ふるやの森

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闇の世界史10 : チャールズ一世の処刑

2013-04-23 10:15:27 | 闇の世界史

闇の世界史―教科書が絶対に教えないより抜粋

1936年にパリ(フランス)でブナイ・ブリスの祝典が催されたとき、コーヘン・コウイン・カルヴィン(いずれが本名であるにしても)、彼がユダヤの血を引いていたことが喝采のうちに承認された。

宗教論争ばかりではなく、革命指導者は武装暴徒を組織し、その指揮者によって政治、労働にもたらされたあらゆる状況を悪化させた。後にビーコンズフィールド興となったベンジャミン・ディズレーリ(1766-1848)はユダヤ人で、その著書『チャールズ二世の生涯(The Life of CharlsⅡ)』のなかで、英国の革命をこの角度から詳細に論じている。同著でアイザック・ディズレーリは、当時駐英フランス特使だったユダヤ人、メルキオール・デ・セーラムの記録からかなりの情報を入手していること、そして英国およびフランスの革命に先んずる革命的活動に見られる類似性ないしはそのパターンに大いに注目していることを述べている。換言すれば、世界革命運動(WRM)の陰に隠れたほんとうの指揮官のやり口が、どちらにおいても明確に見られるということだ。それこそが私がさらに実証しようとしている事実である。

 オリヴァー・クロムウェルがユダヤ人による革命の企てに加担したことを断固、実証する証拠はノース・ブリティッシュ出版社から発行されていた週間の評論誌『プレーン・イングリッシュ(Plain English)』の編集者アルフレッド・ダグラス興によって入手された。1921年9月3日号び掲載された記事で、同郷は友人でアムステルダムに住むL.D.ヴァン・ヴァールカートが、ミュールハイムのシナゴーグの記録のうちの散逸していた一冊を所有するようになった経緯について述べた。これはナポレオン戦争時に失われたもので、シナゴーグの指導者層に宛てられたり、指導者層によって記されたりした書簡の記録だった。

それはすべてドイツ語で記され、1647年6月16日の日付のある一通には以下のように書かれていた。

O.C.(オリヴァー・クロムウェル)よりエベネゼル宛。

経済支援の見返りに、ユダヤ人の英国への入国を提唱しよう。しかしながらこれは、チャールズが生きている限り、実行され得ない。が、裁判にかけないかぎり、チャールズの処刑は不可能であり、現在のところ裁判にかける適切な根拠も存在しない。それゆえ暗殺があり得ることをチャールズに諫言するがよかろう。とはいえ、当方には暗殺者の手配に関わるつもりは一切ない。チャールズの逃亡を手伝うだけだ。

これに対する返答として、記録によれば、E.プラットは1647年7月12日にクロムウェル宛に以下のような手紙を記した。

チャールズが除去され、ユダヤ人の入国が認められ次第、経済支援を行なう。暗殺は危険すぎる。チャールズに逃亡の機会を与えるだけでよい。その後に身柄を拘束すれば、裁判にかけることも、処刑もありうる。支援は惜しまないが、裁判が始まらないうちから、金額についての議論をしても意味はない。

 同じ年の11月12日、チャールズは逃亡の機会を得たが、無論、監禁された。この時代に関する研究の権威、ホリスもラドロウも、この逃亡をクロムウェルの策略と見なす記録を残している。チャールズが再監禁されると、事態はたちまち進展した。クロムウェルは国王に忠義を尽くすと思われる議員の大部分を英国議会から追放した。このような強行措置がとられたにもかかわらず、1648年11月5日に夜を徹して下院議会が続けられると、大多数は「国王によって提出された譲歩案は和解のために納得できる」と合意した。

和解の実現は、E・ブラットを介して国際金融男爵から約束された血まみれの金(殺人謝礼金)をクロムウェルが受け取れなくなることを意味した。そこで彼はもう一度手を打ってプライド大佐に命じ、国王との和解を支持した議員を国会から追放した。これが歴史の教科書に現れる「プライドの追放」である。

追放の結果、50名の議員が残り、「臀部議会」として記録される議会が構成され、絶対権力が奪取された。1649年1月9日、英国王を裁く目的で、クロムウェルの軍隊出身の「水平派」がその三分の一を占める「高等法院」が宣言されたが、このメンバーにはチャールズ一世に対して犯罪告発状を草案する英国人法律家を見いだせなかった。そこでカーヴァハルは英国におけるマナセ・ベン・イズラエルの代理人でユダヤ人のアイザック・ドリスラウスに命じて国王チャールズ一世を裁くための告発状を書かせた。チャールズは英国民だけではなく、ユダヤ人である国際禁輸男爵によって差し向けられた罪状に対して有罪を宣告され、1649年1月30日にホワイトホール(ロンドン)のバンケッティング・ハウスで公開処刑された。エドワード一世によって英国を追放されたユダヤ人金貸し業者にしてみれば、サタンのシナゴーグの高僧から指示を受けつつ、これで復讐が果たせたのだった。そしてオリヴァー・クロムウェルはかつてユダがそうしたように、血まみれの金を受け取った。

参照

VIDEO The Trial and Execution of King Charles I from 'The Devil's Whore'

 

イギリス王室今昔物語