神社の世紀

 神社空間のブログ

みちのくのエクスカリバー【尾崎神社(岩手県釜石市)】

2011年06月13日 01時01分29秒 | 陸中の神がみ

 小学生の高学年くらいの頃、テレビでこんなドキュメンタリー番組を見た。

 どこかの海岸沿いの神社が撮されている。もうどういう内容だったかなんて忘れてしまったが、その神社を撮してからカメラは、海の向こうにあるその奥の院らしき場所まででかけてゆく。「そこで取材班が見たものは、、、」のようなナレーションが入って映し出されたのは、アーサー王に引き抜かれる前のエクスカリバーのように、一本の古い鉄剣が石にブッ刺さっている様子である。それが当社のご神体なのだ。鉄剣は想像も付かないぐらい古そうで、表面は完全に錆びている。効果音とともにその剣がどアップになった決め絵の映像が、今でも脳裏に焼き付いて離れない。

 あの神社はどこの神社だったのだろうか?、── 神社マニアになってから、この疑問は私の中で日増しに大きくなっていった。いや、たんに場所が知りたいだけではない。現地を訪れて、あの鉄剣を実見したい。なぜだか非常に惹かれるものを感じる。

 ところがこの神社の情報がまったく入手できないのである。奥の院にあんなご神体が祀られているとなると、ネットで話題になりそうだが、そんな情報はまったく流通していない(そのことがかえってまた興味をそそる。)。だが、ついに数年前、岩手県釜石市にある尾崎神社を紹介した次のような『日本の神々』のテキストに出会ったのである。

「当社の奥の院は、釜石湾を形成する東南端の岬、尾崎半島の青出の高地にある。創祀の年代は不明。祭神は日本武尊で、昔から神殿はなく、瑞垣を巡らせたなかに、丈余の神矛を地上に立てたものを神体として祀っている。」

 読んですぐ、これがあのテレビ映像で見た奥の院であると直感した。なんとあの神社は東北地方の神社だったのだ。これには意表をつかれた。そしてそうなると、いてもたっても居られなくなって、9月にまとまった休暇がとれた機会に早速、出かけてみた。

 尾崎神社は現在、4社の神社から成り立っており、奥の院を含む3社は、上のテキストにある尾崎半島に鎮座し、同一の「尾崎神社」として宗教法人登録されている。ちなみに、残りの1社はその対岸の釜石市浜町に鎮座する尾崎神社で、これとは別に宗教法人登録されているが、信仰上の位置づけとして別の神社ではなく、尾崎半島にある同名社の里宮にあたる。

 尾崎半島はリアス式海岸どくとくの複雑な形をしているが、この半島の北東部からさらに細長い岬が約3km弱、海に向かって突き出ている。尾崎神社の奥の院はその先端ふきんに鎮座しているが、周囲の海岸は断崖になっており、船では上陸できそうもない。おそらくこういった参拝の不便さによるものだろう、奥の院から西へ2kmほど離れた青出し浜に後世、「奥宮」が設けられた。そこには小さいものの浜辺があり、船で参拝できるからである。しかしこの奥宮も人家から離れて不便だったため、さらに西へ2kmほど離れた尾崎白浜の漁村に「本宮」ができて、現在ではこれが(尾崎半島にある)尾崎神社の表の顔になっている。まず、この本宮を参拝する。

尾崎神社本宮
Mapion

社地から見下ろした尾崎白浜の漁港

 本宮は白浜漁港を見下ろす高台に鎮座しており、遠くからも社殿と鳥居が見えるものの、そこまで登ってゆく参道の入口は分りづらく、ウロウロと捜してしまう。やっと北側から進入する階段を見つけて参拝できたが、奥の院や奥宮と比較すると、風致はいささか凡庸であった。

 本宮を後にしてから海に沿って東に進み、青出し浜にある奥宮に向かう。車で行ける道はすぐに終わってしまい、そこからは延々と歩くことになる。ルートはそのうち海を離れ、山林の中に入ってゆくが、青出し浜まで行くには、山尾根を一つ越えなければならなかった。

