浪漫飛行への誘(いざな)い

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中国民航との卓球友好交流(回顧録-後編)

2019年01月22日 20時12分23秒 | 卓球

1983年6月19日、中国遠征という初めての経験に期待と不安が入り混じる中、我々を乗せた飛行機が北京空港に到着した。到着後、赤じゅうたんを通り、直接VIP用の貴賓室に招かれた。このようなVIP待遇は受けたこともなく、皆感激していたが、緊張で身が引き締まる思いであった。そこでは、中国民航の社長はじめ、幹部の人達が我々を歓迎してくれた。選手団のメンバーも、合宿所から駆けつけてくれ、初顔合わせをすることになったが、彼らの輝く目と素朴な笑顔が実に印象的であった。

友好試合は、6月21日の中国民航本社での正式な試合に加え、北京管理局チームとの空港での友好試合、杭州では、運航乗務員と友好試合、上海では、上海チームとの友好試合も行った。民航本社での友好試合は、最上階の大ホールのようなところで行ったが、「熱烈歓迎日航卓球代表団」の横断幕が掲げられ、掲示板にも多数のポスターが張られていた。中国側は、社長はじめ幹部の役員に加え、職場で行われたためか、観客席は数百人の民航スタッフでぎっしり。こちらも、我々12人に代表団の他に、北京支店長はじめ支店のスタッフ、家族、ステイ中の乗務員、香港から広報担当課長も取材で加わった。 緊張の内に、開会式が行われ、いよいよ試合開始。責任を背負い自分自身が一番バッター役を務めた。

1球目から中国独特の投げ上げサービスにビックリ。今では、一流選手も時々行うが、当時はTVで見たことはあっても、日本では珍しく、もちろんそんなサービスは受けたこともなかった。もともと上手なのに強化合宿をやってきた民航チームと普通の会社同好会チームとでは実力の差は歴然で、結果は、シングルスが男子1勝8敗、女子0勝5敗、混合ダブルスが1勝3敗であった。(この2勝は友好の印?)民航の圧倒的勝利に終わった友好試合であったが、我々は決して落ち込んではいなかった。むしろ、そこには清々しささえあった。負けても全力を出し切った充実感があった。言葉は通じなくても、卓球を通じて同じ苦しみ、喜びのわかりあえる仲間として、同じ汗を流した意義は大きい。

夜は、歓迎宴、答礼宴とパーティの連続。中国のパーティは、マオタイの乾杯(かんぺい)で始まり、マオタイの乾杯(かんぺい)で終わる。とにかく、しつこいほど酒を勧められる。夜の方は、日頃鍛えたお酒の腕で、ほぼ互角の勝負。言葉の壁なんか何のそので、あちこちで筆談が始まる。とにかく漢字で書けば、びっくりするほど通じる。民航の女性は多くは客室乗務員ということもあって、カタコトの英語もOK。服装は、全体的には地味だが、女性のほとんどはスカートで、中国でも進んでいる印象。お化粧をしていなくても、とても美人が多い。我が女性軍も、和服姿を披露して、民航の男性にモテモテであった。 びっくりしたのは、当時、中国では独身の女性と独身の男性とのツーショット写真は、タブーということ。既婚男性とならツーショットもOKとのことで、中年組がニンマリ。乾杯が進むにつれて、大芸能大会が始まる。日本側による当時中国で大流行していた「北国の春」「四季の歌」に「鉄腕アトム」「めだかの学校」と皆バカウケ。民航側も女性陣が美しい中国の歌を聞かせてくれた。

最初の友好試合が終った翌22日に民航の客室乗務員がアテンドしてくれて、明の十三陵と万里の長城への一日観光をさせてもらった。車の手配から観光、食事まですべて民航側のアレンジなので、安心して最高の気分で中国の壮大な歴史を垣間見ることができた。中国への観光客はまだ限られており、北京の街並みもお世辞にも綺麗とは言えず、行き交う人達の服装も人民服のようなものが多かったが、まさに変わりつつある時代であったようで、センスがあるとはとても言えないが、若い女性の原色の派手なスカート姿もちらちらと目についた。

ここで言い忘れていたが、民航には日本語ができる通訳の女性がいて、空港到着時から杭州、上海までずうっと同行してくれた。彼女は、元客室乗務員で、その当時は民航の社長の秘書兼通訳を務め、今回の遠征にあたって、最初から最後までお世話をしてもらった。現地での民航側とのやりとりはすべて彼女を通して行い、何のトラブルもなく、スムーズに遠征を遂行することができたのはまさに彼女のお蔭である。彼女は、その後、日本での勤務も経験され、いまだにお付き合いをさせてもらっている。

