日々の出来事 10月6日 高田純次と天才・たけしの元気が出るテレビ!!
今日は、日本テレビ系列で放送されたバラエティ番組“天才・たけしの元気が出るテレビ!!”が終了した日です。(1996年10月6日)
この“天才・たけしの元気が出るテレビ!!”は、番組内容が現実と演出の微妙なバランスの上に成り立っており、見たものにとって、何処までが現実で何処までがヤラセなのか疑問を持ったまま、ついつい見てしまう変な番組でした。
たとえば、寂れた商店街を復興させようと、タレントがやって来て作戦を立て、成功して人が集まり町おこしが出来たように見せておき、バンザイして企画が終了します。
でも、企画が終了すると、どれもあっさり放置され忘れ去られて、以前より寂れた町になってしまいます。
他のコーナーでやっていた企画も、テレビの宿命である視聴率稼ぎのため、目先をどんどん替えて使い捨てて行くものでありました。
そして、このドキュメントバラエティのパターンは、後の“電波少年シリーズ”に受け継がれて行きました。
この番組が終了したのは、主役のビートたけしが “今のバラエティでやっていることは全てこの番組でやってきた” と言っているように、企画のネタが出尽くしたからであろうと思えます。
バラエティ番組は、その時、面白ければそれで良い。
それは、それで良いのです。
それは、それがテレビ番組の色々な分野のひとつであるバラエティが受け持っている役割りだからです。
この番組に最初から最後まで休まず出演したのは、松方弘樹と高田純次の二人だけです。
特に、高田純次のキャラクターは、群を抜いていたと思います。
他の番組でも、テキトー男の高田純次は、強烈に面白いです。
高田純次
☆今日の壺々話
高田純次
高田純次が出演していた深夜番組“あんたにグラッツェ!・あんグラ☆NOW!”では、笑ってしまいました。
共演していた渡辺正行が愛犬を連れてきた時、突然、高田純次はパンツを脱ぎ、犬の鼻めがけて放屁します。
苦しがっている犬を前に、渡辺正行がカンカンに怒って言います。
「 犬の嗅覚は人間の百倍とも言われるんですよ!
何てことするんですか!」
「 ハハハハハ!」
さらに、この時、高田純次は渡辺正行に注意されていたにもかかわらず、密かにこの犬に大量のビーフジャーキーを与えていたのです。
そして、この犬は、二日後、急逝してしまいました。
今日も、高田純次はテレビに出ています。
「 こんにちは~、いつもステキな高田純次です。
オレももう60歳なんだけど、この前、トイレでズボンを下ろさないまま
ウンコしちゃっんだ。
ハハハハハハハハ!」
指名手配
日本テレビ系の『世界まるみえテレビ特捜部』女子留学生を取り上げた回を放送した際、その女子留学生が日本の代表的コメディアンとして高田の名を挙げていた。
それを受けて番組スタッフが高田を連れオーストラリアへ直行。
そして、女子留学生と合流し『トゥナイトライブ』にバズーカを持って出演(紹介VTRは『元気が出るテレビ』での数々の登場シーンであった)。
スタジオに登場するやいなや、いきなり司会者めがけてバズーカーを一発撃砲する高田。
会場は大いに沸く。
その後、高田は番組進行を全く無視し、通訳をしていた女性留学生そっちのけで
「バスーカーイズマイラバー」「ドンウォリー、ビーハッピー!」等、
思いつきのたった5つの英単語を繰り返し発音するのみで適当に受け答えをしていた。
そんな高田に、司会者から早朝バズーカをリクエストされる。
この為夜の街にでて一般人の家に乗り込み、その家の人がこの番組を見ていないと知ると「オー、バッドボーイバッドボーイ!」とバズーカーを撃ったり、家の玄関口でバズーカーを撃っていた。
これはパトカーが出動するほどの騒ぎとなってしまう。
番組スタッフは面白がって「パトカーも撃ってくれ」と言ってきたが、さすがに止めたという。
これは『世界まる見え2時間スペシャル』枠で放送された。
後に住民から騒音被害で訴えられ、オーストラリアで指名手配された。
高田純次
・子供の頃は近所の人たちから神童と呼ばれていたと言われ、中学時代までは成績はトップクラスであったという。事実現在でもテレビやラジオでの言動を見聞していると、無茶苦茶をしている中にもある種の「頭の回転の良さ・豊富な知識」を垣間見ることが出来る。しかしながら本人はいつもの調子で「『シンドウ』って言っても、震える方の『振動』じゃないよ」と、煙に巻き周囲を笑わせてしまう。