 この道はいちおう、東北自然歩道として整備されているのだが、この奥宮に到るまでの道はかなり荒れていた。広い杉林のなかで道の痕跡が無くなり、今、歩いているのが道なのか、それとも植林された杉の列と列の間がたまたま道のように見えているだけなのか心細くなることもあった。このため、たまに思い出したように立っている東北自然歩道の看板が見つかるとホッとするのだが、しかしこの看板がまた別の意味で不安を煽るのである。というのも道中、熊の出没を警告する看板をよく見かけるのだが、この道で出会う東北自然歩道の看板はどれもこれも不自然にその一部が裂けているのだ。人間を憎む熊の仕業であったように思われる。

東北自然歩道、と言っても道なのかどうかよく分からん。

裂傷のある看板

 そんなこんなで、2kmほど歩いて奥宮に着いたときは嬉しかった。しかも途中の道が荒廃していたので、奥宮も荒れ果てていると思いきや、境内はわりと綺麗にしてあった。定期的に人の手が入っているらしい。日当たりの良い小さな谷に鎮座する社地は、小さいながらも箱庭のような別天地で、すこぶる居心地がよい。神社の境内をちょっと下ると小さな港があるので、当社に来る地元の方々は、私のように徒歩ではなく、船に乗って参拝するのだろう。

 

尾崎神社奥宮
Mapion

 

魚霊碑

神明造りの社殿

祭神の日本武尊にちなんだ鉄剣の奉納品

こうした鉄剣の模造品が奉納されているのは、
岩手県の神社でよく見かけるが、
さすがに当社はその数が多い。

奥宮の小さな港

 そこから奥の院までは歩いて、歩いて、歩いて、歩く。とにかくやたらに歩いた気がする。ついに奥の院に到達した。石柵でできた瑞垣の中には拝殿も何もなく、ただ石に古い鉄剣がブッ刺さったものだけが神体として祀られていた。明らかに子供の頃、テレビで見たあの場所だ。

 

尾崎神社奥の院の宝剣

 

 さっきも言ったように、この奥の院は尾崎半島の先端部に鎮座しているが、古代のわが国には、こうした半島や岬地形の先端に、海上から神が来臨するという形式の信仰があった。「岬」という語も、もともとは神が来臨することを憚って、先端の地形を示す「さき」に、美称の「み」をつけて生じたものという。

尾崎神社奥の院
Mapion

 

 

 尾崎神社の創祀年代は不詳だが、この奥の院がそういう古い信仰の遺跡であることは間違いない。現在、奥の院は海に向かって北東の方向を向いているが(NE50゜)、これは海からの来訪神を迎えるための装置だった痕跡だろう。
 ちなみに、東北地方の太平洋岸側には宮城郡七ヶ浜町の鼻節神社、宮城県気仙沼市の御崎神社、岩手県陸前高田市の黒崎神社など、同じような立地を示す古社が他にもいくつかある。いずれも海からの来訪神を祀ったものだろう。もっとも、奥の院があってそこに剣が祀られているという神社は当社だけであるが。

 『尾崎神社縁起』によると、尾崎半島は日本武尊が東征した折りの最終地点であり、この鉄剣はその足跡の標として尊が安置したものという。以来、尾崎神社は日本武尊を祭神とし、奥の院にあるこの宝剣を神体として祀ってきた。

 その後、文治五年(1189)に源頼朝によって閉伊郡の領主に任ぜられた源頼基は領民を慈しむと供に、当社を厚く崇敬していたが、死ぬ間際に「我れ東海の守護神とならむ、亡骸は尾崎の宝剣の傍らに葬れ」と遺言し、その通りに葬られた。そしてこうしたことから、当社には源頼基も祭神として合祀されるようになった。

 日本武尊にしても源頼基にしても、当地の出身者ではなく、もともと中央政界に関係していた人物で、それがみちのくまで流れてきたという経歴を持つ、典型的な貴種流離譚の主人公だ、── ここがミソである。というのも、そこに着目すれば、尾崎神社で彼らが信仰されるようになったのも、海からの来訪神という基層信仰に、「外部から来訪する」という共通項を介して、日本武尊や源頼基の信仰が後世になって重層されたため、と理解できるからだ。

