ふるやの森

地球文明の再生に向かう
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闇の世界史 1:近代イルミナティーの成立

2013-04-27 13:05:04 | 闇の世界史

闇の世界史―教科書が絶対に教えないより抜粋

1784年、「神の御技」 によって継続中のサタンの陰謀が存在している証拠がバヴァリア政府に与えられた。教会法の教授で、かつてイエズス会士に教育されたアダム・ヴァイスハウプトは、インゴルシュタット大学で教えるかたわら、キリスト教思想を離れ、サタンのイデオロギーに帰依した。1770年になると(ロスチャイルド商会を設立したばかりの)金貸し業者がヴァウスハウプトを雇い、サタンのシナゴーグに世界の最終支配権を与えて社会支配権を与えて社会変革を起こしてのち、サタン的独裁支配を実施してサタンのイデオロギーを自らの民族以外のすべての人々に課すことを目論んだ大昔の「プロトコール」を時代にふさわしいものに改定させた。この仕事をヴァウスハウプトは1776年5月1日に完成させた。

この計画は現存する政府および宗教すべての破壊を求めた。そのためにはヴァウスハウプトがゴイム(家畜のような人間)と呼ぶところの増加し続ける大衆を、政治的、人種的、社会的、経済的問題などに関して分立させなければならなかった。そうすれば、彼らに武器をとらせることも、「事件」を誘発して互いに戦わせ、国家政府およびその宗教機関を破壊させつつ、彼らを弱体化させることも可能となるからだった。

1776年、ヴァウスハウプトはイルミナティーを組織して目論見を実行に移した。イルミナティーという言葉はサタンに由来し、「光を掲げるもの」を意味している。その目的は知的能力を実証された人々が世界を治められるよう、」世界単一政府を生み出すことであると嘘をついて、、彼は・・・美術、文学、教育、さらにはさまざまな科学、財政、産業の分野でもっとも聡明な人々を含む・・・2000人ほどの信奉者を集めた。そしてその後、大東社ロッジを創設すると、それを秘密本部とした。

ヴァウスハウプトの改訂版「プロトコール」は、以下のことがらを行ってその目的の実現に貢献するようイルミナティーに求めた。

① あらゆる政府および人間社会のすべての分野において、すでに高い地位を占めている人々を支配するために、金とセックスで彼らを買収すること。イルミナティーの嘘、ペテン、誘惑に一度でもひっかかったら、要人は政治のみならずさまざまな面で恐喝され、経済的破滅あるいは世間への醜聞の公表、さらには本人への肉体的危害、殺害にとどまらず、愛する者への危害さえほのめかされ、身動きのとれない状況に追い込められた。

② カレッジならびに大学職員のイルミナティーは、類稀な知的能力を持った学生に、国際性の強い名門一族の配下で国際主義の専門訓練を受けるよう勧めること。

この訓練は選ばれた学生に奨学金を認めて提供され、学生たちは世界単一政府だけが戦争や苦難の再発に終止符が打てるという見解を受け入れるよう教育、洗脳された。

③ ワナに陥ってイルミナティーの支配下に置かれた要人、専門教育および訓練を受けた学生を代理人として利用し、あらゆる政府を陰で操る「専門家」として配し、長い目で見れば、単一世界主義者の秘密計画に貢献し、その国家政府および宗教の最終支配を引き起こすような政策を上層行政部に助言させること。

④ イルミナティーは新聞および大衆に情報を伝達する諸機関の支配権を得ること。ニュースおよび情報は、世界単一政府こそ私たちの諸問題への解決策であるとゴイムが信じるよう歪めなければならない。

18世紀末、英国とフランスは二大勢力だったから、ヴァウスハウプトはイルミナティーに命じて英国を弱体化させるために植民地戦争を誘発し、フランスを弱体化させるためにフランス革命を立案した。フランス革命が1789年に開始されることは彼によって定められた。

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参照 

アダム・ヴァイスハオプト

 バイエルン王国1776年に、インゴルシュタット大学英語版実践哲学教授アダム・ヴァイスハオプト英語版啓蒙主義的な Perfektibilismus(人類の倫理的完成可能説)を謳い、Perfektibilisten の同盟をつくり、のちに、イルミナティと改名した。原始共産主義を志向する側面と、内部の位階制の側面が同居している。ヴァイスハオプトからのキリスト教批判はあるが、それは倫理的完成へと向けるもので、他教への転向などを訴えるものではなく、ユダヤへの関連で語ってはいない。最盛期には各国に支部が置かれ、会員は貴族大富豪政治家インテリなど2,000人に及んだという。1777年、ヴァイスハオプト自身もフリーメイソンになっており、並行してフリーメイソンだった者も多かった。 

通説では1784年にバイエルン王国がフリーメイソンリー、イルミナティを含むすべての秘密結社を禁止するまで続いた。1785年ローマ教皇ピウス六世はイルミナティがカトリックの教義になじまないと明言し、異端とされて、結社としての活動は1785年に終わった。

ウイキペディア:イルミナティより転載 

バイエルン王国

10/14/2000 作成
01/14/2001 現在

ここでは、ドイツの歴史ではなく、あえてバイエルン王国の歴史として
まとめてみました。
1117年オットーⅠ世に始まる「ヴィッテルスバッハ家」は
1806年バイエルン王国となりました。
その後1918年ルトウィック(ルードヴィヒ)Ⅲ世
が退位するまでの間、6代に亘って王国として存在しました。


