奈良の名所・古跡

行ってみたい所があるといいのですが・・・古墳とか建物とか巨樹とかいろいろ・・・

都筑惣左衛門の五輪塔

2008年11月26日 | 石造物
 東明寺の西方竹藪の中に有ります 撮影日;2008.10.29

 養子為成が建立した大五輪塔と顕彰碑が現存しています 

★所在地;大和郡山市矢田町2230
★交通;近鉄橿原線「郡山」駅より
  矢田山行きバスで「横山口」下車 徒歩30分
★駐車場;有ります(20台)
★入場料;タダです
★問合せ;

【都筑惣左衛門】
郡山藩家老
名は云成(いいなり)
元和元年(1615)越前から大坂の陣に参加、二代将軍徳川秀忠の命令で姫賂城主本多家に仕えた。
寛永16年(1639)本多政勝が郡山に移るのに従い、筆頭家老として3,500石を与えられ五軒屋敷に住む。
俳諧をよくした風流人でもあったが、「九六騒動」では本家筋のため大いに活躍した。
慶安2年(1649)6月、没68歳。矢田東明寺に葬られる。


【九六騒動】
豊臣秀頼の後、最後の摂津大坂藩主となった松平(奥平)忠明が12万石で入り、播磨姫路へ。
播磨姫路から本多政勝が15万石で入るが、政勝の没後、後嗣を巡って、政勝の従兄弟、本多政長が9万石、政勝の実子本多政利が6万石と分かたれる。
本来なら家督が巡る機会など無かった政勝は、自分の息子である本多政利に家督を譲りたいと思うようになった。
そこで政勝・政利父子は時の大老・酒井忠清に取り入って、自らが家督を継ごうと画策し始める。
これを見た本多氏の忠臣・都築惣左衛門は政勝に対して一刻も早く家督を成長した政長に譲るように要請する。
これにより、政勝はしぶしぶ政長を養嗣子と定めたが、政利の家督への野望がその程度で立ち消えるわけが無く、寛文11年(1671年)に政勝が死去すると、即座に酒井忠清に取り入って裏工作を行なった。
そして、幕府の裁定により、所領15万石のうち9万石を政長が、残り6万石を政利が継ぐようにと命じられた。
この9万石、6万石の分地により、この騒動は「九・六騒動」と呼ばれている。


 本堂横にある七重石塔は、高さ4.15m(鎌倉時代後期の作)です




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