神社の世紀

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長脛彦の兄【磐神社(岩手県奥州市衣川区)】

2011年06月29日 23時07分17秒 | 陸中の神がみ

  岩手県奥州市衣川区石神にある磐神社は、『延喜式』神名帳 陸奥国胆沢郡の筆頭社である。名前の通り、本殿はなく、代わりに拝殿背後の巨岩が神体として祀られている、── というようなことは、文献やネットを調べてあったから始めから承知して出かけていったのだが、それでも拝殿背後の磐座を最初に目にしたときは、思わず「おおっ」という声が出てしまった。神さびた巨岩の存在感に圧倒されたからである。全国的に見ても、これほど顕著な印象を与える磐座はそうないだろう。

磐神社

神体の巨岩

磐座の巨岩は東西10.2m、南北8.8m、高さ4.2mある
辺りは田が広がり、これ以外の岩の露頭は認めらない
  人為的に搬入されたものだろうか

山や岩石や樹木などを祭祀の対象としていた
神社ほんらいの姿を伝える神社だ

 ところで境内にあった看板には「当社のすぐ右前方には安倍館があり、安倍氏は当社を守護神(荒覇吐神)として尊崇し、磐井以南に威を振るう拠点をこの地に形成したと伝えられる。」とあった。

 安倍館は、俘囚長だった忠頼の代から、前九年の役で頼時・貞任の父子が滅ぼされるまでの八十余年間、奥州安倍氏の居館だったと伝わる。

 奥州阿倍氏は平安後期における陸奥・出羽の豪族で、北上川流域で栄えていた。その出自については、朝廷に従うようになった土着の蝦夷であるとか、中央の名族、阿倍氏が奥州に下った際に残した子孫であるとか言われるが、彼らの間に伝えられた伝承では「神武東征の際、滅ぼされた長脛彦の兄、安日(あび)が放逐されて津軽に入りその始祖となった。(「あべ」は「あび」の転訛)」と伝わっていた(『平泉雑記』が伝える安倍氏自身の家伝などに、この伝承が見られる。)。

 長脛彦は記紀に見える大和の土着勢力の首領で、東征する神武天皇に激しく抵抗して殺されている。しかし、記紀には彼の兄で安日などという人物の記事はなく、これはもちろん後世の創作である。しかし、そうだとしても、どうしてこんな突飛な伝承が生まれたのか、という疑問は残るだろう。

 これに対し太田亮は、平将門・藤原純友の後裔と称した武家が多数発生したのと同様に、奥州安倍氏が長脛彦の武勇を尊び、それにあやかろうとしたためだろうとしている。しかし、中央の名門貴族だった阿倍氏との同族関係を擬態するとかだったらまだ分かるが、奥州安倍氏がわざわざ自分たちの祖として創作した人物が、よりにもよって長脛彦の兄であったというのは腑に落ちない。そもそも、朝廷に対し融和的であった彼らが前九年の役で中央政府に背くきっかけとなったのは、頼時の息子の貞任の妻に、陸奥守だった源頼義の武将の妹を迎えようとしたところ、その武将が安倍氏が蝦夷の子孫であることを理由に断ったため、と伝承されているのだ。そんな彼らが大和朝廷から異族として蔑視されていた長脛彦の兄というポジションの人物を始祖にするとはとても思えない。ここにはたんなる絵空事に終わらない深刻なものが感じられる。

 ふと思うのは、磐神社から北西に1kmほど隔たった場所に松山寺という寺院があり、そこの山門の横に女石神社という小さな神社があって、社殿背後の女石という岩石を祀っている。磐神社と女石神社は夫婦神であり、前者が後者に通うという伝承があるのだが、こうした男神から女神のところへ通婚するという伝承は三輪山型の神婚説話を思わせる。

女石神社

女石

 

