sekiの徒然日記

旧布野村に週末帰農を始めて18年で遂に解散。今後は尾道からsekiの徒然日記として再スタート。

東洋のマチュピチ別子銅山

2018-12-01 19:28:56 | 
 
 貯鉱庫を右から見る。

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 鈍川温泉で生前葬??をやった翌日は、東洋のマチュピチ別子銅山。

 東洋のマチュピチュは言い過ぎと思うが、実際に行ってみると凄い
勉強になり感激する、ただガイドさんがいないと無理だろう。

 別子銅山は江戸の昔から掘って、昭和48年まで掘っていた記憶に新
しい銅山、しかし1000mを超える山地に数千人の関係者住んでいたの
は驚きだ。

 我々が目指したマイントピア別子東平(とうなる)ゾーンは、大正5年
から昭和゜5年まで採鉱本部が置かれいていた場所。

 右側の稜線に沿って鉱石が分布採掘されたそうだ。

 貯鉱庫の一番上部、採掘した鉱石をここから入れて。

 下のこの出し口から出して砕き、更に下の貯鉱庫にいれ。

 これは 作業場の屋根を支えていた柱の遺構。

 一番下の庫の出し口から出し、中央のケーブルで下の基地に降ろしていたそうだ、ケーブルのパケットは鉱石の自重で下り、反対側から生活物資を上げたそうだ。

 そこには数千人の工夫とその家族・関係者が住み、小学校・中学校は
当然 劇場・映画館もあったそうで、地元新居浜より先に封切りされた
のだとか。

 子供たちのために山の頂上に運動場を作ったり、少し下側にはプール
を造ったり標高1000mの山頂で戦っていたようだ、冬場とても寒ぶかっ
たようだ。

 遺構は転々とはあるがメインは索道基地・貯鉱庫跡、重厚な花崗岩作
りの遺構が東洋のマチュピチュ称されている。

 この遺構を見るだけでは何も理解できないと思う、山裾のマイントピア
端出場ゾーンからバスを予約して乗車するとガイドさんが同乗し説明して
貰える。

 改めて全体を右から見るとこんな感じ。

 これは社宅跡、玉重野レンガの切れ目が入口だった、この社宅の一段下が沢で共同浴場があったそうだ。

 資料館にあった当時の写真、立派な設備でした。

 最後に上部左側からの貯鉱庫。

 2時間コースで1900円、危険な山道を自分で行くより安全しかもガイド
さん付きお勧めだ。

 ただ今シーズは昨日で終わった12月~3月までクローズだそうだ、春に
行く方はネットでよく確認してください。

 ともかく一見の価値十分でした。