源ザの独り言日記

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1日曇天、風流踊ユネスコの無形文化遺産に登録、江沢民元国家主席死去

2022-11-30 21:36:03 | Weblog
朝、昨夜の風雨で公園が使えないため家の周囲のウォークで済ませた。午前中、曇天ながら温かいなか「まなびいプラザ」で過ごし、早めに帰宅して車でババの待つGSCに出かけた。地下駐車場は雨模様のためか満車状態でスペースを探すのに苦労した。昼食を中華レスで取ったが、最近は人気で大分待たされた。生鮮食品や5%引きの寝具など買い込んだため車内は満杯となってしまった。午後は図書館に出かけたが、最近は新聞を読むと瞬間的に睡魔に襲われスピードが遅くなることが多くなってきた。夜のストレッチの霧雨になりウォークとなった。
(風流踊ユネスコの無形文化遺産に登録)
日本各地の盆踊りなどで構成する「風流踊(ふりゅうおどり)」が モロッコの首都ラバトで開かれているユネスコ・国連教育科学文化機関の政府間委員会でユネスコの無形文化遺産に登録されることが決まった。 「風流踊(フリュウオドリ)」は国の指定重要無形民俗文化財である全国41の踊りをまとめてユネスコに申請したもので、岐阜県郡上市の郡上踊(グジョウオドリ)や秋田県の「西馬音内(ニシモナイ)の盆踊」などが含まれる。 日本の無形文化遺産登録は2020年の「伝統建築工匠(コウショウ)の技(わざ)」以来だが、今回は2009年に単独で登録された神奈川県三浦市の風流踊「チャッキラコ」の拡張として扱うため、国内登録件数は22件のままとなります。 「風流踊」を巡っては事前審査を行うユネスコの評価機関が登録を勧告していた。
<江沢民元国家主席死去>
1989年の天安門事件直後に中国共産党総書記に就任し社会主義市場経済を推進、引退後は上海閥を率いて現在の習近平体制の発足を後押しした江沢民元国家主席が30日、上海で死去した。96歳だった。26年、江蘇省揚州生まれ。上海交通大卒のエンジニア出身で、55年にはモスクワの自動車工場で研修。電子工業相などを歴任した後、85年に上海市長、87年には上海トップの市党委員会書記も兼任した。89年6月4日の天安門事件をめぐっては、直前の4月に上海で胡耀邦元総書記の再評価を求める動きを押さえ込んだ。これが最高実力者の鄧小平氏ら党長老に評価され、同年6月下旬、趙紫陽氏失脚後の総書記に抜擢された。
その後、党中央軍事委主席、国家主席(国家元首)も兼任。97年に鄧氏が死去すると、名実ともに中国の最高指導者となった。同年に香港返還、99年にマカオ返還を実現。愛国主義教育と称して反日教育を進める中、98年には中国国家元首として初めて訪日した。経済面では92年に社会主義市場経済の導入を決定。経済成長率10%超の高度成長を達成し、2001年に世界貿易機関(WTO)加盟を果たした。企業家の入党を積極的に認めるなど党改革も行ったが、民主化要求の動きは封じ込めた。後継者の胡錦濤氏に2002年に総書記、03年に国家主席、04年に党中央軍事委主席をそれぞれ移譲した。引退後も上海閥を率いて影響力を誇示し、07年の北戴河会議で胡氏の後継者に習近平氏を推薦、5年後の習体制発足を導いた。
中国の1990年代は、天安門事件や旧ソ連崩壊の直後で、共産主義への信頼が揺らいだ時代だった。江氏が進めた愛国教育の強化は、国民の団結を訴えることで共産党への求心力回復を図る狙いもあった。政権の正統性を示すためには抗日戦争の勝利を強調する必要があり、日中間の「歴史戦」の火ぶたを切った指導者で歴史問題をカードに位置づけた対日外交を展開し、日中関係に波風が立つことも少なくなかった。 江氏は、抗日戦争記念館などの施設、史跡を「愛国主義教育模範基地」に指定。各地の学校で愛国教育を強めた。日本との文化交流は滞りがちで「この時代は日本で作られたドラマや映画を中国で見る機会は少なかった」と振り返る中国人も少なくない。その影響は現在の日中関係にも禍根を残していると言われている。