23日は、北京から杭州に飛行機で移動することになっていたが、出発前に空港にて、北京管理局のチームと友好試合を行った。21日の正式な友好試合は全中国から選りすぐりのメンバーであったが、その日は、空港で働いているメンバーとの友好試合であり、結果も男子は2勝3敗、女子は1勝4敗と負けたものの実力は接近していた。飛行機が見えるところでの卓球の試合も貴重な体験となった。北京から杭州まで民航の飛行機に初めて搭乗したが、なかなか快適なフライトを楽しむことができた。なぜ杭州が選ばれたかというと西湖という有名な観光地を我々に楽しんでもらいたいという民航側の配慮とそこに大きな民航のパイロットの保養施設があったからと思われる。杭州では、保養に来ていたパイロット達とまさに友好の試合をすることができた。試合は全てダブルスで行ったが、さすがこれは当方が8勝2敗で勝利をおさめることができた。彼らは卓球をスポーツとしてやっているわけではなく、まさに温泉卓球のレベルであるが、それでもそれなりの実力があるのには驚くばかりである。一応何とか勝つことができたので、翌日は気分よく、西湖の観光も楽しませてもらった。

杭州で2泊した後、25日に民航の飛行機で上海に移動した。上海空港でも到着時、貴賓室に案内され、熱烈な歓迎を受けた。その日の夜は、民航の歓迎宴に招待され、民航の上海の幹部の人達も多数参加していた。普段、当社の上海支店が窓口としている上海管理局のお堅いある役員が、楽しい雰囲気に酔いしれ、歌って踊り出すハプニングもあり、支店長もビックリしていた。最後には、「レッツキス」のジェンカを全員で踊るなど、盛りに盛り上がり、双方の選手、関係者がともに語らい、友好を深め合っている姿は、非常に印象的であった。支店長によれば、それまで管理局のトップの人達と飲む機会など全く持てなかったが、この友好試合のお蔭で初めて一緒にお酒を飲み、交流を深めることができたと物凄く感謝されたことを今でも鮮明に覚えている。

26日に上海チームとの友好試合を行ったが、領事館はじめ、日本人学校の子供達や在上海の日本人の方も多数応援に駆けつけてくれた。民航側は、北京での試合にも参加したメンバーが上海に戻り、何人かの新しいメンバーが加わっていた。結果は、男子が3勝4敗、女子が2勝3敗で惜敗した。混合ダブルスは、中国選手と日本選手がペアを組んで、和気あいあいの雰囲気の中、最後の友好試合に花を添えた。試合当日の夜は、お礼と感謝の気持ちを込めて、こちらが答礼宴を主催し、9日間にわたる日中友好の親善試合の名残を惜しんだ。毎日、朝から晩までスケジュールがきちんと決まっていたが、民航側の万全のサポート体制のもと、何のトラブルもなく、あっという間に過ぎた充実した9日間であった。

27日、北京から杭州、上海と長いようで短かった中国遠征も最後の日を迎えた。上海の空港まで、選手、関係者が総出で見送りに来てくれた。我々も感謝の気持を込めて、ピンポン玉に名前の寄せ書きをして、皆にプレゼントした。一人一人惜別の握手、さようなら、ありがとう。再見、謝謝。。。お互いに最後の最後まで手を振り続けた。

今振り返れば、我々のような一般の卓球愛好家が中国の人達との夢のような友好交流を体験できたというのは、時代がそうさせてくれた奇跡的なことであり、大変ラッキーであった。卓球を続けていてよかったという思いが今でも頭をよぎる。今回の友好交流を経て、中国民航は1983年のWOFIAインターライン卓球大会に初参加し、1987年の分割民営化以降は、中国南方航空がそれを引き継ぎ、2001年にバンクーバーで行われた最後の大会まで友好交流を旗印に毎年参加し続けてくれた。あの時、自分が中国に声をかけていなければ、その後20年間も続いた中国も入った航空会社間の友好交流はありえなかったことを考えると感慨深いものがある。今回の卓球交流は、日中友好の小さな架け橋にすぎないかも知れないが、この小さな輪からいっそう大きな輪ができたことは忘れられない思い出となっている。

写真は、上海チームとの記念撮影 

友好交流アルバム(YouTube): https://www.youtube.com/watch?v=p1R5zBrHe_E


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