 例えば崇神記によれば、イクタマヨリビメのところに、比類ない姿かたちをした男が夜ごとに訪れ、やがて姫は妊娠する。怪しんだ父母が娘に、今度、男が訪ねてきたら、紡いだ麻糸を男の裾に刺しておけと教える。姫がその通りにすると、糸は戸の鉤穴を通り抜けて三輪山に至っており、男がこの山の神、オオモノヌシ神であったことが分かったという。あるいは崇神紀によれば、三輪山の神が夜な夜な妻のヤマトトトイモモソヒメのところに通ってくる。姫が夫の顔を見たいと言うと、承知したオオモノヌシ神は、自分は明朝、櫛笥の箱に入っているが、姿を見ても驚いてはいけない、と言い渡す。明朝、姫が箱の中に見たのは小蛇だった。彼女が驚き叫ぶと、オオモノヌシ神は恥じて人の姿になり、三輪山に帰還する。姫は悔いて座り込み、陰部を箸で撞いて死亡する。このほか、オオモノヌシ神が小川で用便中のセヤダタラヒメのところに丹塗矢となって流下し、神婚するという神武記の記事もある。  

雨上がりの三輪山

 オオモノヌシ神は大和の地主神である。その神がさまざまな女性の所に通婚した伝承が記紀にみられるのも、大和の土着勢力が祀っていた古い神々の生態を伝えるものだろう。奈良県磯城郡田原本町八田にある伊勢降神社の男神は、同天理市庵治町の伊勢降神社の女神の所に通ったという伝承がある。また、奈良県桜井市江包の素盞鳴神社と同市大西の市杵島神社はそれぞれ素盞鳴尊と稲田姫命の夫婦神を祀るが、両社では毎年二月十一日に「お綱はんの嫁入り」と称される祭礼が行われ、初瀬川をはさんで江包から雄綱(男綱)、大西から雌綱(女綱)を運び寄り、神前でそれぞれの大注連縄を結合させる。これらの伝承や祭礼は、神婚する大和の神々の古き生態を思わすものがある。

 神武天皇が大和に入った際、先住勢力としてそこにいたのは長脛彦たちだけではなかった。『古事記』によれば、天皇が熊野から吉野に入った際、岩を押し分けて出てきた尾のある人に出会った。彼はイワオシワクノコと名乗り、吉野のクズの祖神である。奈良県下には、盆地東部の山間部を中心に「クズ神社」という神社が多く分布しているが、これらはこのイワオシワクノコを祖神とする古代クズ族たちによって祀られたものだろう。

 クズ神社には雌雄あるものがある。桜井市倉橋の九頭竜神社と同市下の九頭神社は、前者に男神、後者に女神が祀られ、両社セットの夫婦神とされる。この2つの神社はともに社殿なく、樹木を神体に磐座があるが、夫婦神で岩石に対する信仰がみられることは、磐神社を思わせないではいられない。夫婦神のクズ神社の例としては他に、吉野町入野にある上宮神社と国樔神社などもある(ただし後者は廃社)。

桜井市下の九頭神社(女神)

社殿の施設はなく、背後の橿の木を神体に
その手前に鎮護石が置いてあるだけの神社である

倉橋の九頭竜神社(男神)の磐座

 このようにこれらの神社の事例からは、大和の土着勢力によって祀られていた神々には、雌雄あって通婚する習性のあったことが感じられる。磐神社の男神が女石神社の女神のところに通うという伝承を知ったときも、こうした大和の神社のことを想起した。

 あるいは、天皇家の祖先が大和に入った際、抵抗して放逐された先住者たちの中には本当に北上川流域まで落ち延びた者たちがいたのかもしれない。磐神社を最初に祀ったのは彼らであった。また彼らはその際、磐神社の男神が女石神社の女神のところに通婚するという信仰もまた大和から持ち込んだ。その後、当社近くに居館を構えることになった安倍氏は地主神として磐神社を祀り、この神社を最初に祀った者たちの伝承を自分たちの始祖伝承に取り入れた。安倍氏はその際、長脛彦の兄、安日なる人物を創作したが、その場合、磐神社を最初に祀った者たちの祖先が、本当に長脛彦の兄であったかどうかはあまり問題とならない。というのもこのケースにおいて長脛彦とは、「神武東征以前から大和にいた先住勢力」のアイコンにすぎないからだ。

