ふるやの森

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闇の世界史11 : クロムウェルによる西洋国家・キリスト教破壊計画の実行

2013-04-22 06:20:12 | 闇の世界史

歴史が示すように、国際金貸し業者のユダヤ人は、復讐以外の目的からもチャールズを亡き者にしようとした。英国経済および英国政府の支配権を手中に収めるためである。彼らはまた、ヨーロッパの多くの国家を英国との戦争に巻き込もうと計画した。戦争遂行には巨額の資金が必要とされるため、戦争を誘発し、その軍事費をヨーロッパの諸国王に貸し付ければ、ヨーロッパ諸国すべての国家負債を急速に大きくすることができるからだった。

1649年のチャールズ一世の処刑から1694年の英国銀行の設立に至る歴史的出来事を並べると、国家負債がどんどん膨らんでいくさまがよくわかる。国際銀行家はあの手この手でキリスト教徒を互いに対立させていった。

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1649年 クロムウェル、ユダヤ人から経済支援される。アイルランドでの戦いを開始。ドロエダ・ウエックスフォードを占領、英国プロテスタント、アイルランドのカトリック教徒の処刑を非難される。 

1650年 モントローズ、クロムウェルに反乱。捕らえられ処刑。 

1651年 英国、対オランダ戦争。 

1653年 クロムウェル護国卿を宣言。 

1654年 英国さらなる戦争。 

1656年 植民地アメリカで問題発生。 

1657年 クロムウェル死去・・・息子リチャードが護国卿に。 

1659年 リチャード、策謀に嫌気がさして辞職。 

1660年 モンク将軍、ロンドンを占領。チャールズ二世、王位を宣言。 【王政復古】

1661年 クロムウェルおよびその仲間のアイルトン、ブラッドショーによって計画された策略の真相が暴露され、大衆の反応は深  刻。国王殺害者の遺体が掘り起こされ、タイバーンヒル(ロンドン)で縛り首に。 

1662年 宗教紛争が発生し、プロテスタントのメンバーが諸派に分裂。英国国教会に属さない非国教徒、迫害される。 

1664年 英国、再度の対オランダ戦争。 

1667年 カバルの代理人による新たな宗教および政治紛争が生じる。 

1674年 英国、オランダと和睦。国際陰謀者、配役を変える。仲介者となり、地味なウィリアム・ストラッドホルダー氏をオランダ軍    の総司令官に立てる。オロニエ家皇太子ウィリアムとなったウィリアム・ストラッドホルダーと王位継承者であるヨーク公の長女との出会いが手配される。 

1677年 メアリーとオラニエ公ウィリアムを英国の王位に就けるためにはチャールズ二世とジェームズ二世となるはずのヨーク公   の二人が取り除かれねばならなかった。 

1683年 チャールズ二世とヨーク公の暗殺を企てたライハウス事件が生じるも、失敗。 

1685年 チャールズ二世死去。ヨーク公、英国王ジェームズ二世となる。即刻、ジェームズ二世に対してランファミー運動が開始さ    れる。言いくるめられたのか、あるいは賄賂を与えられるかして、モンマス公が王権転覆のための反乱を指揮。6月30日、セッジムアの戦い。モンマス、敗退して逮捕され、7月15日に処刑。8月、歴史家の言う「血の巡回裁判」をジェフリーズ判事が開始。モンマスの反乱に関与した約300名が残虐な方法で死刑に処され、1000人近くが奴隷として売られる(陰で操る「秘密権力」によって「秘密権力」以外の人物が責めを負う状況がつくりだされた典型例)結果として、責めを負わされた人物に対する反対運動が起こされ、そうした人物が抹消されることになる。ジェームズ二世は、オラニエ公ウィリアムが国王になって「秘密権力」の指示の実行に着手しないうちから、抹消されなければならない存在となった。英国民は皆、途方に暮れた。真実を知ることができなかったからだ。彼らは陰で操る「秘密権力」以外、すべての人物、すべてのことを責めた。陰謀者は次の段階に進んだ。 