  それにしても尾崎神社の奥の院で、錆びついた宝剣を見てつくづく実感したのは、金属のもつ暗さであった。

 金属には暗さがある。そういう暗さは、金属でできた旧式の道具とか、野ざらしになって放置されている古い機械だのに露呈する。そういえば、子供の頃、祖母が持っていた重くてデカい旧式な鋳鉄製のハサミがなぜか気になり、いじくり回していて、何度も叱られた。俺にはそういう暗さに惹かれるところがある。小学生のときにテレビで一度だけ見たこの宝剣のことをずっと覚えていて、今こうしてその前に立っているのも、そんな性向によるものだろう、── そんなことを悟った。また、それがきっかけとなり帰還してから「『宝剣小狐丸』と夜のほうに」を書いた(一気呵成に書いたものだから、今、読み返すとダラダラ長くて、死ぬほど生硬で読めたものではないが)。こうしてみると、この時の旅行は思わぬ自分捜しの旅だったことになる

 


 尾崎神社

 

 尾崎神社は海上安全の神として信仰を集める古社で、創祀年代は不詳だが、鎌倉期以前にはすでに尾崎半島先端部に鎮座する奥の院での祭祀がはじまっていたと思われる。創祀の頃は、海の神、岬の神としての信仰だったと思われるが、後世になってそうした基層信仰に、日本武尊や源頼基への信仰が重層されるようになったのは本文中で触れたとおり。

 奥の院には神体として鉄剣が祀られているが、ここは祭祀遺跡というより、墓所のような感じを受ける場所で、じっさいここは源頼基の廟所とされ、遺言により彼の亡骸が鉄剣の傍らに葬られているとされる。

 ただし、『岩手県神社名鑑』や現地にあった看板には、奥の院は源頼基の廟所とあったが、近世の諸記録などにみられる伝承を要約した『日本の神々』の記述は以下のようなものである。

(★源頼基は死ぬ間際になって遺言し、)「釜石尾崎は東南の磯において最も長く海中に突出した地であるゆえ、わが亡骸は藤衣の装束として棺に納め此処の水中に鎮め廟所となすべし」と言い、近臣は遺命によって水葬して海陸の守護神としたが、その後棺が敗れて遺骸は三分し、頭部は釜石尾崎に、脚部は閉伊崎に、胴部は気仙御崎に漂着したので里民はこれを厚く葬り、藤樹を植えて祀ったのが東奥の三崎の霊地であるという。また一説によれば頼基の水葬遺骸は山田町船越の田の浜に漂着し、これを葬ったとされる頼基の墓が同地の荒神社の小丘に現存し、海上安全の守護神としての信仰が今に続いている。そしてのちの正応二年(1289)神霊の託宣により、頼基の頭部を葬った白浜青出に一宮を建てて尾崎明神に合祀したと伝えるのが今の本宮である。『日本の神々12東北・北海道』p167」

 なお、当社の里宮である尾崎神社が釜石市浜町に鎮座している。これはもともと、尾崎神社の神輿渡海神事の御旅所として当時の釜石の豪商、佐野家の庭に設けられたもので、後に海岸に遷されてからは遙拝所、または御拝殿とよばれ、昭和になってから里宮に昇格した。その後、昭和八年に津波の被害で流出し、一時、高畑山に遷座していたが、同二十七年、現社地に鎮座したものである。 

尾崎神社(浜町)
岩手県釜石市浜町三丁目二三番二七
Mapion

祭神は日本武尊と綿津見社

拝殿の中にあった新日鐵釜石製鉄所が奉納した巨大な剣

 近世まで当社の例祭は修験別当の宰領により、毎年三月三日に神輿渡御の神儀を行ない、本宮から青出崎の奥の院に神幸していた。また、九月二十八日には、本宮から浜町の本社まで神輿渡御の神事が行われている。

 

 

 



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