・高校時代のあだ名は「国領のニワトリ」。
・夫人との間に二女がおり、1983年には花王のCMで一家揃って出演した。長女は「TAGE」(タージュ)のデザイナー、二女はアルバイトをしながら美術活動(銅版画作家)をしていると話している。また孫もいる。
・自動車好きとしても有名。現在はアストンマーチン・DB9を所有。またフォルクスワーゲン・トゥアレグW12に乗っているとも話している。そして「時速800kmで衝突した」と話す。
・ダイヤモンド鑑定士の資格を持つ。そのためダイヤモンドなどの宝石の価値、デザイン、原価・販売価格に関して「高田節」を交えつつ、バラエティ番組などでは一定ラインの評価を得ている。
・還暦を迎えたが、とても還暦過ぎとは思えないほどの外見と若さを保っている。故に外見だけは若い女性からの受けが良い。
・芸能プロダクションの経営者でもある。一時所属タレントであった麻木久仁子によると、普段はテレビに出ているのと変わらないが、年に一回のギャラ交渉のときだけは一切冗談も言わず、目も笑っていないという。
・『多摩川』が本人のパワースポットであり、少年期に遊んだ経験から、人生を見つめ直す今日を語るにあたり「多摩川べりへ行って…」などと述懐することが多い。
・尊敬する人物は高田が出演していた『どうぶつ奇想天外!』の司会者みのもんた。理由は高田曰く「飲みに行くと必ず奢ってくれるから」。高田の交友関係で、みのの名前がよく出る事から、お互いに最高の友人と認め合っている。
・横尾忠則を『神』と崇めて尊敬している。又近年では『キタムラ』のメンズバッグのロゴマークデザインを依頼されるなど、芸術面に関する造詣の深さを変わらず持ち続けている一面も見せている。
・口癖は「?ですよね」「いや意外と」「だって?だから」「すっとこどっこい」「グフッ」「とんちんかん」「あらオシャレだねぇ」など。
・高田と同世代から20歳代の若者までの男性から「高田さんみたいな生き方に憧れる」「高田さんみたいに歳をとれたら最高だ」と言われることが多い。「単に奇抜な格好をしたり適当なことを言っているだけの人」とは思われていない人柄、幅広い人々から愛される生き方をするタイプである。
・1970年代に、当時高校生の小川菜摘をナンパしたことがある。
・過去にたまたまナンパした相手が娘の同級生だったことがある。
・企業の宴会に呼ばれたとき、異常な盛り上がり方をしていた宴会を見て「俺、やることないから後は適当に…」と宴会の幹事に告げ、営業を適当に済ませたことがある。
高田純次名言集
・「キミ、少し影がある人が好きなの?僕も夕方歩くと影があるんだ」
・「レディー・ガガって、普段は普通のかっこうだよね。会ったことはないけど」
・「レディー・ガガは目の上に目をかいてたけど、あれは僕の方が先にやってたんだ」
・「鼻の大きさとアソコの大きさが比例するっていうけど、それが正しかったら、俺は他の人よりも20㎝は大きいことになるよ」
・「オレはタバコを吸わないんだ。食べるんだ」
・「俺は朝と夜とでは、体重が5㎏違うんだ」
・「世の中、分からないことが多いけど、街中を裸で歩いてはいけないということだけは分かってるんだ」
・「僕は泣ける映画でも笑っちゃうんだ」
・「バリ島にキンタマーニっていう場所があって、大好きなんだ」
・「キミ、長身の女性が好きなの?2mとか」
・「オレは、のどちんこを震わせながら歌舞伎揚げを食べるのが好きなんだ」
・「キミの手から加齢臭がすると思ったら、オレの手だったよ」
・「オレが好きな言葉は、『高田さん、面白すぎて俳優だということを忘れちゃう』だよ」
・「オレは中学校の時、サッカーの同好会をつくったんだけど、小学生に負けて泣いたことがあるんだ」
・「よく『時差ボケ』ってうけど、オレ自体ボケてるからボケとボケで、まともになっちゃうんだ」
・「今、3Dがハヤってるけど、オレの体も3Dで見てほしいんだ」
・「え? その時計、時間がわかるの? 素晴らしいな~」
・「オレは昔、仕事で 栃木前の宝石屋さんの前で、一日じゅう皿回しをしたことがあるんだ」
・「キミ、この前 下着で一日過ごしたの?そういう時は言ってくれないと」
・「自分で言うのもアレだけど、朝に見る高田純次はキツイよ」
・「キミのその下着、食べられるやつ?」
・「オレからスケベをとったら加齢臭しか残らないんだ」
・「汗と加齢臭とチョコレートのニオイだよ」
・「CDを500万枚作る予定だったんだけど、好評なので1000万枚作ろうかと思うんだ」