1688年 オラニエ公ウィリアム、トーベイに上陸するよう命じられる。11月5日、ウィリアム、これを決行。ジェームズ二世は退位し     てフランスに逃亡。ランファミー運動、陰謀、さらには自らの愚かさと罪のために、彼は大衆の支持を失っていた。 

1689年 オラニエ公ウィリアムと皇妃メアリー、英国王ならび王妃を宣言。ジェームズ二世には戦いもしないで退位するつもりは    なかったが、彼はカトリック教徒だったために、オラニエ公ウィリアムがプロテスト信仰の擁護者として「秘密権力」によって擁立された。

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1689年2月15日、ジェームズがアイルランドに上陸。断固対立する宗教信念を持った人々によってボイン川の戦いが戦われた。以来、7月12日には秘密結社オレンジ・ソサイエティの党員によってこの戦いは祝されている。とはいえ現在、仮に一万人の党員がいたとしても1640年から1689年にかけて戦われた戦争、反乱のすべてが、英国の政策および経済を支配できる地位に就こうとした国際金貸し業者によって誘発されたものだったとは一人も知らないのではないかと思われる。そうした金貸し業者は、英国銀行の設立許可を受けること、そして彼らによって誘発された戦争の費用として英国に貸し付けた金の返済を確保することを何よりの目的としていた。この目的を彼らがどのように果たしたかについては歴史が示す通りである。

参照

アイルランド東部の都市であるドロヘダは、アイルランド・カトリック同盟戦争 (アイルランドにおける三王国戦争) のおきた1640年代に2回の攻城戦が起こっている。1回目の攻城戦は1641年のアイルランド反乱の際に起きたもので、フェリム・オニール (Felim O'Neill of Kinard) と反乱軍は都市を攻めたが落とすことはできなかった。より有名な2回目の攻城戦はクロムウェルのアイルランド侵略中に起こったもので、オリヴァー・クロムウェル率いるニューモデル軍 (New Model Army) は都市を攻め落とし駐留兵を虐殺した。

ドロヘダ攻城戦

ドロヘダあるいはドラハダ(Drogheda)は、アイルランド東部レンスター・ラオース州の都市。人口は2万8973人。ダブリンの約55キロ北方に位置しており、街をボイン川が流れる。1649年にオリバー・クロムウェルがアイルランド遠征の緒戦として行ったドロヘダ攻城戦の舞台となり、ウィリアマイト戦争の戦闘の1つである1690年のボイン川の戦いはこの街の近郊で起こった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

       

 

 


闇の世界史12 : 英国破壊計画の進行

2013-04-22 05:26:51 | 闇の世界史

闇の世界史―教科書が絶対に教えないより抜粋

分析を突き詰めると、戦争、革命に関わったどの国家も国民も、恒久的利益を得ていないことが明白となる。政治的、経済的、宗教的問題に関する限り、恒久的あるいは満足のいく解決が実現されたためしはない。

利益を得るのは、戦争、革命に資金を融資した金貸し業者とその友人、代理者といった小集団に限られている

英国の上位に就いたオランダ将軍は、英国大蔵省を説得して125万ポンドの金を、自らを英国に送り込んだユダヤ人商人から借金させた。歴史の教科書が伝えるところによれば、この話し合いは英国政府を代表するジョン・ハブロン興およびウィリアム・パタソン氏と、正体を秘密に保たれたままの金貸し業者のあいだで行われたとされている。

歴史文書の研究によって、秘密を保つために、貸付け条件についての交渉が教会内で行われたことは明らかである。キリストの時代、金貸し業者は神殿を利用した。ウィリアム公の時代、彼らは教会の神聖さを汚した。国際金貸し業者は自らが条件を設定できるなら、英国大蔵省に125万ポンドまで融通してもよいとした。この提案は承認された。以下に彼らが設定した条件の一部を記しておく。

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1 貸付けを行った人物群の名は伏せられること。そして彼らに英国銀行設立の特許状が与えられること。