 歴史           

時代・年代 バイエルンの出来事 バイエルン王家
962年 正式名称は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」と言う(第一帝国とも言う) ドイツ人というのは存在せず、プロイセン人、ザクセン人、バイエルン人という形であった。
12世紀 公国として存在する バイエルンの ヴィッテルスバッハ家 
オーストリアの ハプスブルグ家
プロイセンの ホーエンツォレルン家 
以上、当時の御三家
1516年 ビール純粋令公布 ウィルヘルムⅣ世
1589年 ホーフブロイハウスミュンヘンに創設 ウィルヘルムⅤ世
17世紀 「ドイツ帝国」とも呼ばれたが、300もの領邦国家(13世紀以降ドイツ連邦を構成した地方国家で、高級貴族が支配領域を領邦にまとめ上げ、領邦君主(ユンカー)として君臨した。)
名目上の皇帝は、ハプスブルグ家
 
1806年 バイエルン王国初代国王 マクシミリアンヨーゼフⅠ世
1810年 ルトウィック(ルードヴィヒ)皇太子結婚(オクトーバーフェストの始まり)  
1825年 バイエルン王国2代国王 ルトウィック(ルードヴィヒ)Ⅰ世即位
  バイエルン・ビアガルテン法施行  
1848年 バイエルン王国3代国王 マクシミリアンⅡ世即位
1864年 バイエルン王国4代国王 ルトウィック(ルードヴィヒ)Ⅱ世即位
メルヘン王・狂王により国家財政圧迫
1871年 ドイツ帝国の1州となる プロイセン主導でドイツ統一(ビスマルク)
1886年 バイエルン王国5代国王 オットーⅠ世即位
1912年 バイエルン王国6代国王 ルトウィック(ルードヴィヒ)Ⅲ世即位
1918年 王国としての存在は、この年まで ルトウィック(ルードヴィヒ)Ⅲ世退位
     
参考HP「系図の迷宮



地理
現在のドイツ   バイエルン州

(これで分かるように、ブルクレンゲンフェルト市は、オーバープファルツに
属しています。)

     

バイエルン王国はドイツ南部に位置し、
現在で言うと、バイエルン自治州とプファルツ州をあわせた地域を統治していました。

山地、丘陵が多く、全面積の3分の1は、森林です。

首都は、宮殿のあったミュンヘンで、現在もバイエルン州の州都です。

 

 バイエルン王国より転載


闇の世界史 2: 宗教対立の民族的背景

2013-04-27 13:04:42 | 闇の世界史

闇の世界史―教科書が絶対に教えないより抜粋

世界の物質的財産に対する絶対的支配権を得て、無神論的唯物主義に立脚した全体主義的独裁支配を樹立するためには、あらゆる形態の政府及び組織化された宗教を破壊しなければならない・・・そう考えた「悪の力」は、この目的のために、さまざまな問題に関して世界の諸民族を対立陣営に分立させることを決意した。古代から、アーリア人種とユダヤ民族は互いに敵愾心を持って無神論的唯物主義者であるそれぞれの指導者の秘密の野望に使えるように仕向けられた。アーリア人種とユダヤ民族が神への信仰と神の戒めを堅持していたならば、悪の力によってこのような邪悪な目的が果たされることは決してなかったはずである。

アーリア人という言葉は実際のところ、インド・ヨーロッパ語族[参照1]ないしはインド・ゲルマン語族として知られる民族を意味し、2つのグループから成り立っている。ウエスタン(ヨーロッパ)系と イースタン(アルメニア)系だが、語彙、言語体系、文化慣習からみれば、その起源は明らかに共通である。実際のところ、アーリア人という言葉の語義は「誉れある地主」であり、語義にたがわずヨーロッパのアーリア人集団の指導者のほとんどは、自らの領地を守るために強固な武装を続けた領主男爵であった。やがてナチスを組織し、ファシズムおよびあらゆる右寄りの反ユダヤ主義集団を利用して自らの目的に仕えさせ、世界支配のための秘密計画を邁進させようとしたのも、そうした人々の中から現れたアーリア人将軍団である。

そのようなアーリア人集団の中心分派が西ヨーロッパに住みついたチュ-トン人、古代ローマ人、スラヴ民族で、トルコ人、マジャール人、バスク人、フィンランド人はアーリア系民族ではない。はるか昔の一時期、パミール高原に住んでいたコーカサス人とともに生活していた人々を共通の祖先とするのがアーリア人グループだ。

一方、ユダヤ民族[参照2]も実際のところ、2つのグループから成り立っている。アッシリア人、アラム人、ヘブライ人、フェニキア人から成る一団と、アラブ人、エチオピア人から成る一団だ。アラブ人がもっとも富み、アラム人がもっとも貧しく、ヘブライ人はその中間に位置する。

今日、ユダヤ人という言葉は、実に大雑把に、ユダヤ教をいっときでも信仰したことのある人々を示している。したがってユダヤ人とされる人々の多くは、民族的にはユダヤ民族ではない。そしてユダヤ教を受け入れた人々の多くはトルコーモンゴル人の血を引くイドゥミア系ヘロデ主義者の子孫である。

実際のところ、イドゥミア系の人々はエドム人であり、ユダヤ人指導者のなかでは、アーリア人指導者の中においてそうであるように、イルミナティーあるいは無神論者である中核小集団が、過去においても、現在においても、存在していることを忘れてはならない。彼らは、自らの目的に合わせるために、ユダヤ思想やキリスト教思想に口先だけの好意を示すが、神の存在を信じることは決してなかった。