 ほとんど『白鳥伝説』の世界だが、とにかくこうしたことで当社は興味の尽きない神社である。

 当社に訪れたのは9月の初旬だったが、岩手ではもう秋が完全に感じられた。神体の巨岩の存在感や、狛犬の可愛さなども印象に残っているが、何よりもみちのくで思いがけず懐かしい大和の神社を想起させる古社に出会えた嬉しい驚きが忘れられない。また、当社の近くで食べた郷土料理「ひっつみ」の味も忘れられない。

 

 


 

 

【磐神社】

岩手県奥州市衣川区石神99
Mapion

 

 『延喜式』神名帳 陸奥国胆沢郡の筆頭に登載ある小社、「磐神社」に比定される。読みは武田本に「いわの神社」とあり、地元の呼称も同じ。現祭神は伊邪那岐命。

 当社には本殿がなく、代わりに東西10.2m、南北8.8m、高さ4.2mの巨岩を神体として祀っている。拝殿はあるが、もともと当社は社殿を設けないならわしで、かつてはそれさえもなかった。今の拝殿は明治三十年頃、近郷の氏子の強い要望による寄付金で建てられたという。

 

神体の巨岩

磐神社拝殿

俺はこれまで見てきた狛犬の中では、ここのが一番

 

 神体は大きいだけでなく、いかにも長い風雪に耐えた感があり、神さびている。また、大きな機械を連想させるフォルムも非常に印象的。

 当社から1kmほど西北にかつて磐神社と習合関係にあったらしい松山寺という寺院があり、その山門のかたわらに女石神社という小社がある。社殿背後に岩石が祀られており、磐神社と女石神社は夫婦神で、前者の男神は後者の女神のところに通ったとされる。

 

松山寺

女石神社

女石

 

 磐神社の祭神は伊邪那岐命とされるが、これはもちろん創祀の頃からのものではない。女石神社の祭神と夫婦神ということで附会されたものだろう。他に石凝姥神という説もあるらしいが、これも社名に附会されたのだろう。物神としての石神がほんらいの祭神だったという見方もあるが、女石神社の女神のところに通ったとなると、ある程度、人格神化していたことになる。

 なお、磐神社にはかつて、安倍晋三総理大臣の名代で岸信夫氏が参拝に訪れたことがあるという。 

 

 

 



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30 コメント

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オオヒコについて (七美)
2013-04-09 00:42:34
お久しぶりです。
長脛彦とはオオヒコのことであると、出雲の旧家では伝わっています。中曽根彦という名であったそうです。
オオヒコは四道将軍と言われますが、実際は、九州から来た物部系王朝と闘って破れてヤマトから東遷したのだそうです。
時代が違うのは、万世一系を作り上げるために、オオヒコのエピソードを初代天皇の時代の話に作り替えたそうです。

確かにオオヒコの通った北陸~科野~関東~東北の
経路、特に科野の善光寺平には、オオヒコが亡くなった伝承地がある布制神社や、伊勢津彦命の伝承が残る風間神社や、三代実録に記されている飄別神(出雲にも同名の神祭祀が見られます)、タケミナカタの孫にあたる会津比売神社と、
天孫族に負けて去った人々の象徴的な神の祭祀
が見られます。オオヒコの裔である古族、福井の足羽氏、諏訪大社の祝家、タケミナカタの後裔に足羽氏(アスワ)と全く珍しい名前が阿部氏と諏訪氏に見られます。

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Reオオヒコについて (kokoro)
2013-04-09 22:42:50
 七美さん、お久しぶりです。

> 長脛彦とはオオヒコのことであると、出雲の旧家では伝わっています。中曽根彦という名であったそうです。

 エエーッ。!!( ̄□ ̄;)!!  

> オオヒコは四道将軍と言われますが、実際は、九州から来た物部系王朝と闘って破れてヤマトから東遷したのだそうです。

 ななななななななななななななな何と。そうだったのですね。古代世界のかなたに没した太陽が呼び戻されて、あたりの闇を照らし出したかのような感動をおぼえます。(T_T)

 って、言いたいところですけどね、オオヒコって稲荷山古墳から出土した鉄剣にも名前が彫ってありますよね。となると、四道将軍の1人であるオオヒコの伝承の元になったようなそれが、すでに5世紀にはあったことになります。出雲の旧家の伝承はそれよりも古いのでしょうか。
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Unknown (七美)
2013-04-10 02:03:07
kokoroさんこんばんは

