
先の続き話として書きますが、褒めて育てる・叱らない教育がどういった子供を作り出すかという分かりやすい現実を、ほんのわずかですが具体的に書いてみたいと思います。
前の書き込みに家庭でやる手伝いの話をしました。
私は親の素直な感情を基にして子供と接していく事が親そのものを含めた多くのことを子に学ばせると書いていますが。
それではほめて育てる・叱らない教育ではどうなのか?という疑問が当たり前のように沸いてくるかと思います。
これらの教育もお手伝いをさせる事を薦めていますが、このとき“親の怒りというもの、及びそれを元にした叱る”しかるという行為を出来るだけ排除することが“良い事”とされています。
こうした事を薦める書籍では、そのほうが良いのだと書いていますが、そこには“嘘”が有ります、現実に引きこもりや非行の子を研究してきた私から見えてくるものを書いて見たいと思います。
お手伝いをすることはそこにさまざまな親と子の心の交流が生じます。
褒めてやらせようとする場合、親は自分のもつ怒りを含めた感情を無理やり捻じ曲げて接っする事になります。
心をけして表に出さず、親が演じ続けるということです。
それがいいと書いてあるからですが、こうした方法で接していくと子ども自身はなんら怒りを受け取ることが有りませんから、当然の事ながら怒りというものを処理する経験無く育ちます。
怒りを処理する経験をつまないということは、処理する能力が欠落しているということです。
さて、これってどこかで見たことありませんか?
前の書き込みで私が書いた文の中にある、
自分の感情を無理に捻じ曲げて演技する姿、同時に怒りの処理法方が分からないということそのものということです。
つまりは親が不自然な接し方をした通りの人間に成長するということです
ほめて育てる・叱らない教育は、けして怒らずに何度もほめてやる気を引き出す事になっています。
私は親が本当にうれしいと思ったときは褒めろと常に言ってますが、うれしくなければ褒める必要などありません。
なぜなら普通だから嬉しくないわけです。
ところが上記の教育では、親が子供に“何かをやらせるため”の方法として逐一褒めるという事を使っています。
何かをやらせるは勉強させるというのがこうした本を買う人間の心理だと思いますが、違うでしょうね?
うれしいから褒めるのではなく、親が自分の都合よい目的の為に中身の無い言葉を子供に浴びせるわけです。
これは、自分勝手な目的の為に感情の無い言葉を平然と行使する手本を親が子供に押している事になります。
「こうして育つとどうなるか?」 というなら、友達にたいして自己利益のために中身の無い言葉を平然と使う子になるわけです。
何か自分の目的のために相手をほめたりしてやらせようという事をはじめとして、普通の人間なら恥ずかしくてやら無いようなことを、恥ずかしさを感じることなくやるような人間になるということです。
さらには褒められて育っている為に、自分は偉いのだという根拠のない万能感と優越感まで持ってくれます。
友達はこんな言葉をかけられても、そこに中身のないことぐらい判りますから、当然に嫌がります、しかし当の本人はそれが常識であってどこがいけないのかすら分からないということ。
はいこれ!、完全に苛められる原因の出来上がりということ、いじめは不快を基に発動する人の自然な感情、不快が有るから苛めになっていくわけですが。
そこに高いプライドが加われば自分を省みることなど消してしません。
常に他人が悪いわけですから。
幼い頃からこうした恐怖の教育法で育てられれば、それがその子の人間性になっていますから治し様が無い、あいかわらず相手に不快をあたえ続けたあげく苛めは過酷になり永遠に続くサドンデス状態となる。
ここで更に大きな問題になるのは、自分が原因で友達が怒って攻撃されるこうした状態になっても、怒りに対しての処理能力そのものが全く育っていませんから。
反射的に切れて重大問題を起こしたりする子もいれば、他人の怒りに恐怖を覚え、防御の為に自分の本心を隠して捻じ曲げて別人格を作り出して演技という形で必死に自分をまもることをはじめます。
攻撃されない為に演じるわけです
演技し続けることは苦痛以外に他なりませんから、当然に心は張り詰めますし疲れ切ります、そしてある日些細なことを原因として、本能が防御の為の回避行動をはじめる。
耐性が弱ければ早期に引きこもりという形をとり、耐性が高かれば頑張るだけがんばり、理性の制御限界を超えると切れるどころではない規模の、外部攻撃という形となって現れる。
引きこもった子もそこから脱することが出きずに苦しみ続ければ、限度ぎりぎりまで耐えたあげく、やはりドカンと出てくる。
褒めて育てる・叱らない教育は20年ほど前なら家庭の中で収まっていただけで学校や社会は相変わらずきびしかった。
ところが教育評論家と教育学者の宣伝、マスコミの煽動にのせられて一切の厳しさを家庭と学校教育の全てから排除。
こうして叱るということを全て排除した教育が生み出した結果生まれてきたのが、
200万を越えるといわれる引きこもりと、400万と言われるニートたちということです。
前の書き込みに家庭でやる手伝いの話をしました。
私は親の素直な感情を基にして子供と接していく事が親そのものを含めた多くのことを子に学ばせると書いていますが。
それではほめて育てる・叱らない教育ではどうなのか?という疑問が当たり前のように沸いてくるかと思います。
これらの教育もお手伝いをさせる事を薦めていますが、このとき“親の怒りというもの、及びそれを元にした叱る”しかるという行為を出来るだけ排除することが“良い事”とされています。
こうした事を薦める書籍では、そのほうが良いのだと書いていますが、そこには“嘘”が有ります、現実に引きこもりや非行の子を研究してきた私から見えてくるものを書いて見たいと思います。
お手伝いをすることはそこにさまざまな親と子の心の交流が生じます。
褒めてやらせようとする場合、親は自分のもつ怒りを含めた感情を無理やり捻じ曲げて接っする事になります。
心をけして表に出さず、親が演じ続けるということです。
それがいいと書いてあるからですが、こうした方法で接していくと子ども自身はなんら怒りを受け取ることが有りませんから、当然の事ながら怒りというものを処理する経験無く育ちます。
怒りを処理する経験をつまないということは、処理する能力が欠落しているということです。
さて、これってどこかで見たことありませんか?