そんな彼らが今では国際主義者になった。自らの運動を推進させようと、どこかの国の国家主義を利用することはあっても、その国と提携したりは一切しない。彼らの関心は最大の政治的、経済的支配権を獲得することであり、この最終目標はどちらの陣営の指導者にも共通する。どちらの陣営の指導者も、全世界の富、天然資源およびマンパワーの絶対支配権を、自らのために勝ち得ようと決意している。全体主義的無神論に基づく独裁支配という自らの計画に世界をはめこもうとしているのだ。

参照1 

 インド・ヨーロッパ語族

参照2

「ユダヤ人」がどの集団を指す名称なのかは日本人にはよく理解されていない。英語で「Semitic people」で検索した画像と動画を転載する。

 

VIDEO RE The Peopling of Arabia Peninsula -Arab are Semitic people

 

 

 


闇の世界史 3: イエス・キリストとイルミナティー

2013-04-27 13:04:19 | 闇の世界史

闇の世界史―教科書が絶対に教えないより抜粋

非ユダヤ教系およびトルコーフィンランド系の民族は、キリストの降臨後の最初の一世紀にアジアからカスピ海の北部の経路をとって、ヨーロッパに侵入した。歴史的にはハザール人として言及されるこの民族は異教徒だった。彼らは東ヨーロッパに住みつき、強力なハザール王国を建て、軍事制圧によってその領土を拡大した。8世紀末になると、その領土をさらに拡大し、ウラル山脈の西方および黒海北部に至る東欧を広く専有するようになった。そして最終的に、キリスト教でもマホメット思想でもなく、ユダヤ教を自分たちの宗教として受け入れた。教会堂やユダヤ思想を教える学校が王国中に建設され、その権力の絶頂期には25の民族から貢ぎ物を集めていた。

ハザール人のこの王国は500年ほど栄えたが、10世紀末、北方から攻め込んだバラング人(ロシアに王朝を建てた民族)に敗北し、13世紀末になると、すっかり制圧された。このときからロシア帝国内では、ハザール系ユダヤ人によって触発された革命運動が1917年の10月革命まで続けられた。一般にユダヤ人として言及されている人々が実に多くロシア帝国内にとどまっていた経緯は、ハザール人が13世紀に制圧されたというこの事実によって説明づけられる。

アーリア人主義とユダヤ主義の問題を浮き彫りにする重要な事実がもう1つ存在する。一般にバラング人に分類されるスィンランド人などは非アーリア系民族であり、ドイツ人は一般的に彼らを敵視してきた点である。

キリストの行為の一つに世界革命運動の研究にきわめて重要性を持つものがある。キリストは、全能なる神を崇拝し、既成権威に従い、隣人を愛することをその改革運動の拠りどころとする多くの急進論者に尊重された。その生涯についての物語によれば、キリストはある一集団を除いて、すべての人々を愛した。穏やかな人格者にしては不自然に思われるほど強く金貸し業者を憎み、暴利を貪ることに対して繰り返し警告を与え、マモン神の崇拝者であるとしてあからさまに非難した。

「私の家は祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」 (マタイによる福音書21:13)

金貸し業者に対してこのような言動をとったことで、キリストは自らの死刑執行令状に署名することになったのだった。

ローマ人兵士によってキリストが処刑されるよう目論んだのはイルミナティーであり、イルミナティーによって雇われた偽聖職者、偽長老であった。30枚の金貨を与えてユダを買収したのも、宣伝者を利用して偽りの情報を流し、暴徒を操ったのも彼らである。また、イルミナティーの代理人は暴徒を操って犯罪者バラバを赦免し、キリストを十字架にかけさせた。イルミナティーがローマ人兵士に処刑者役を果たさせたのである。そしてその不正行為が行われ、報復が果たされると、陰謀者は陰にかくれ、その罪をユダヤ人大衆とその子孫に負わせた。歴史が実証するように、彼らには巧妙な目的があって、キリストを死に至らしめた罪をユダヤ人にかぶせた。迫害の結果として、ユダヤ人のあいだに生じる憎しみを利用して自らの卑劣な目的に使えさせ、全体主義という秘密の野望を推進させようとしたのだった。

こうしたことをキリストはすべて承知していて。もっとも劇的な方法で自らの知恵を知らせた。十字架にかけられ死に至るとき、キリストは天の父に祈り、このように言った。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書23:34)

果たしてキリストは暴徒のために祈ったのだろうか?否、キリストが祈ったのはイルミナティーに利用され、その復讐の道具となった人々のためだった。歴史が実証するように、以来、国際金融業者は暴徒を利用して自らの秘密の野望の推進をはかってきた。モスクワのレーニン研究所では、世界中から集まった意欲的な革命指導者に対して教授たちが大衆を暴徒として言及して講義を行っている。イルミナティーはあらゆる悪を指示しているのである。

キリストの時代から今日に至るまでの世界革命運動(WRM)を研究すると、偽聖職者および金貸し業者の小集団が人類に対して犯した罪でユダヤ民族を責めるのは公平ではないと実証される。偽聖職者および金貸し業者のような人々はどの時代においても、そして今も、国際主義の陰にかくれた「秘密権力」となっている。彼らは今日、共産主義をその行為の手引きとして、世界支配を最終的に確保するための秘密計画を進めている。