私が旧家の旧杵築大社上官家、富さんから
聞いた限りでは、2世紀、3世紀の話なんかの世の中の
話を自信をもって話されていました。
出雲が攻撃された時の話などはかなり具体的で
感情がこもっていましした。まあロマンですね。
出版社を立ち上げられて伝承を本にされています。
http://www.d1.dion.ne.jp/~kunado/

(伊勢津彦についてはそんなに詳しくないです。出雲の
西の旧家の神門臣家に関わる事だからかと思います)
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大元出版 (kokoro)
2013-04-10 23:23:07
 七美さん、こんばんは。

 大元出版のご紹介ありがとうございます。こういう情報が一番、助かります。

 出雲西部はあまり伊勢津彦と関係がないのでしょうか。

 ちなみに、出雲の西にある石見国は尾張氏の同族が祀ったらしい式内社が多く鎮座し、また、石見国と比婆山地を挟んで背中合わせの備後には国史見在社の天照真良建雄神社が、またその隣の安芸には国内神名帳にいくつかの「あまてる神社」があります。

 比較的、伊勢や尾張というキーワードを見つけやすい国々の中で出雲西部だけはそうではないというのは面白い気がします。

 
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Unknown (七美)
2013-04-13 13:35:58
どうもこんにちは

石見国は元々物部氏が国造になる前は紀氏(尾張氏
とも近しい)が国造でしたので、地名や神社的には紀氏の色彩が強いと思います。出雲の小野氏の神社も。

伊勢津彦 という神名は、出雲から一番近くで見られるのは播磨でしょうか。
さて式内社の都牟自神社が2社、出雲郡にあります。
旅伏山の山頂と、仏経さんと旅伏山の真ん中あたりに。

旅伏山の都牟自神は、速都武自和氣命(風の神)
として祀られています。500Mほどの山で、階段が
多く疲れる山です。

漆沼郷の方の都牟自神社は、薦枕志都沼値命又の名天津枳佐可美高日子命で、元々仏経山に祀られていた曽枳能夜神社の伎比佐加美高日子命の事であると云われています。

斐川町史によると、地元では伎比佐加美高日子命とは
伊佐賀神社の阿保大神のことであると云われています。
播磨国風土記と繋がる阿保大神です。
伊佐賀神社の伊佐賀とは武蔵国造の系譜の伊佐我命
の事で、出雲弁では伊佐我は「いさわ」と読むそうです。
出雲国の延喜式の神社名の記載は、漢字の発音の訛をよみとれていない箇所がいくつかあるように思えます。
伊佐我命の系譜での別名は、櫛八玉命で、これは
同じく武蔵国造系譜に現れる櫛玉命~伊勢津彦命の別名であるという説もあるようです。(神門郡朝山郷
宇那手の火守神社、宇那手は武蔵国造の系譜に
名が見えます)
いずれにしても、興味深い連鎖が見られます。
旅伏山の都牟自神社には、神武天皇と天日鷲命
が合祀されていて、この二人に東国へ追いやられた
伊勢津彦命の伝承があったのか、未だ直接的に
それらしいものは見つけていません。
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いさわ神社 (kokoro)
2013-04-15 23:43:22
 七美さん、こんばんは。

 伊佐賀神社の阿保大神、いいところをついてきますね。おもわずグッときます。

 伊佐賀神社が「いさわ神社」ですか。出雲郡にはやはり式内社に「伊佐波神社」もあって、このほうは旅伏山の南麓にあるやはり式内社の、都我利神社に合祀されてしまったようです。とうがい伊佐波神社について、伊射波止美命を介して伊勢津彦に関係させる考証がありますけど、これまであまり気に留めないできました。しかし、出雲で伊勢津彦を探すなら仏経山から旅伏山にかけての山塊の、南麓が要チェックであることに気がつかされましたよ。驚きました。こんなつながりがあったのですね。

 個人的にはやはり出雲郡の式内社、意布伎神社のことが気になります。この神社も伊努神社に合祀されているようですが、後者もやはり旅伏山南麓にあるのでもともとの鎮座地は伊佐波神社とそんなに離れていなかった感じがします。祭神はウガヤフキアエズ尊だったそうですが、伊福部氏と関係のある神社だった可能性もありえましょう。その場合、伊勢とか尾張とか天照御魂神との回路がひらけそうです。

