昔、僕が娘に話して聞かせた矛盾の話。
懐かしいので、再アップしてみました。
一般的には矛盾という言葉で中国の古典にあるお話です。
内容は、盾と矛を売る者がいて、その物が言うには盾を褒めて突き通す者は無いと良い、今度は矛を褒めてどんなものでも突き通せない物は無い、と言って売っていたそうです。
ところが、 ある人が”貴方の矛で貴方の盾を突くとどうなるのか?” と問うたら、
売っていた者はこの問いに、なんら答えることができなかった。 という展開で終わります。
実は娘が教科書に乗っていたこの話しに興味をもち、どう思う?と私に聞いてきたことがあり、「私ならこれをもっと売れるように、この場で即答できるよ」と答え、
その話しをしてあげたところえらく感激???していたことがありました。
みなさんならどう答えますか?
ちなみに私が娘にした“私がこの武器商人なら”としての話しのはこうです。
「よろしい、それではこの矛でこの盾を突くとどうなるのかをお話ししましょう」。
その前にどなたかこの国の政府武器御用達の方を呼んできていただけないでしょうか?」
「もし私の武具をこの国の軍に買って頂けるのなら、この国は今後戦乱の起きない国となるでしょう。」
「なぜなら、この矛で盾を突くと両方とも壊れ、地に落ちるからです。」
「その理由実に簡単、矛で盾を砕き、盾は矛を砕くからであり、盾は盾としての最大の仕事をし、矛は矛としての最大の仕事をまっとうするからです。」
「故にこの盾と矛をこの国の軍にて使うなら、万一国内が乱れ戦乱となっても全ての武器は壊れ、武力ではない話し合いによる解決の道を歩むことになります。」
「そして、この盾と矛は最強故に、この国で両方とも備えれば他国は恐れ攻めては来ません、万一戦いとなってもこの国の民に命を落とす者はいません。」
「敵は話し合いによる解決をするしかなくなります。」
「この盾と矛は戦いのためではなく、平和のためにあるのです。」
「ゆえに私はこの国で盾と矛をあわせて全て買い取って頂けるのなら、他国で売ることはしません、しかし買って頂けない場合は他国で売ることとします。」
という内容です。
矛盾というのは、実生活のあちらこちらに有り、 それは整合性が無いからなのですが、
それは何かを言葉や文章に表現して、気持ちを伝える事の難しさに端を発するわけです。
残念なことに、人の言葉は単位時間当たりに伝えることの出来る情報量が限られています、また表現の限界もすぐに来る。
故に、百聞は一見にしかず という言葉どおりに、 目で見た物は文章や言葉で伝えることの数千倍、いやそれ以上の限りない伝達が可能。
では、言葉や文字は映像に比べて劣るのか?という事になるのですが、 そこには人の持つ創造力という物が有ります。
情報としては少ないながらも、工夫された言い回しや、書き方をすることで、見えない部分を伝えることが可能。
又、これは、その文章を書いた者の人柄まで読み取る事すら可能で、 裏を返せば、それを通して行間にある気持ちや思いを伝えることが出来る=人と人の心見えない心の交流そのもの。
僕はそう思うのですね。
手書きの文章で育った僕の年代は、 昨今のスマホで送られてくるメールにかなりの違和感を覚えます。
フリックで文章を打つのが面倒、というのもあるのだと思いますが、 その面倒に包まれて打たれた文字列はやはり、 読み手にそのまま伝わってきます。
ほんの少しの気遣いは、その”面倒くさい”で意図も簡単に排除されてしまい、”です” ”ます” も無く、ぶっきららぼうな文章が届く。
ごく親しいお友達ならともかくも、 相手の年齢がよく分からないのに、 そうした文章が届く不思議。
相手がどう思うとか考えないのかな?なんて見る度に思うわけですが、 それが今の時代であるからこそ、 どこぞでやった悪ふざけをSNSにアップして、お店が廃業したり、 経営難に陥ったり・・・
行動の結果や、それによりどういったことが起きるのか? それも解らないという事と、矛盾は無いのかな?と・・・・
スマホメールは本当に便利で、ただし、 その端末自体は ディスプレイが無ければどうにもならず、 故に百聞は一見にしかずが余りにも当然となり、 反対に文は粗末になる。
利便さでもたらされる恩恵は、 もう片方で、大事な何かを失わせている。
そう思うことが多い 翔です。