参照 

ハザール突厥文字Old Turkic letter R1.svgOld Turkic letter A.svgOld Turkic letter Z.svgOld Turkic letter A.svgOld Turkic letter G2.svg: Khazarヘブライ文字:הכוזרים)は、7世紀から10世紀にかけてカスピ海の北からコーカサス黒海沿いに栄えた遊牧民族およびその国家。支配者層はテュルク系民族と推測されている。交易活動を通じて繁栄した。アラビア語ペルシア語資料では خزر Khazar と書かれている。日本語ではハザルハザリアホザールあるいはカザールと表記されることもある。

 ハザール(WIKIPEDIA)

 

 


闇の世界史 4: 悪の伝承

2013-04-27 13:03:55 | 闇の世界史

闇の世界史―教科書が絶対に教えないより抜粋

歴史を研究すれば、国際共産主義および政治的シオニズムをうち負かし、軍事支配によって世界支配が実現され得るという希望をいだいてナチズムを組織したアーリア人将軍団が人類に対して犯した罪でドイツならびにイタリアの国民すべてを非難するのも公平ではないと実証される。歴史が明らかにしているように、2つの対立陣営の指揮者は民族、肌の色、宗教に関係なく、国民である大衆を分立させ、世界を舞台にしたチェスゲームの駒として利用してきた。どちらの陣営が最終的に相手を倒して世界に対する絶対支配、すなわち全世界の富、天然資源、マンパワーおよび宗教に対する支配を永遠に確立するかを決めるためにおこなわれているゲームに、である。

忘れてならないのは、その目的が人心を神から離反させることにある以上、サタンは赤い共産主義であろうが黒いナチズムであろうが精一杯利用して人心にはたらきかけ、いずれかの無神論に帰依させようとしているということであり、いずれの無神論イデオロギーを受け入れるにしろ、そうした思想を受け入れることはサタンに魂を売るということである。

歴史的出来事を見れば、イルミナティーの邪悪な目的が完全に継続していることは明らかであり、彼らがキリストの言葉にもあるように「サタンのシナゴーグに属して」いることは明確に実証される。神学者がこの見解の拠り所としているのは、人間なるものにはいくつもの時代を超えて悪をこのように伝承することなどできないという説であり、悪の伝承はローマ・カトリック教会における使徒伝承とまさに対極をなす。このように考えるとき、私たちは超自然的力が実際にはたらいてー多くのことがらにおいてそうであるようにー私たちの個人生活、国家の政策、国際問題に影響をあたえていることを否応なしに実感する。この種の議論はユダヤ人に邪悪な傾向があることに関しても、アーリア人種に、あるいは人種、肌の色、宗教に関わりなく、人には邪悪な傾向があることに関する議論にもあてはまる。

歴史が示すように、セネカ(4BC-65AD)もキリスト同様、ローマ帝国に侵入した金貸し業者の腐敗した慣習と悪影響を暴こうとしたために命を落とした。ローマを代表する哲学者だったセネカは、のちにローマ皇帝となるネロの個人教授に選ばれ、長いあいだネロの親友であると同時に、もっとも信頼できる助言者だった。ネロは結婚相手ポペーアによって金貸し業者の悪に引き入れられ、世界に類を見ない暴君として知られることになった。不道徳な行ない、堕落した慣習にふけるうち彼の中の卑しさが肥大し、生涯にわたって彼は善なるものすべてを迫害、破壊した。また、復讐相手に対しては公開で残虐行為を加えた。セネカはネロへの影響力を失ったが、悪影響および腐敗した慣習を広める者として金貸し業者を公然と非難することを決してやめなかった。ついに金貸し業者は大衆に人気のあるセネカをどうにかするようネロに求めた。そこで、大衆の怒りが自分や金貸し業者に向けられることのないよう、ネロはセネカに自ら命を絶つよう命じた。

これが歴史上初めての、金貸し業者による自殺の強要であり、自分たちにとって不都合な者への自殺の無理強いはこの後も続いた。歴史上、同様の自殺および事故、自殺に見せかけられた殺人は何十件も発生している。

近年では、第二次大戦終結時のアメリカ海軍長官であり、銀行家、株式相場師としても著名なジェームズ・V・フォレスタルの死がよく知られている。1945年までにフォレスタルは、アメリカ人銀行家が英国、フランスをはじめ各国の中央銀行を牛耳る国際銀行家と密接に結びついていると確信していた。また、彼が遺した日記によれば、国際金融家こそイルミナティーであり、第一次、第二次世界大戦の勃発に直接的な責任があるとも確信していた。彼はルーズベルト大統領および政府の高級官僚に真実を理解させようと試みた。説得に失敗して暗澹たる気分から自殺をはかったのか、あるいは殺害されて永遠に口を封じられたのか、いずれにしても彼はペセスダ海軍病院の16階から身を投げた。自殺に見せかけた殺人は、上級レベルの国際的企ての中で何世紀ものあいだ容認されてきた手法である。

 参照

Death of Seneca at the Command of Nero 

VIDEO Monteverdi: L'incoronazione di Poppea - Seneca v.Nero (英語字幕) 

オペラ。ポペーアとの結婚を考え直すようにセネカはネロを説得しようと懸命に努めるが、ネロは一切聞き入れようとはしない。  

 ネロ(WIKIPEDIA)

ローマ大火(AD64年7月19日に発生)タキトゥスによると火災は6日間にわたってローマ市内の14中10の区域を燃やし尽くした。この大火災はネロが、キリスト教徒をターゲットにして犯人に仕立て上げるために自ら引き起こした陰謀とされている。

