ローマの古法に、「ホモ・サケル」(聖なる人間)についての定義がある。
ホモ・サケルとは、邪(よこしま)であると人民が判定した者のことである。そのものを生け贄にすることは合法ではない(neque fas eum immolari)。だが、このものを殺害するものが殺人罪に問われることはない(sed qui occidit,parricidi non damnatur)。
これをどう解釈するのか?
殺害が処罰されない、犠牲が禁止されている
19世紀以来、「聖なるものの両義性」をめぐって人類学、言語学、社会学のあいだで研究交流がなされてきた。概念というものは、相矛盾する意味の両方を担ってしまう瞬間がある。
++++++以下、p119-122より引用++++++
ホモ・サケルの条件を定義づけるのは、ホモ・サケルに内属した聖性がもつとされる原初的両価性などではなく、むしろ、ホモ・サケルが捉えられている二重の排除のおつ特有の性格、この者が露出されてある暴力のもつ特有の性格である。この暴力――誰もが罪を犯さずにおこなうことのできる殺害――は、供犠の執行としても殺人罪としても定義づけることができない。それは、諸兄とも冒涜とも定義づけることができない。それは、人間の法や神の法といった裁可された形式を離れて、聖事の圏域でも世俗的な活動の圏域でもない人間の活動の圏域を開く。この圏域をこそ、理解しようと務めなければならない。
……
我々が問うべきなのは、主権の構造と聖化の構造は何らかのしかたで結びついているのではないか、この結びつきにおいて両者は互いを照らし出すことができるのではないか、ということである。……刑法からも犠牲からも離れた本来の場へと回復されたホモ・サケルは、主権的締め出しの内に捉えられた生の原初的形象を提示するのではないか、それは政治的次元を構成した原初的排除の記憶を保存しているのではないか……
主権的圏域とは、殺人罪を犯さず、供犠を執行せずに人を殺害することのできる圏域のことであり、この圏域に捉えられた生こそが、聖なる生、すなわち殺害可能だが犠牲化不可能な生なのである。
……
主権の圏域と生なるものの圏域が近いものだということは非常にしばしば指摘され、さまざまなしかたで叙述されてきたが、この近さは、単位あらゆる政治権力がもともともっていたとされる宗教的性格の世俗化された名残であるのでもないし、単に政治権力に対して神学的な裁可の威信を保証しようとする試みにとどまるものでもない。(p122)
++++++++引用ここまで++++++++
古代ローマ人はこういった矛盾をきちんと理解していたらしい。ローマ法によれば、父は息子に対して無制限の「生殺与奪権」をもつと考えられていた。これは単に家庭内における権力だけを指し示すのではない。
原初的な政治的要素とは単なる自然的な生ではなく、死へと露出されている生(剥き出しの生ないし聖なる生)なのである。
ローマ人は父のもつ生殺与奪権と行政官のもつ支配権との親和性を本質的なものと感じていた。
+++++++以下、p130より引用、読みやすくするため適宜改行+++
聖なる生は、政治的なビオスでも自然的なゾーエーでもなく、ゾーエーとビオスとが包含しあい排除しあうことで互いを構成する不分明地帯なのだ。
……国家を基礎づけるものは社会的な結びつきではない。国家は社会的な結びつきを表現するものではない。国家を基礎づけるのは社会的な連関の「解除」であり、国家は社会的な連関を禁止するのだ。いまや我々はこのテーゼに新たな意味を与えることができる。
解除は、既存の拘束を解除するものとして理解されるべきではない。むしろこの拘束は、もともとはそれ自体、捉えられてあるものが同時に排除されてもあり、人間の生が無条件の死の権力へと遺棄されることでのみ自らを政治化する、という形をとる解除ないし例外化なのである。
主権的な拘束は、実定的規範や社会的協定といった拘束より原初的であるが、この拘束は実は解除にほかならない。この解除が含みこみ産み出すもの――家と都市(国家)のあいだの中立地帯に住む剥き出しの生――は、主権の観点からすると、政治の原初的要素なのである。
++++++以上、引用おわり++++++++
第5節「主権的身体と聖なる身体」において、アガンベンはエルンスト・カントローヴィチ『王の二つの身体 中世政治神学研究』に依拠して、王がもつ主権の永続的本性について考察する。王の政治的身体は、殺害可能で犠牲化不可能なホモ・サケルの身体と似通っている。
アガンベンはさまざまな古代や中世の王の葬儀(王は決して死なない)などの例をひきつつ、ホモ・サケルとは「生き延びてしまった捧げ物の生と同じ」と述べている。例えば、戦に際してその命を神に捧げ、死ぬつもりで戦場に赴いたにもかかわらず生き延びてしまった者。彼らは神への供え物であるにもかかわらず死ななかった。
ホモ・サケルと主権者の身体には類似性がある。ホモ・サケルを殺しても殺人罪にはならない。王を殺しても単なる殺人罪ではなく、「大逆罪」と見なされる。ホモ・サケルの殺害は殺人罪以下であり、王の殺害は殺人罪以上である。いずれの場合も殺人罪の案件に対応しないという点では同じ。
◆目次◆
第2部 ホモ・サケル
1.ホモ・サケル
2.聖なるものの両義性
3.聖なる生
4.生殺与奪権
5.主権的身体と聖なる身体
6.締め出しと狼
境界線
<書誌情報>
ホモ・サケル : 主権権力と剥き出しの生
ジョルジョ・アガンベン著 ; 高桑和巳訳. -- 以文社, 2003
ホモ・サケルとは、邪(よこしま)であると人民が判定した者のことである。そのものを生け贄にすることは合法ではない(neque fas eum immolari)。だが、このものを殺害するものが殺人罪に問われることはない(sed qui occidit,parricidi non damnatur)。
これをどう解釈するのか?
