浪漫飛行への誘(いざな)い

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中国民航との卓球友好交流(回顧録-前編)

2019年01月05日 20時19分41秒 | 卓球

卓球をやっている者にとって、中国の卓球というのはあこがれであり、誰しも一度でいいから中国の人と卓球をやってみたいという夢がある。トップ選手なら国際大会等で中国選手と試合をする機会も数多くあると思うが、一般の卓球愛好家にとっては夢のまた夢の世界で、そんなチャンスはほとんどないといえる。自分自身も卓球は大学で初めてラケットを握り、会社に入っても卓球クラブに所属して細々と卓球を楽しむ程度のレベルであったが、幸運にも、インターライン卓球大会という国際大会があって、外国人と卓球をやる機会には恵まれていた。
このインターライン卓球大会というのは、愛称はWOFIA(Wings of Friendship Inter-Airlines)といって、世界各国の航空会社間で親善を目的として行われている卓球大会のことである。1980年にマレーシア航空の提唱によって第1回大会がマレーシアのゲンチンハイランドで開催され、第2回はルフトハンザ主催でハンブルク、第3回はエアフランス主催でパリにて開催された後、第4回大会が1983年11月にJAL/ANA共同主催で東京にて開催されることになっていた。

当時、東京大会組織委員会のマネジャーを担当していたが、東京大会を盛り上げるために、開催にあたって、中国唯一の国際航空会社である中国民航に対して参加を呼び掛けてはどうかとのアイデアが浮かんできた。早速、どうやって声をかけていったらよいか検討した結果、当時、日中の航空会社間で頻繁に行われていた航空交渉の宴席の場を借りることにした。日本側代表団の一人(当時の自分の職場の上司)に1983年11月の開催が決まっていたWOFIA大会への参加の勧誘をお願いしたのは、1年前の1982年11月のことであった。代表団が交渉から戻った時、中国側は強い関心を持っている旨の報告があった。それから1か月もしないうちに、中国民航の李樹藩社長から当社社長宛に親書が届いた。その内容は、参加勧誘のお礼と参加してみたい旨の意思表示、また、それに先立ち当社の卓球チームを中国に招待したいというものであった。当時の中国民航の社長は航空局長を兼ねていたので、まさに中国航空界のトップであり、その親書は極めて重要な意味を持っていた。中国民航がこのようなスポーツ交流を行うのは全く初めてのことで、開放政策に舵を切ろうとしていたタイミングにうまく合ったものと思われる。

中国側が当社チームの中国招待を提案した背景は、一般的に中国の卓球レベルが高いといっても、彼らにとって、WOFIAの卓球レベルが不明であったため、当社チームのレベルをチェックしたかったものと思われる。オリンピックでもよく言われるが、中国にとって勝ち負けは重要な意味を持ち、参加するかぎりお家芸の卓球で負けるわけにはいかないのである。 関係者と協議の結果、中国への遠征は行うが、招待自体は断ることとした。招待するということは、飛行機代、ホテル代、飲食代等すべての経費を中国側が丸抱えするということを意味しており、逆に、この招待を受けたら、必ずお返しの招待をしなければならないということである。そんなことはとても無理な相談であり、飛行機代、ホテル代等基本的な費用は自前で賄うこととした。但し、中国の国内線の飛行機は、日本では手配できないこともあって、北京→杭州→上海の2便について、彼らのお世話になった。

中国への遠征を正式に決めたのは、12月下旬だったと思うが、それからの詳細な詰めがなかなか大変であった。まず、いつ、どの都市に訪問するか、何人規模か、飛行機やホテルの手配をどうするか、相手がある話なので、一つ一つ詰めていく作業は想像を絶するものがあった。今であれば、メールや電話でいくらでもコミュニケーションが取れるが、当時は、便利なe-mailもなければ、国際電話もすべて中国側に盗聴されていた時代で、基本的には、当社のペキン支店経由と当時航空会社間でのやりとりに使っていたテレタイプによるコミュニケーションだけであった。当時、自分自身本社の国際旅客部、インターライングループに所属しており、インターラインとのやりとりに慣れていたことは幸いであった。

中国側は、訪問先として、北京・上海・杭州か北京・旅順・大連の2案を提案してきたが、結果的には、当時上海線もあったので、馴染みのある北京・上海・杭州を訪問することにした。1月以降も航空交渉の日中協議は継続的に行われていたが、交渉の場でも、いつも友好試合のことが話題になっていたようである。代表団が帰国するたびに、進捗状況について、「航空交渉はなかなか先に進まないが、友好試合の件はとんとん拍子に話が進む」という報告を受けていた。 北京支店の総務責任者の話では、中国民航の本社に航空交渉の件で訪問する時は、1階の接客の部屋が決まっており、それより中に入れないし、入ったこともなかったが、こと友好試合の件の打ち合わせで来たと言うと上階の別室に案内されたとのことである。中国では、各担当の責任分担が明確であり、打ち合わせに行っても交渉の件は上にあげてあるという一点張りで拉致があかないのが普通だそうであるが、友好試合の話になると全く別扱いであったようである。

遠征時期については、中国側からとにかく早くしてほしいとの要請が航空交渉のたびにあった。いろいろなことを煮詰める必要があるので、どうしても遅れがちであったが、中国側の要請を受けて、最終的には、1983年6月19日からとなり、最初に話を持ち出してから、約7か月で実現したことになる。後でわかったことであるが、中国側が早い実施にこだわったのは、友好試合に備えて、2月頃から、中国全土の民航社員のなかで、卓球の上手な人15人をピックアップし、職場から離れさせ、コーチを付けて北京で合宿生活を始めたからであった。彼らをそんなに長く職場から離れさせるわけにはいかない事情があったようである。各選手とも、職場を離れて合宿生活に入り、もともと上手な上に、専任のコーチが付いて、毎日卓球の練習をしていたのだから、結果は火を見るよりも明らかであった。

我がチームは、仕事を終えてから、週に1回の練習を行うというよくある普通の会社のクラブであるので、実力はたかが知れているが、遠征にあたって、卓球部の部長を団長、会社の勤労部厚生担当課長を副団長とし、選手として男6人、女4人の合計12人から成る代表団を作った。女性4人は全員客室乗務員として、花を添えた。このようなスポーツ交流は会社にとっても初めてのことであったが、副団長として人を出してもらい、出張扱いに近い形で、飛行機搭乗の便宜もはかってもらえたのは、大変ラッキーであった。

写真は、熱烈歓迎の記念撮影 (中国民航本社にて)


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