Great Fire of Rome

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タキトゥスの伝えるキリスト教徒迫害

 ネロがローマの大火の際にキリスト教徒を迫害したことを伝えるのは、タキトゥスの『年代記』がほぼ唯一の史料である。またこの史料で、クリストゥスという名で初めてイエス=キリストが登場する。

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民衆は「ネロが大火を命じた」と信じて疑わなかった。そこでネロは、この風評をもみけそうとして、身代わりの被告をこしらえ、これに大変手のこんだ罰を加える。

それは、日頃から忌まわしい行為で世人から恨み憎まれ、「クリストゥス信奉者」と呼ばれていた者たちである。この一派の呼び名の起因となったクリストゥスなる者は、ティベリウスの治下に、元首属吏ポンティウス・ピラトゥスによって処刑されていた。その当座は、この有害きわまりない迷信も、一時鎮まっていたのだが、最近になってふたたび、この過悪の発生地ユダヤにおいてのみならず、世界中からおぞましい破廉恥なものがことごとく流れ込んでもてはやされるこの都においてすら、猖獗(しょうけつ)をきわめていたのである。

そこでまず、信仰を告白していた者が審問され、ついでその者らの情報に基づき、実におびただしい人が、放火の罪というよりむしろ人類敵視の罪と結びつけられたのである。彼らは殺されるとき、なぶりものにされた。すなわち、野獣の毛皮をかぶされ、犬に噛み裂かれて倒れる。(あるいは十字架に縛り付けられ、あるいは燃えやすく仕組まれ、)そして日が落ちてから夜の灯火代わりに燃やされたのである。

ネロはこの見世物のため、カエサル家の庭園を提供し、そのうえ、戦車競技まで催して、その間中、戦車馭者のよそおいで民衆のあいだを歩きまわったり、自分でも戦車を走らせたりした。そこで人々は、不憫の念を抱きだした。なるほど彼らは罪人であり、どんなにむごたらしい懲罰にも値する。しかし彼らが犠牲になったのは、国家の福祉のためではなく、ネロ一個人の残忍性を満足させるためであったように思われたからである。

タキトゥス『年代記』下 岩波文庫 p.269-270>

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ジェームズ・ヴィンセント・フォレスタル

任期
1947年9月17日 – 1949年3月28日
大統領 ハリー・S・トルーマン
後任者 ルイス・A・ジョンソン

  フォレスタルの死

フォレスタルは1949年3月28日に「神経衰弱」により辞職し、鬱病と診断されベセスダ海軍病院に入院した。

5月22日、彼の遺体が3階の屋根の上で発見された。彼は16階の病室に入院していたが、窓から飛び降りて自殺したと判断された。彼の神経症と病院の過失に関する公式報告書はその死の詳細な状況に対する疑念を抱かせ、ソ連の工作員による殺害からUFOの関係まで様々な陰謀説がささやかれることとなった。

フォレスタルは生前、イスラエル工作員が自分を尾行していると主張していた。その後、アメリカとアラブ国家が秘密協定を結ぶことを心配したイスラエルが、実際に工作員を派遣しフォレスタルの行動を観察していたことが明らかになった。

彼の遺書ソポクレスの悲劇『アイアス』からの抜粋であった。

Frenzy hath seized thy dearest son,
Who from thy shores in glory came
The first in valor and in fame;
Thy deeds that he hath done
Seem hostile all to hostile eyes...
Better to die, and sleep
The never waking sleep, than linger on,
And dare to live, when the soul's life is gone.
 
Chorus from Ajax
  by: Sophocles (496-406 B.C.)

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フォレスタルの衰弱と死亡の原因は未解決の歴史上の問題である。彼が1948年から1949年にかけて重症の精神衰弱に陥っていたことは疑う余地がない。しかし彼がそうなった理由は明確ではないし、その解答がアメリカの国防問題ーやっかいなUFO問題と関わっている可能性が考えられるのである。(リチャード・ドラン

The decline and death of Forrestal is an unresolved problem of history. There is no question that he suffered from a spectacular mental breakdown during 1948 and 1949. Exactly why he did so is less certain, but the answer may have relevance to American national security – and the pesky topic of UFOs.

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闇の世界史 5: 暗黒時代に向かうヨーロッパ諸国

2013-04-27 13:03:32 | 闇の世界史

闇の世界史―教科書が絶対に教えないより抜粋

ユスティニアヌス1世(フラヴィウス・ペトラス・サバティス:AD483-565)はユスティニアヌス法典をつくり、一部のユダヤ人商人によって行われていた違法な通商行為を廃止しようとした。違法の交易および大規模の密輸に関わることで、ユダヤ人商人はーイルミナティーの代理人にすぎないにしてもー不当な利益をあげ、非ユダヤ人同業者の事業を害していたからだ。ユスティアヌス1世によって定められた法典は10世紀まで法律の模範書として受け入れられ、今日でさえ、法律文書のなかでもっとも重要なものと見なされている。それでも金貸し業者は、ユステイアヌスが行おうとした善をまんまと相殺した。ファンク・アンド・アグナルの『ユダヤ百科事典(jewish Encyclopedia)』には、当時のユダヤ人について以下のような記述がなされている。

彼らは宗教的自由を100パーセント享受し、・・・少数派のための役所も開かれていて、奴隷貿易はローマのユダヤ人の主たる生計源となった。この公益を禁じる法令は期限後335年、339年、384年などに発布された。