殺害が処罰されない、犠牲が禁止されている
19世紀以来、「聖なるものの両義性」をめぐって人類学、言語学、社会学のあいだで研究交流がなされてきた。概念というものは、相矛盾する意味の両方を担ってしまう瞬間がある。
++++++以下、p119-122より引用++++++
ホモ・サケルの条件を定義づけるのは、ホモ・サケルに内属した聖性がもつとされる原初的両価性などではなく、むしろ、ホモ・サケルが捉えられている二重の排除のおつ特有の性格、この者が露出されてある暴力のもつ特有の性格である。この暴力――誰もが罪を犯さずにおこなうことのできる殺害――は、供犠の執行としても殺人罪としても定義づけることができない。それは、諸兄とも冒涜とも定義づけることができない。それは、人間の法や神の法といった裁可された形式を離れて、聖事の圏域でも世俗的な活動の圏域でもない人間の活動の圏域を開く。この圏域をこそ、理解しようと務めなければならない。
……
我々が問うべきなのは、主権の構造と聖化の構造は何らかのしかたで結びついているのではないか、この結びつきにおいて両者は互いを照らし出すことができるのではないか、ということである。……刑法からも犠牲からも離れた本来の場へと回復されたホモ・サケルは、主権的締め出しの内に捉えられた生の原初的形象を提示するのではないか、それは政治的次元を構成した原初的排除の記憶を保存しているのではないか……
主権的圏域とは、殺人罪を犯さず、供犠を執行せずに人を殺害することのできる圏域のことであり、この圏域に捉えられた生こそが、聖なる生、すなわち殺害可能だが犠牲化不可能な生なのである。
……
主権の圏域と生なるものの圏域が近いものだということは非常にしばしば指摘され、さまざまなしかたで叙述されてきたが、この近さは、単位あらゆる政治権力がもともともっていたとされる宗教的性格の世俗化された名残であるのでもないし、単に政治権力に対して神学的な裁可の威信を保証しようとする試みにとどまるものでもない。(p122)
++++++++引用ここまで++++++++
古代ローマ人はこういった矛盾をきちんと理解していたらしい。ローマ法によれば、父は息子に対して無制限の「生殺与奪権」をもつと考えられていた。これは単に家庭内における権力だけを指し示すのではない。
原初的な政治的要素とは単なる自然的な生ではなく、死へと露出されている生(剥き出しの生ないし聖なる生)なのである。
ローマ人は父のもつ生殺与奪権と行政官のもつ支配権との親和性を本質的なものと感じていた。
+++++++以下、p130より引用、読みやすくするため適宜改行+++
聖なる生は、政治的なビオスでも自然的なゾーエーでもなく、ゾーエーとビオスとが包含しあい排除しあうことで互いを構成する不分明地帯なのだ。
……国家を基礎づけるものは社会的な結びつきではない。国家は社会的な結びつきを表現するものではない。国家を基礎づけるのは社会的な連関の「解除」であり、国家は社会的な連関を禁止するのだ。いまや我々はこのテーゼに新たな意味を与えることができる。
解除は、既存の拘束を解除するものとして理解されるべきではない。むしろこの拘束は、もともとはそれ自体、捉えられてあるものが同時に排除されてもあり、人間の生が無条件の死の権力へと遺棄されることでのみ自らを政治化する、という形をとる解除ないし例外化なのである。
主権的な拘束は、実定的規範や社会的協定といった拘束より原初的であるが、この拘束は実は解除にほかならない。この解除が含みこみ産み出すもの――家と都市(国家)のあいだの中立地帯に住む剥き出しの生――は、主権の観点からすると、政治の原初的要素なのである。
++++++以上、引用おわり++++++++
第5節「主権的身体と聖なる身体」において、アガンベンはエルンスト・カントローヴィチ『王の二つの身体 中世政治神学研究』に依拠して、王がもつ主権の永続的本性について考察する。王の政治的身体は、殺害可能で犠牲化不可能なホモ・サケルの身体と似通っている。
アガンベンはさまざまな古代や中世の王の葬儀(王は決して死なない)などの例をひきつつ、ホモ・サケルとは「生き延びてしまった捧げ物の生と同じ」と述べている。例えば、戦に際してその命を神に捧げ、死ぬつもりで戦場に赴いたにもかかわらず生き延びてしまった者。彼らは神への供え物であるにもかかわらず死ななかった。
ホモ・サケルと主権者の身体には類似性がある。ホモ・サケルを殺しても殺人罪にはならない。王を殺しても単なる殺人罪ではなく、「大逆罪」と見なされる。ホモ・サケルの殺害は殺人罪以下であり、王の殺害は殺人罪以上である。いずれの場合も殺人罪の案件に対応しないという点では同じ。
◆目次◆
第2部 ホモ・サケル
1.ホモ・サケル
2.聖なるものの両義性
3.聖なる生
4.生殺与奪権
5.主権的身体と聖なる身体
6.締め出しと狼
境界線
<書誌情報>
ホモ・サケル : 主権権力と剥き出しの生
ジョルジョ・アガンベン著 ; 高桑和巳訳. -- 以文社, 2003