 出雲、行きたくなってしまいました。(-_-;)
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伊佐我と壱須何 (七美)
2013-04-16 01:08:30
どうもこんばんは
この出雲市から斐川の平野部は、
電動自転車の貸し出しが、出雲市駅であるのでこれを
利用して通い詰めていました。

意布伎神社はウガヤフキアエズと言うのは後世の付会
だと思います。伊福部氏と関係するという方が分かりやすいですね。
丹後の海部・尾張氏系の神社は、持田、売布、意布伎、籠神社とありますが、これらは出雲にも存在します。
籠神社は松江の真名井神社と摂社籠守神社。
出雲では尾張氏は、天津彦根命と子の天御陰命
の伝承に転訛しているように思います。その象徴が
松江の真名井社の天津彦根命の祭祀です。丹後には天御陰命を祀る弥加宜神社もあります。

出雲の天津彦根命の神社は、真名井社、飯石郡の波多神社。奥出雲に尾張氏の痕跡があるように思えています。

神名帳考証の伊佐波神の考証は、かなり的を得ている
と思っています。志摩国造も出雲臣ですので、故郷の
出雲に伊佐波神社や伊佐我神社があっても不思議ではないですね。度会氏はイザワトミを伊勢津彦と言っていますが、富家の伝承ではイザワトミは、富家の人、
伊勢津彦は神門臣家の人らしいので、しっくりこない
ところがあります。
都我利(つがり)神社と伊佐我神社(阿須伎神社合祀)
のペアは、出雲臣の系譜に出てきます。
さらに、河内に我をガと誤訓した式内 壱須何神社
(いすが)と式内利雁(とかり)神社(美具久留御魂神社
の摂社)が見えます。
出雲から河内へ伊佐我神→壱須何神と都我利神→利雁神と杵築大社→美具久留御魂神社が移動したと見ます。神社を対で見ると移動しているように見えるんですよ。なので河内に伊勢津彦命と縁があるのではいかと
思っていました。

出雲に行かれるのなら、一度お話してみたいですね。
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尾張氏 (kokoro)
2013-04-17 00:24:03
 石見の式内社で尾張氏系というと、田立建埋根命神社、迩幣姫神社などでしょうか。それにしても尾張氏の同族分布はすごいですね。物部氏に匹敵します。物部は複姓氏族が多いので、同族のなかで擬制的に血縁関係をつくって大所帯をまとめようとしていたことがわかりますけど、尾張氏はどうやってそれをやったのでしょうか。ホアカリ=天照御魂神という同じ太陽神を崇拝するということで、同族たちの間に宗教的な求心力をもたせていたのかもしれないですね。

 出雲や石見、行きたいのですけど仕事が…。(-_-;)七美さんはそちらの方面の方なのでしょうか。ブログを拝見しているとたしかに出雲を話題にすることが多かったですけど、いろいろな地域の(しばしば地元の人しか知らなそうなマイナーな)神社を紹介するので、正直に言ってまったく分かりませんでした。

 出雲に行くときは連絡します。(^^)
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冨永と長髄彦 (柴田晴廣)
2014-06-02 19:54:36
kokoroさん

 石座神社のコメントで『穂国幻史考』第二話について書きましたが、祖父の話では、冨永という苗字はそもそも「登美那賀須泥毘古」の「登美那賀」に由来するとのことです。
 『藤崎系図』の成立が永正3(1506)年、千若丸夭逝はその前年です。
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ナガスネヒコ (kokoro)
2014-06-02 23:07:50
 柴田さん、こんばんは。

 玉稿、確かに頂きました。謹んで拝読させていただきます。

 三河のナガスネヒコにはひかれるものがあります。とくに、三河の石座神社と陸奥の磐神社が両社ともナガスネヒコの伝承が関係し、かつ岩石を祀った神社となるとなおさらです。

 富永姓の多い豊川下流の集落というのは大伴神社の合祀された賀茂神社に近いあたりでしょうか。もしそうだとすれば、これもまた興味深いことになります。
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