まったく裏腹の話もあるが、ユダヤ人商人および金貸し業者による違法活動が奴隷貿易にとどまらなかったことは歴史によって証明される。記録によれば、彼らは麻薬貿易、売春、さらには酒類、香料、宝石など関税のかかる品々を大規模に密輸していた。そしてその違法通商を維持するために麻薬や酒、女性をつかって役人を堕落させ、ローマ人の道徳心を破壊した。歴史記録によれば、ユスティアヌスはローマ皇帝だったにも関わらず、ユダヤ人商人の活動を禁じるほどの強権を持っていなかったようだ。

エドワード・ギボン(1737-1794)もユダヤ人商人および金貸し業者による腐敗的な影響を論じ、彼らが「ローマ帝国の衰亡」に一役も二役も買ったとしている。その著書『ローマ帝国の衰亡』(邦訳:ちくま文芸文庫/朱牟田夏雄他訳)のなかでギボンはかなりのページをさいて、ネロの妻ポペーアがどのような影響を及ぼして、ローマの人々を破滅に向けて迷走させることになる状況を生み出したのかについて記している。

ローマ帝国の衰亡とともにユダヤ人支配が確立された。そしてヨーロッパ諸国は、歴史家が言うところの、「暗黒時代」に入った。『ブリタニカ百科事典(The Encyclopedia Britannica)』には以下のように記されている。

彼ら(ユダヤ人および金貸し業者)がその洞察力と偏在性から特別に資格を与えられた交易を専門とするには必然の風潮が存在していた。暗黒の時代にあって西ヨーロッパ諸国の交易、とりわけ奴隷貿易はほぼ彼らの手中にあった。 

参照

ユスティニアヌス1世を描いたイタリア・サンヴィタレ教会モザイク画 ラテン語で書かれたユスティニアヌス法典

Corpus Juris Civilis

VIDEO Justinian the Great

ユスティニアヌス1世(ラテン語: Justinianus I (Iustinianus I), 483年 - 565年11月13日または14日)は、東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝の第2代皇帝(在位:527年 - 565年)。正式名は、フラウィウス・ペトルス・サッバティウス・ユスティニアヌス(Flavius Petrus Sabbatius Iustinianus)。

後世「大帝」とも呼ばれたように、古代末期における最も重要な人物の一人である。その治世は東ローマ帝国史における画期的な時代をなし、当時の帝国の版図を押し広げた。これは、野心的だが最終的には失敗した「帝国の再建」(renovatio imperii)に特徴づけられる。この野望はローマを含む西ローマ帝国の領土を部分的に回復したことに表される。しかしその栄光の時代も、543年の黒死病(ユスティニアヌスのペスト(英語版))が終わりの印となった。帝国は領土的縮小の時代に入り、9世紀まで回復することはなかった。

ユスティニアヌスの遺産のより重要な側面は、ローマ法を統合して書き直した『ローマ法大全』(Corpus Iuris Civilis)であり、これは多くの現代国家の大陸法の基礎であり続けている。彼の治世はまた初期ビザンティン文化の興隆にも印され、彼の建築事業はハギア・ソフィア大聖堂のような傑作を生みだし、これは800年以上にわたって東方正教会の中心となった。

東方正教会では聖者と見なされており、ルーテル教会の一部からも祝福されている。反対に同時代のプロコピオスはユスティニアヌスを「残忍で強欲そして無能な統治者」として見ていた。

ユスティニアヌス1世の治世に関する主な史料は、歴史家プロコピオスが提供している。散逸したシリア語によるエフェサスのヨハネスの年代記は後代の年代記の史料となり、多くの付加的な詳細を知ることに貢献している。この2人の歴史家は、ユスティニアヌスと皇后テオドラに対して非常に辛辣である。また、プロコピオスは『秘史』(Anekdota)を著しており、ここではユスティニアヌスの宮廷における様々なスキャンダルが述べられている。ほかの史料としては、アガティアス (Agathias) 、メナンデル・プロテクトル (Menander Protector) 、ヨハネス・マララス (John Malalas) 、復活祭年代記 (Chronicon Paschale) 、マルケリヌス・コメス (Marcellinus Comes) 、トゥンヌナのウィクトル (Victor of Tunnuna) が挙げられる。

ユスティニアヌス1世(ウィキペディア)

Justinian I, Latin in full Flavius Justinianus, original name Petrus Sabbatius (born 483, Tauresium, Dardania [probably south of modern Niš, Serbia]—died November 14, 565, Constantinople [now Istanbul, Turkey]), Byzantine emperor (527–565), noted for his administrative reorganization of the imperial government and for his sponsorship of a codification of laws known as the Codex Justinianus (534).... (57 of 3,257 words)

Justinian I (Byzantine emperor) -- Encyclopedia Britannica

 

『ローマ法大全(ユスティニアヌス法典)』とは… 

『ローマ法大全』とは、東ローマ帝国皇帝ユースティニアーヌスⅠ世の命により、紀元後6世紀に成った 
『法学提要』・『学説類集』・『勅法類集』・『新勅法類集』を総称したものです。

ヨーロッパの法律学は、この『ローマ法大全』を礎石として、あたかも、ゴシック教会のように、中世・近世・
近代を経て築きあげられ、現在にいたっています。わが国の法律学は、明治以来、ヨーロッパの法律学
をモデルとしてきました。しかし、モデルとされたのは、ゴシック教会のいわば尖塔にあたる部分であったと
言えます。ヨーロッパの法律学を真に認識するためには、その礎石である『ローマ法大全』に立ち戻ること
が重要です。ローマ法研究が、現在の日本において、ますます必要となっている所以です。

