歴史が示すように、国際金貸し業者のユダヤ人は、復讐以外の目的からもチャールズを亡き者にしようとした。英国経済および英国政府の支配権を手中に収めるためである。彼らはまた、ヨーロッパの多くの国家を英国との戦争に巻き込もうと計画した。戦争遂行には巨額の資金が必要とされるため、戦争を誘発し、その軍事費をヨーロッパの諸国王に貸し付ければ、ヨーロッパ諸国すべての国家負債を急速に大きくすることができるからだった。
1649年のチャールズ一世の処刑から1694年の英国銀行の設立に至る歴史的出来事を並べると、国家負債がどんどん膨らんでいくさまがよくわかる。国際銀行家はあの手この手でキリスト教徒を互いに対立させていった。
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1649年 クロムウェル、ユダヤ人から経済支援される。アイルランドでの戦いを開始。ドロエダ・ウエックスフォードを占領、英国プロテスタント、アイルランドのカトリック教徒の処刑を非難される。
1650年 モントローズ、クロムウェルに反乱。捕らえられ処刑。
1651年 英国、対オランダ戦争。
1653年 クロムウェル護国卿を宣言。
1654年 英国さらなる戦争。
1656年 植民地アメリカで問題発生。
1657年 クロムウェル死去・・・息子リチャードが護国卿に。
1659年 リチャード、策謀に嫌気がさして辞職。
1660年 モンク将軍、ロンドンを占領。チャールズ二世、王位を宣言。 【王政復古】
1661年 クロムウェルおよびその仲間のアイルトン、ブラッドショーによって計画された策略の真相が暴露され、大衆の反応は深 刻。国王殺害者の遺体が掘り起こされ、タイバーンヒル(ロンドン)で縛り首に。
1662年 宗教紛争が発生し、プロテスタントのメンバーが諸派に分裂。英国国教会に属さない非国教徒、迫害される。
1664年 英国、再度の対オランダ戦争。
1667年 カバルの代理人による新たな宗教および政治紛争が生じる。
1674年 英国、オランダと和睦。国際陰謀者、配役を変える。仲介者となり、地味なウィリアム・ストラッドホルダー氏をオランダ軍 の総司令官に立てる。オロニエ家皇太子ウィリアムとなったウィリアム・ストラッドホルダーと王位継承者であるヨーク公の長女との出会いが手配される。
1677年 メアリーとオラニエ公ウィリアムを英国の王位に就けるためにはチャールズ二世とジェームズ二世となるはずのヨーク公 の二人が取り除かれねばならなかった。
1683年 チャールズ二世とヨーク公の暗殺を企てたライハウス事件が生じるも、失敗。
1685年 チャールズ二世死去。ヨーク公、英国王ジェームズ二世となる。即刻、ジェームズ二世に対してランファミー運動が開始さ れる。言いくるめられたのか、あるいは賄賂を与えられるかして、モンマス公が王権転覆のための反乱を指揮。6月30日、セッジムアの戦い。モンマス、敗退して逮捕され、7月15日に処刑。8月、歴史家の言う「血の巡回裁判」をジェフリーズ判事が開始。モンマスの反乱に関与した約300名が残虐な方法で死刑に処され、1000人近くが奴隷として売られる(陰で操る「秘密権力」によって「秘密権力」以外の人物が責めを負う状況がつくりだされた典型例)結果として、責めを負わされた人物に対する反対運動が起こされ、そうした人物が抹消されることになる。ジェームズ二世は、オラニエ公ウィリアムが国王になって「秘密権力」の指示の実行に着手しないうちから、抹消されなければならない存在となった。英国民は皆、途方に暮れた。真実を知ることができなかったからだ。彼らは陰で操る「秘密権力」以外、すべての人物、すべてのことを責めた。陰謀者は次の段階に進んだ。
1688年 オラニエ公ウィリアム、トーベイに上陸するよう命じられる。11月5日、ウィリアム、これを決行。ジェームズ二世は退位し てフランスに逃亡。ランファミー運動、陰謀、さらには自らの愚かさと罪のために、彼は大衆の支持を失っていた。
1689年 オラニエ公ウィリアムと皇妃メアリー、英国王ならび王妃を宣言。ジェームズ二世には戦いもしないで退位するつもりは なかったが、彼はカトリック教徒だったために、オラニエ公ウィリアムがプロテスト信仰の擁護者として「秘密権力」によって擁立された。
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1689年2月15日、ジェームズがアイルランドに上陸。断固対立する宗教信念を持った人々によってボイン川の戦いが戦われた。以来、7月12日には秘密結社オレンジ・ソサイエティの党員によってこの戦いは祝されている。とはいえ現在、仮に一万人の党員がいたとしても1640年から1689年にかけて戦われた戦争、反乱のすべてが、英国の政策および経済を支配できる地位に就こうとした国際金貸し業者によって誘発されたものだったとは一人も知らないのではないかと思われる。そうした金貸し業者は、英国銀行の設立許可を受けること、そして彼らによって誘発された戦争の費用として英国に貸し付けた金の返済を確保することを何よりの目的としていた。この目的を彼らがどのように果たしたかについては歴史が示す通りである。
参照
アイルランド東部の都市であるドロヘダは、アイルランド・カトリック同盟戦争 (アイルランドにおける三王国戦争) のおきた1640年代に2回の攻城戦が起こっている。1回目の攻城戦は1641年のアイルランド反乱の際に起きたもので、フェリム・オニール (Felim O'Neill of Kinard) と反乱軍は都市を攻めたが落とすことはできなかった。より有名な2回目の攻城戦はクロムウェルのアイルランド侵略中に起こったもので、オリヴァー・クロムウェル率いるニューモデル軍 (New Model Army) は都市を攻め落とし駐留兵を虐殺した。
ドロヘダあるいはドラハダ(Drogheda)は、アイルランド東部レンスター・ラオース州の都市。人口は2万8973人。ダブリンの約55キロ北方に位置しており、街をボイン川が流れる。1649年にオリバー・クロムウェルがアイルランド遠征の緒戦として行ったドロヘダ攻城戦の舞台となり、ウィリアマイト戦争の戦闘の1つである1690年のボイン川の戦いはこの街の近郊で起こった。