・「昔、日本テレビでAKBの番組をやってたんだけど、俺がクビになったとたんにAKBが売れたんだ」
・「俺はオヤジから『お前も大きいんだから、グラビアをやったら?』って言われたことがあるんだ」
・「映画も出るし、CDも出したし、他にやることといったらオリンピックに出ることだな」
・「俺も分別はあるよ。さっきも、ちゃんと水洗トイレを流してきたよ」
・「オレはレコード世代だから、CDっていうと『クリスチャン・ディオール』の略だと思っちゃうよ」
・「キミ、好きなタイプはハンサムなの?オレも範疇に入るね」
・「僕は小心者だから、カレーかウンチかを確かめてから食べるよ」
・「キミ、ラスク食べる?あとで事務所に請求書がいくけど」
・「オレの趣味はヒヤシンスの日記を書くことだよ。書いたことはないけど」
・「俺は、ものまねを聞いてる時、オシッコをしてる時の犬みたいな目になるんだ」
・「俺はカラダが良くて、スケベな女がタイプなんだ」
・「最近はカラオケで新しい歌を歌うことにしてて、『われは海の子』を歌ったんだ」
・「なんでも『速いのが良い』って言われてるけど、俺も昔から『はやい、はやい』って言われてるから、時代を先取りしているようなものなんだ」
・「ウエスタンブーツは良いよ。俺は持ってないけど」
・「俺は、カラダのいろんな部分を使ってサインを書いちゃうよ」
・「街で小さな靴屋さんを見つけると、どうやって生計を立てているのか、気になってしょうがないんだ」
・「え?キミ、『昔の榊原郁恵さんに似てる』って言われるの?それは、可もなく、不可もなくだな」
・「俺はレコーディングをする日の朝は、いろんな友達に『今日、レコーディングするんだ』って、電話をかけまくるんだ」
・「銀座の蝶は、美人度6以上が『銀座の蝶』なんだ」
・「美人度6以下は、蛾とかカナブンなんだ」
・「最近は僕の隣りにカナブンが座ることが多くて、お金を余計に払わないと蝶は来てくれないんだ」
・「俺は女のランニングから手を入れて『コリコリ族!』っていうのが好きなんだ」
・「俺はパリコレに出たことがあるんだけど、前からアレが出ちゃって『何コレ?』って言われたことがあるんだ」
お話 “適当親父と俺”
1980年代、大学を卒業した親父は定職にもつかずブラブラしていた。
ある日、暇なので近所に住む幼馴染とセックスした。
幼馴染は処女だったが1回で妊娠した。
それが俺だった。
「 産みたい?」と親父が聞いた。
「 うん。」と母ちゃんが言った。
「 じゃあ結婚すっか。」
というわけで二人は結婚した。
両親も義父母も、結婚したら親父がまともになるだろうと思っていた。
しかし、親父は働かなかった。
アパートでごろごろしてテレビばっかり見ていた。
母ちゃんは当時OLをしていて、臨月ぎりぎりまで働いた。
2月の寒い明け方、母ちゃんは産気づいた。
予定日よりだいぶ早かった。
親父がタクシーを呼び、二人で病院に行った。
昼前、俺が生まれた。
自分の子供を見ようと、親父はくわえ煙草で病室に入ってきた。
看護婦さんに怒られて、慌てて廊下の灰皿に煙草を捨ててきた。
それから、ニコニコしながら病室に入ってきた。
赤ん坊は男だった
「 名前はオメガにしよう。」と親父が言った
親父はゆとりだった。
母ちゃんが大反対した。
そのおかげで、俺はまあ普通の名を付けられた。
命名は親父の父がしてくれた。
出産後、半年もしないうちに母ちゃんは職場に復帰した。
親父が働かないからだ。
俺の世話や家事は親父がした。
主夫というやつだ。
つーわけで、当初、俺は親父に育てられた。
その頃の記憶はあまりないが、よく散歩に連れていってくれた。
公園とか川っぺりの遊歩道とか喫茶店とか親父の実家とか母ちゃんの実家とか、いろいろ歩いた。
親父はいつも煙草をすっていた。
いつでも、どんな時でもだ。
実家では「仕事しろ」といつも言われていた。
「いまさがしている」とか何とか言い訳していたが。
そんな生活が続いていた。
俺はどんどん成長していった。
こんどの春から、俺が幼稚園に入る年のことだ。
とつぜん親父の姿が消えた。
「 アメリカを見てくる。」
という置手紙を残して。
アパートを引き払い、俺と母ちゃんは母ちゃんの実家に移った。
その年の秋、アメリカから手紙が来た。
蝶ネクタイをした親父がヒゲを生やした黒人と肩を組んでピースしている写真が同封してあった。
「 いま、サンディエゴでバーテンをやっています!