福岡大学図書館

中世におけるローマ法大全とは

東ローマ帝国のユスティニアヌス帝 (在位 527 年- 565 年) は, 従来の法学説および勅法の集大成を 529 年から 534 年にかけて行わせた。 この集成は 3 つの部分からなり, それぞれ 「法学提要 (Institutiones)」 4 巻, 「学説彙纂 (Digesta 別名 Pandectae)」 50 巻, 「勅法彙纂 (Codex)」 12 巻 (以上は大部分がラテン語) と呼ばれる。

これらは, その後同帝が発布した勅法を集めた 「新勅法 (Novellae)」 (ほとんどがギリシャ語) とあわせてこの 4 部は, 後に 『ユスティニアヌス帝法典』 あるいは 『ローマ法大全』 (Corpus luris Civilis) と呼ばれることになった。 全部で聖書の約 2 倍の分量と言われる。

「法学提要」 は法学校の入門書として使われたが同時に法律としての効力を持っていた。 つまり教科書であると同時に, 裁判で今日の条文のように引き合いに出すことができたのである。 「学説彙纂」 はローマ法学の全盛期 (2-3 世紀あたり) の法学文献 (告示注解, 助言集など) からの抜粋で, 『ローマ法大全』 の中心的地位を占め, 分量・質とともに他の部分を圧倒する。

権力者が断定的に判断を下すというよりも, 学者が自由な議論を交わした成果であるために, また当時当然とされていたことを前提としつつ複雑な法律問題に取り組んだ成果であるために, その内容自体の理解をめぐって様々な解釈を呼び起こし, まさに後代の解釈者の能力が問われ, 優れた頭脳の持主を魅了した。 「勅法彙纂」 はローマ歴代皇帝の勅法の集成であり, 多くは具体的な事件に対し皇帝名でなされた解答 (回答) からなっていた。 以上, 3 つの部分完成後の 「新勅法」 はユスティニアヌス帝の勅法集である。  

この 『ローマ法大全』 は, 中世・近世ヨーロッパにおいて 『教会法 (カノン法) 大全』 と並んで普通法 (ius commune) として大学で研究教育され, 各国の民事立法に多大な影響を及ぼしただけでなく, 紛争解決の規範として直接裁判や助言活動で適用された。 しかし, この普通法の主要法源は, 簡潔な条文の形をとる今日の六法全書のごときものでは決してなく, 実務家が直ちにこれを適用するにはあまりにも難解であった。 故に, この 『ローマ法大全』 を実務で適用できるように解説する作業が不可欠となった。 12 世紀イタリアのボローニャを中心に, 法源の各節・各語句に対する註釈という形でその作業が始まった (註釈学派)。 イルネリウスから始まったとされる註釈学者は, ローマ法の中で論じられている事件の内容や法文のルールを解明して註釈の形で書き残し, 講義を行なった。 彼らは同時に簡潔で体系だった 「要約 (Summa)」 をも記している。 もっとも彼らが基準とした

「学説彙纂」 はギリシャ語部分が読まれなかった。 また, 新勅法は公撰書と呼ばれたラテン語訳が用いられていた。 かれらの利用した text は, 後に 「流布本 (Vulgata)」 と呼ばれる。 註釈学派に属する学者には, 「四博士 (quattuor doctores)」 といわれるマルティヌス (Martinus), ブルガルス (Bulgarus), フーゴ (Hugo), ヤコブス (Jacobus) がおり, 次の世代として, アーゾ (Azo), フゴリヌス (Hugolinus) らがいる。 彼らの註釈作業は, アックルシウス (Accursius) の手によって集大成され, それが註釈のいわば決定版となった。 これは 「標準註釈 (Glossa ordinaria)」 と呼ばれており, その数は 96,000 を越える膨大なものである。 こうしてローマ法は註釈付きで西ヨーロッパに広まっていく。  

14 世紀になると, 実務とのより強い結合や法源のより体系的な解釈を指向する 「注解学派 (Kommentatoren)」 が主流となる。 注解学派は現実の事件に対し法的なアドヴァイスを積極的に行なったので, 「助言学派 (Consiliatoren)」 と呼ばれることもある。 代表的な学者は, バルトルス (Bartolus) とバルドゥス (Baldus) である。 「註釈学派」 はローマ法に理論的な分析・加工を施し, ローマ法の解明を行った。 彼らとて同時代の法律問題にコミットしていなかったわけではないが, この 「注解学派」 の人達の仕事には, ローマ法の成果を現実の社会に利用しようとする実践的意図がより鮮明に出てきた。  

以来, 西欧の法律学の歴史はユスティニアヌス帝法典とこの註釈・注解との格闘の中から生まれたといっても過言ではない。 フランス法およびドイツ法を継受した日本の民法もその遺産の一つであり, 今日でもなお民法典の条文の理解・解釈にローマ法の知識が不可欠といわれる理由もその点にある。

南山大学図書館


闇の世界史 6 :ユダヤ商人のイギリス浸透

2013-04-27 13:03:07 | 闇の世界史

闇の世界史―教科書が絶対に教えないより抜粋

ユダヤ人による通商支配は、違法のものも合法的なものも含め、確たるものになっていた。それは広い地域に及ぶようになり、ヨーロッパ諸国の経済そのものが彼らの手中にほぼおさまった。ユダヤ風の銘刻の刻まれたポーランドやハンガリーの硬貨は当時、金融の事象にユダヤ人の権力が行使されていたことを如実に物語るものである。また、通貨の発行および管理を行うためにユダヤ人たちがとりわけ奮闘した事実は、1694年に英国銀行の支配権を確保できた理由をアムシェル・マイヤー・バウアー(1743-1812)が陰謀者仲間に説明するのに引き合いに出す以前から、金貸し業者は「国家の金を発行、管理させてくれたら、誰が法をつくろうとかまわない」というスローガンを掲げていたとする見解を裏付ける。