前の書き込みで私が書いた文の中にある、
自分の感情を無理に捻じ曲げて演技する姿、同時に怒りの処理法方が分からないということそのものということです。
つまりは親が不自然な接し方をした通りの人間に成長するということです
ほめて育てる・叱らない教育は、けして怒らずに何度もほめてやる気を引き出す事になっています。
私は親が本当にうれしいと思ったときは褒めろと常に言ってますが、うれしくなければ褒める必要などありません。
なぜなら普通だから嬉しくないわけです。
ところが上記の教育では、親が子供に“何かをやらせるため”の方法として逐一褒めるという事を使っています。
何かをやらせるは勉強させるというのがこうした本を買う人間の心理だと思いますが、違うでしょうね?
うれしいから褒めるのではなく、親が自分の都合よい目的の為に中身の無い言葉を子供に浴びせるわけです。
これは、自分勝手な目的の為に感情の無い言葉を平然と行使する手本を親が子供に押している事になります。
「こうして育つとどうなるか?」 というなら、友達にたいして自己利益のために中身の無い言葉を平然と使う子になるわけです。
何か自分の目的のために相手をほめたりしてやらせようという事をはじめとして、普通の人間なら恥ずかしくてやら無いようなことを、恥ずかしさを感じることなくやるような人間になるということです。
さらには褒められて育っている為に、自分は偉いのだという根拠のない万能感と優越感まで持ってくれます。
友達はこんな言葉をかけられても、そこに中身のないことぐらい判りますから、当然に嫌がります、しかし当の本人はそれが常識であってどこがいけないのかすら分からないということ。
はいこれ!、完全に苛められる原因の出来上がりということ、いじめは不快を基に発動する人の自然な感情、不快が有るから苛めになっていくわけですが。
そこに高いプライドが加われば自分を省みることなど消してしません。
常に他人が悪いわけですから。
幼い頃からこうした恐怖の教育法で育てられれば、それがその子の人間性になっていますから治し様が無い、あいかわらず相手に不快をあたえ続けたあげく苛めは過酷になり永遠に続くサドンデス状態となる。
ここで更に大きな問題になるのは、自分が原因で友達が怒って攻撃されるこうした状態になっても、怒りに対しての処理能力そのものが全く育っていませんから。
反射的に切れて重大問題を起こしたりする子もいれば、他人の怒りに恐怖を覚え、防御の為に自分の本心を隠して捻じ曲げて別人格を作り出して演技という形で必死に自分をまもることをはじめます。
攻撃されない為に演じるわけです
演技し続けることは苦痛以外に他なりませんから、当然に心は張り詰めますし疲れ切ります、そしてある日些細なことを原因として、本能が防御の為の回避行動をはじめる。
耐性が弱ければ早期に引きこもりという形をとり、耐性が高かれば頑張るだけがんばり、理性の制御限界を超えると切れるどころではない規模の、外部攻撃という形となって現れる。
引きこもった子もそこから脱することが出きずに苦しみ続ければ、限度ぎりぎりまで耐えたあげく、やはりドカンと出てくる。
褒めて育てる・叱らない教育は20年ほど前なら家庭の中で収まっていただけで学校や社会は相変わらずきびしかった。
ところが教育評論家と教育学者の宣伝、マスコミの煽動にのせられて一切の厳しさを家庭と学校教育の全てから排除。
こうして叱るということを全て排除した教育が生み出した結果生まれてきたのが、
200万を越えるといわれる引きこもりと、400万と言われるニートたちということです。