タツ(俺のこと)は元気?
see you!」
とあった。
母ちゃんと親父は手紙のやり取りをしていたようだが、だんだん音信不通になっていった。
ていうか、親父の住所がしょちゅう変わって送った手紙が回送されてきたりした。
そんなこんなで、俺は小学校3年生になっていた。
ある休日の朝、電話が鳴った。
母ちゃんがとった。
「 え? あんたいまどこいんの?」と母ちゃん。
親父からの国際電話だった。
「 なにいってんの急に・・・ばかじゃないの・・・うん・・・はあ?」
母ちゃんと親父の話が続いた。
俺も電話に出た。
「 タツか?」
「 うん。」
「 パパだよ、覚えてる?」
「 うん。」
「 元気か?」
「 うん。」
「 学校行ってるか?何年になった?」
「 3年生。」
「 お前、ママとアメリカ来るか?」
「 え?」
「 アメリカ、おもしろいぞ。」
俺は母ちゃんの顔を見た。
母ちゃんは首を横に振っていた。
「 アメリカおいで、な?」
「 んー、わかんない。」
「 ママにアメリカ行きたいって言いな。」
「 うん。」
「 じゃあな、待ってるからな。」
そんな会話をして電話は切れた
アメリカで、いつのまにか親父は店を一軒持っていた。
その当時は、タラハシーとかいうよくわからん町に居たらしい。
金もあるので、母ちゃんと俺を呼び寄せようとしたわけだ。
母ちゃんは、今さらアメリカなんぞに行く気はなかった。
俺も外国に行くなんて嫌だった。
たぶん同じ年の出来事だと思うが、母ちゃんと親父の両親がアメリカに行った。
親父に会うついでに連れ戻しに行ったのだ。
しかし、母ちゃんたちは帰国しても親父の話はしなかった。
俺はどうなったのか聞きたかったけど、聞きにくい雰囲気だった。
そんなこんなで、俺は中学生になっていた。
母ちゃんは親父について何も話さなかったが、離婚したんだろうぐらいに俺は思っていた。
どうも、向こうに女がいるらしかった。
葉書や手紙が時々届いたが、俺が読む前に母ちゃんがズタズタに裂いて捨てていた。
そんなある日の夜、家で飯を食っていると近所の親父の実家から、親父の弟が走ってくるなり、
「 帰ってきた。」と言った。
「 は?」って感じだった。
親父が十年ぶりに帰国してきたのだった。
母ちゃんは行きたがらなかったので、叔父さんに連れられ、俺が親父に会いに行った。
十年ぶりに見る親父は皺が増え、白髪も出ていたがあまり変わっていなかった。
というか記憶もあいまいなのだが。
「 よ!ひさしぶり。」と父が言った。
ひさしぶりじゃねーよ、と思った。
親父の傍の畳の上で、外人の女の子が寝ていた。
2歳ぐらいの子だった。
「 友達の子預かってきてるってママには言ってな。」と親父が言った。
いや、ぜってーお前の子だろ・・・、中学生ながらに即座に思った。
爺ちゃん婆ちゃんは黙って、もううんざりという顔をしていた。
親父の話によるとアメリカでバーテンしながら働いているうち、ストリップ劇場を持っている女と知り合って、店を一軒まかせられたらしい。
その店が倒産して、店を売って日本に帰ってきたとのこと。
「 金はあるのか?」と祖父が聞くと、
「 ねーな。」
と親父が言った。
家に帰ってから、母ちゃんからいろいろ聞かれた。
が、何をどう言っていいのかわからなかった。
とくにあの娘のことは言いにくかった。
「 とりあえず日本に住むみたいよ。」と言った。
それから、「 なんか女の子もいたよ。」と。
「 は!?」
母ちゃんの顔が険しくなった。
しばらくは、それぞれ実家に暮らしていた。
親父は何度か母ちゃんの実家に顔を出し、飯を食ったり酒を飲んだりして行った。
Kティという女の子もいっしょだった。
Kティは「ダディー」と言って親父に抱きついたりした。
一瞬、場が凍った。
親父は当初言葉を濁していたが、
「 ま、俺の子供だな。うん。」と認めた。
そして母ちゃんを指差し、Kティに「マミーだよ〜」とか言ってた。