アーリア人主義の指導者である男爵たちはユダヤ人によるヨーロッパの通商および金の支配を打ち破ろうと考え、この目的をもって1095年にキリスト教徒支配者の一部から支持を得て、十字軍(宗教戦争)を開始した。1095年から1271年にかけて8回の遠征が組織された。正式には、それは聖墳墓を訪れ、パレスチナにキリスト教支配を樹立することを願う巡礼者の安全を確保するために行われた武力遠征だったが、実際には、ヨーロッパの人々を2つの陣営、すなわち「親ユダヤ集団」と「反ユダヤ集団」に分立させるために誘発された戦争だった(また、近年でも「秘密権力」は、白人種を「親ユダヤ集団」と「反ユダヤ集団」に分立させている)。

成功に終わった遠征も、失敗した遠征もあった。1271年、キリスト教世界の国々が莫大な資金、財産を注ぎ込んで十字軍に戦費を融資し、莫大な人々の生命を犠牲にして宗教戦争を戦ってきたにもかかわらず、パレスチナは依然として異教徒の手中にあるという最終結果が示された。そして奇妙なことに、ユダヤ人金貸しがかつてなかったほど裕福になり、強大な力を持つようになった。

後年生じた結果をめぐって、その原因が研究するとき、十字軍には見落としてはならない一局面が存在する。1215年、ローマ・カトリック教会の支配層は第4回ラテラノ公会議を開き、主としてヨーロッパ諸国におけるユダヤ人の侵略ぶりについて話し合った。この時期、ローマ・カトリック教会の支配者層と国家支配者は協力体制を採った。しかるべき検討を加えた結果、教会支配者層は十字軍の継続を支持することを表明すると同時に、不当な利益をあげて非ユダヤ人同業者を出し抜くための高利貸しおよび非倫理的な通商活動を禁じ、非道徳的かつ腐敗しきった慣習も根絶させる法令を起草、可決した。第4回ラテラノ公会議に出席した高位聖職者は、この目的を実現するために、近い将来ユダヤ人は居住区域を限定されることになると布告した。また、彼らはユダヤ人がキリスト教徒を使用人として雇うことを厳禁した。というのも、ユダヤ人金貸し業者および商人は共同出資会社の原理に基づいて、つまりキリスト教徒を雇い、キリスト教徒を表看板にして自らは背後に潜んで指示を与えて、事業を営んでいたからである。このやり方は、何か不始末が生じても、咎めや罰を受けるのは表看板であるキリスト教徒で、ユダヤ人業者自身は無関係でいられるため、彼らにはまったく都合のいいものだった。

さらに、法令はユダヤ人がキリスト教徒の女性を家庭や組織に雇い入れることも厳禁した。証拠が実証するように、ユダヤ人は若い女性をそそのかして売春行為に関わらせ、そうした女性を利用して要人に対する支配権を獲得していたからである。他にも、ユダヤ人による多くの商業活動が禁じられた。

それでも教会権力は、国家のキリスト教徒官僚の大部分から支持されていたにもかかわらず、金融男爵を法の支配下に置くことができなかった。結果として、法令はキリストの教会に対してイルミナティーがいだいてきた憎しみを増長させ、政教分離のための継続的運動に着手させただけだった。そしてこの目的のために、イルミナティーは世俗主義の思想を持ち込んだ。

1253年、フランス政府はこの法令に従わなかったとしてユダヤ人を国外追放処分とした。追放されたユダヤ人の大部分は英国に渡ったが、1255年にはユダヤ人金貸し業者が多くの高位聖職者およびほとんどの貴族に対する絶対支配権を手に入れていた。

このような金貸し業者、ラビ、長老がイルミナティーに属していたことは、1255年にヘンリー3世が聖ヒュ・ーオブリ・リンカーン(司教)の儀式殺人について命じた調査結果から明らかである。この事件では18名のユダヤ人が容疑者として逮捕され、裁判の結果、処刑された。

参照

OTTO (962 - 973), tin replica of a Frankish coin. Hand casted with patina. Size: approx. 2.3 cm in a diameter.

medieval coins

国家の金を発行、管理させてくれたら、誰が法をつくろうとかまわない 

Permit me to issue and control the money of a nation, and I care not who makes its laws!

メイヤー・アムチェル・ロスチャイルド(1744-1812)の言葉 。その主要なソースは知られていないが、1935年に
ガートルードM.クーガンが著書「マネー·クリエーター」で用いている。英語のことわざ「私に国歌を作らせてくれるなら、誰が法律を起草しようとかまわない」のパロディーだと思われる。

Attributed to Mayer Amschel Rothschild (1744 - 1812). No primary source for this is known and the earliest attribution to him known is 1935 (Money Creators, Gertrude M. Coogan). Before that, “Let us control the money of a nation, and we care not who makes its laws” was said to be a “maxim” of the House of Rothschilds, or, even more vaguely, of the “money lenders of the Old World”. This is a play on an English proverb, Let me make the songs of a nation, and I care not who makes its laws.

Wikiquote: Conspiracy

VIDEO Who Controls the World? A History Of the Rothschild Criminal