2 英国銀行理事に金本位制を確立する法的権限が与えられること、それによってーー

3 金庫室に保管されている金1ポンド等価で10ポンド相当まで貸付け可能とすること。

4 国家負債の清算および国民からの直越税によって、元金と利息としてしかるべき金額の支払いの確保が認められること。

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こうして、国王オラニエ公ウィリアムは125万ポンドのために英国民を経済的隷属状態に陥らせ、ユダヤ人金貸し業者はその野望を果たした。国家通貨の発行、管理の権限を奪取したのである。この権限さえ手に入れてしまえば、彼らは誰が法をつくろうと一切関知しなかった。

金本位制が採用されたとはどういうことかーー簡単な取引を例にとって考えても容易に理解できる。英国銀行の理事は抵当物として保管されている金100ポンド等価で1000ポンド相当の貸付けを行うことができたということだ。利息はまるまる1000ポンドにかけられたから、利息5パーセントで年間50ポンドが取りたてられ、それによって最初の1年が終わった時点で、彼らは貸付けを保証するために貸し出した金額の50パーセントを回収していた。また、融資を望む相手が個人の場合、銀行家は不動産、株券、債権など、必要とされている貸付け等価以上の抵当物を求め、この個人が元金、利息を支払えなかった際には、抵当物受け戻し権喪失の手続きをとって貸付け等価の何倍もの資産を手に入れた。

国際銀行家には、英国に国家負債を完済させるつもりなど毛頭なかった。彼らは、関係国家すべてをどんどん借金状態に追い込むような国際状況を現出しようと計画していた。

英国に関するかぎり、国家負債は増加の一途をたどり、1694年から98年にかけての5年間で100万ポンドから1600万ポンドまで膨れあがった。すべては戦争のためだった。この時期の軍事指導者がジョン・チャーチル(1650-1722)だったことを思うと興味深い。その軍事的才能および英国への貢献から、彼には初代マールベラ公の肩書きが与えられた。

世界革命運動(WRM)の背後に潜む「秘密権力」は、糸を操ってスペイン王位継承戦争を引き起こした。1701年、マールバラ公はオランダ国軍の最高司令官に任じられた。唯一、『ユダヤ百科事典』(前出)だけが、「数々の功績ゆえにマールバラ公爵には年間少なくとも6000ポンドもの金がオランダに住むユダヤ人銀行家から与えられていた」という事実を記録している。

1698年から1815年のあいだに英国の国家負債が8億8500万ポンドにまで膨れあがった事情は、フランス革命に至る出来事によって説明される。1945年には英国の国家負債は225億3503万2372ポンドという天文学的数字となり、1945-46年のあいだの金融経費だけで4億4544万6241ポンドに及んだ。

「この異常なポンドにあくまで執着するのはユダヤ人支配下にある組織くらいのものだろう」ーーあるアイルランド人経済学者はそう言った。

参照

ボイン川の戦い(Battle of the Boyne)は1690年7月1日(ユリウス暦、グレゴリオ暦では7月12日)、ウィリアム3世率いるイングランド・オランダ連合軍と、退位させられたジェームズ2世率いるアイルランド軍の間に行われた戦い。アイルランドのボイン川河畔で行われた。イングランド軍36,000人とアイルランド軍25,000人が戦い、ウィリアム3世が勝利してイングランド王位の保持を決定的なものにした。

ウィリアム3世William III (of Orange), 1650年11月14日 - 1702年3月8日)は、オラニエ公・ナッサウ伯(在位:1650年11月14日 - 1702年3月8日)、オランダ総督(在職:1672年6月28日 - 1702年3月8日)、イングランド王・スコットランド王・アイルランド王(在位:1689年2月13日 - 1702年3月8日)。スコットランド王としてはウィリアム2世。イングランド女王・スコットランド女王・アイルランド女王メアリー2世は妻。オランダ名ではウィレム3世Willem III van Oranje-Nassau)。オラニエ=ナッサウ家の出身であるが、ステュアート朝の王の1人に数えられている。