母ちゃんは無表情で、それを無視していた。
そんなこんなで、親父は母ちゃんの実家に住むようになった。
ひさしぶりに家族が同じ屋根の下で暮らすことになった。
いつのまにか一人増えていたわけだが。
「 仕事はどうするの?」
「 これからどうするの?」
と、母ちゃん方の両親にあれこれ聞かれていたが、親父はまたもや働かず、家に居てKティの世話をしていた。
親父と母ちゃんの関係は、全然夫婦みたいじゃなかった。
母ちゃんはKティのことが嫌いみたいで、Kティのほうも中々なつかなかった。
まあ、ほかの女の子供なのだからそうなるのだろうけど、親父の近くにはいつもKティがいるので、母ちゃんと親父が話すこともほとんどなかった。
そんな状態でも月日は経っていった。
俺は高校生になり、Kティは幼稚園に通うようになった。
当たり前だが、Kティは日本語が話せるようになり、家にも徐々に馴染んでいった。
そして、まただった。
親父が消えた。
今度は突然の蒸発ではなかった。
「 東京の友達のとこで、仕事あるみたいだから行ってみるわ。
2、3日したら戻るから、ヨロシク。」
と言い残して。
しかし、次に連絡があったのは2ヵ月後だった。
電話が来た。
「 あんた、どこにいるの?」と母ちゃん。
母ちゃんによると親父は貿易関係の仕事についたらしかった。
英語が喋れるので、交渉事にあたっているとのことだった。
電話があった週の土曜日、○○商事というネームの入った、おんぼろのワゴンに乗って親父が帰ってきた。
「 おい、ドライブしようぜ。」
親父が言った。
俺とKティと母ちゃんは状況がよくわからないまま車に乗った。
車は高速に入って北を目指してぐんぐん進んだ。
「 どこ行くの?」と母ちゃん。
「 どこ行きたい?」と親父。
「 海がいい」とKティが言った。
「 オー・ケー」
というか、俺たちが住んでるのは海辺の町だったのだが、それとは反対方向に走っていった。
5時間ぐらい走り続けた。
ドライブっていう距離じゃなかった。
高速を降り、日本海に面した町に入った。
もう夕方だった。
その日は民宿に泊まった。
家族で初めての、そして最後の旅行だった。
旅行から帰って、俺たちを家で降ろしてた。
俺に10万、母ちゃんにも10万金をくれた。
それから、親父はそのまま東京に行った。
その後、数ヶ月連絡が途絶えた。
○○商事に電話をすると、親父はとっくに辞めた後だった。
その頃、沖縄から葉書が届いた。
親父は米軍基地で働いているらしかった。
その頃にはもう別に驚かなかった。
俺も母ちゃんも、生きていればいいかと思うぐらいだった。
『男はつらいよ』って映画あるだろ、あれ見てると俺は親父を思い出す。
ていうか、寅さんのほうが、まだ家に帰ってるほうだけどな。
それから、年に2、3通葉書が来るだけだった。
沖縄だったり石垣島だったり、西表島から葉書が来ることもあった。
どうやって食っていけているのか、ほとんどわからなかった。
俺とKティはどんどん成長していっていた。
あの日の旅行から、いつのまにか俺は大学生になって東京に出ていた。
大学3年の夏休み、俺はKティを連れて沖縄に行った。
もちろん親父に会うためだ。
Kティは、もう5年以上親父に会っていなかった。
俺もだが。
とにかく、そろそろ実家に連れ戻そうと思っていた。
当時、親父は沖縄本島の北部のアパートに住んでいた。
空港からバスを乗り継いで、親父の住む町へ向かった。
沖縄の夏は糞暑かった。
歩いているうち、Kティはあまりの暑さに気分が悪くなった。
喫茶店で休み、町の人に聞いてようやく目指すアパートを見つけた。
3階の部屋のチャイムを鳴らすと、若い女が出てきた。
俺は親父の名を告げた。
若い女は「?」という顔をした。
どうやら親父は、すでにこの部屋を退去しているようだった。
この住所が記された手紙も、数ヶ月前のものだった。
俺とKティは那覇へ戻るバス停に立っていた。
Kティがしくしく泣きだした。
