって《倫理》とは何であったろうか? 伝統的な道徳哲学や道徳社会学が、道徳規範(許容事項と禁止事項にかんする決まり)をもとにして、その遵守を義務論として展開し、道徳体系の歴史的変化を重視していたとすれば、フーコーの『性の歴史』の企図は、それとは対照的に、自己実践を中心とする「倫理的問題構成の歴史」を記述することであった。

 ギリシャ時代から帝政ローマ時代への性倫理の変容は次のようにまとめられる(訳者あとがきより)

 その変容の第一は、自己への関係の強化としての《自己の陶冶》、自己への配慮の増大である。愛欲の営みにおける自己の勝利から、個人の弱さの自覚への転移が起こる。

 第二は、《家庭管理》の側面よりも夫婦の関係そのものの重視であり、男性の自己統御における、妻との関係の強調。

 第三は、結婚生活外で性の快楽を楽しむ態度が戒められ、結婚状態と性的活動の合体が要請されるようになる。良き相互理解をめざす夫婦関係の新しい価値付与にともなって、帝政期には、若者愛の不毛性が論じられ、新しいエロス論が物語文学に登場する。純潔性という《生の様式》の力説。こうして、恋と純血と結婚の三つが一つの総体を形づくるにいたる。

 
 訳者田村俶氏は、フーコーの魅力を次のように述べている。

 80年代のフーコーの立場は、ドレファス及びラビノーとともに言うならば、人々の行動を宗教や法規範や科学や哲学的基礎づけなどによって正当化することに猛然と抵抗しつつ、想像力や明晰さやユーモアや実践的な知恵を前面に押し出す、生の新しい倫理形式の創造に存していたのである。フーコーに特有なこの反語こそは、私どもを励ます、きわめて刺戟的な逆転の思考の勧めではあるまいか。(p319)


<書誌情報>

自己への配慮 / ミシェル・フーコー [著] ; 田村俶訳. 新潮社, 1987 (性の歴史 ; 3)


Posted by pipihime at 22:13 │Comments(0) │TrackBack(0)

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