俺は、生まれてはじめて親父の生き方への怒りが込み上げた。
「 勝手すぎるだろ!!!」と。
後で知ったのだが、その頃親父は那覇に居たらしい。
俺とKティも、那覇のホテルで2泊したのだが、会うことはなかった。
せっかく来たのだからと、俺たちは市内を観光したり、海で泳いだりしてそのまま帰った。
Kティは見た目は白人なので、日本語をぺらぺら喋るのにみんなが驚いていた。
そして、年の離れた同行者の俺が怪しまれていた。
父親というような年でもなかったから。
次の年、母ちゃんが病気で倒れた。
さいしょは疲労ということだったが、中々良くならなかった。
俺は東京なのでKティが世話をしてくれた。
しばらくして乳癌だとわかった。
おかしいと思った医者が、詳しい検査をすると判明したのだ。
乳癌というと、おっぱい切り取ればなんとかなると俺は思っていた。
だが、すでに転移しまくっていたらしかった。
肺や食道もやられていたらしい。
「 よくて半年です。」
急遽実家に戻った俺は病院で医者から言われた。
頭が真っ白になった。
俺はどうしても親父に連絡しなきゃならんと思った。
どこにいるんだ?
いい加減にしろ!!!!
しかし、どうすればいいのか見当もつかなかった。
捜索願い?探偵?
俺がやきもきしてるのを見て、母ちゃんが言った。
「 いいよ、お父さんは、ああいう人だから。
わたしは後悔してないよ。」
半年ももたず、次の月に母ちゃんは死んだ。
あいかわらず親父からの連絡はなかった。
冬の初め、母ちゃんの葬式をした。
喪主は俺だった。
親戚中が、親父の両親さえも、親父のことを怒っていた。
なんたる不義理かと。
まあ、当然だった。
葬式が終わってほとんどすぐのことだ。
親父が帰ってきた。
不思議なことに、といおうか。
親父も体を壊していた。
肝硬変になりかけて、那覇の病院に入院してたとのことだった。
どうせ、酒の飲み過ぎかなにかだろう。
親父は母ちゃんの仏壇の前で泣いていた。
初めて見る親父の涙だった。
家に帰って次の日、「一切反省なんとかかんとか」という宣言文を書き、親父は頭の毛を剃って近所の寺に入った。
母ちゃんの慰霊をするとのことだった。
親父は寺の掃除とか雑用をしながら、墓場の世話をしたり、仏壇の前でお経を唱えたりしてた。
近所の寺で寝起きし、読経や付近の掃除に励むという生活が続いていた。
といっても、俺はよくは知らない。
俺は大学を卒業し、親父を反面教師として、ちゃんとした企業に就職していた。
Kティも中学生になっていた。
母ちゃんの三回忌をした日、親戚がみんな酒を飲んでいる中、親父はずっと仏前で読経していた。
夜になっても、夜中になってもずっとしていた。
好きにさせてたらいいわ、と思ってそのままにしていた。
そして次の朝、親父は町から消えていた。
親父が最後に失踪して一年近くなる。
連絡はまだ何もない。
死ぬまで無いままのような気もしている。
風の噂で聞くところによると、同じ町内の未亡人と一緒に駆け落ちでもやらかしたらしい。
噂というか、実際その未亡人もいなくなっているので本当だと思う。
先日のお盆で、集まった親戚たちと話をした。
いま、親父はどこで何をしているのかと。
いろいろと迷惑をかけた親父だが、ここまでくると笑い話みたいになっている。
町内でも伝説みたいに、いろんな人が親父のことを話している。
連絡も無いし、ひょっとして親父はもう死んでるのかもしれない。
それでも別にかわまない。
別に悲しくもない。
人生適当すぎワロタwwwwwwww。
で、済んでしまうだろう。
母ちゃん、俺は真面目に働いてるよ。
Kティは白人の血が入ってるのか、もう大人みたいで、すごく美人になったよ。
親父は生きていれば相変わらずだろうな。
まあ、仕方がないさ。
じゃあ、母ちゃん、安らかに。
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