神社の世紀

 神社空間のブログ

長脛彦の兄【磐神社(岩手県奥州市衣川区)】

2011年06月29日 23時07分17秒 | 陸中の神がみ

  岩手県奥州市衣川区石神にある磐神社は、『延喜式』神名帳 陸奥国胆沢郡の筆頭社である。名前の通り、本殿はなく、代わりに拝殿背後の巨岩が神体として祀られている、── というようなことは、文献やネットを調べてあったから始めから承知して出かけていったのだが、それでも拝殿背後の磐座を最初に目にしたときは、思わず「おおっ」という声が出てしまった。神さびた巨岩の存在感に圧倒されたからである。全国的に見ても、これほど顕著な印象を与える磐座はそうないだろう。

磐神社

神体の巨岩

磐座の巨岩は東西10.2m、南北8.8m、高さ4.2mある
辺りは田が広がり、これ以外の岩の露頭は認めらない
  人為的に搬入されたものだろうか

山や岩石や樹木などを祭祀の対象としていた
神社ほんらいの姿を伝える神社だ

 ところで境内にあった看板には「当社のすぐ右前方には安倍館があり、安倍氏は当社を守護神(荒覇吐神)として尊崇し、磐井以南に威を振るう拠点をこの地に形成したと伝えられる。」とあった。

 安倍館は、俘囚長だった忠頼の代から、前九年の役で頼時・貞任の父子が滅ぼされるまでの八十余年間、奥州安倍氏の居館だったと伝わる。

 奥州阿倍氏は平安後期における陸奥・出羽の豪族で、北上川流域で栄えていた。その出自については、朝廷に従うようになった土着の蝦夷であるとか、中央の名族、阿倍氏が奥州に下った際に残した子孫であるとか言われるが、彼らの間に伝えられた伝承では「神武東征の際、滅ぼされた長脛彦の兄、安日(あび)が放逐されて津軽に入りその始祖となった。(「あべ」は「あび」の転訛)」と伝わっていた(『平泉雑記』が伝える安倍氏自身の家伝などに、この伝承が見られる。)。

 長脛彦は記紀に見える大和の土着勢力の首領で、東征する神武天皇に激しく抵抗して殺されている。しかし、記紀には彼の兄で安日などという人物の記事はなく、これはもちろん後世の創作である。しかし、そうだとしても、どうしてこんな突飛な伝承が生まれたのか、という疑問は残るだろう。

 これに対し太田亮は、平将門・藤原純友の後裔と称した武家が多数発生したのと同様に、奥州安倍氏が長脛彦の武勇を尊び、それにあやかろうとしたためだろうとしている。しかし、中央の名門貴族だった阿倍氏との同族関係を擬態するとかだったらまだ分かるが、奥州安倍氏がわざわざ自分たちの祖として創作した人物が、よりにもよって長脛彦の兄であったというのは腑に落ちない。そもそも、朝廷に対し融和的であった彼らが前九年の役で中央政府に背くきっかけとなったのは、頼時の息子の貞任の妻に、陸奥守だった源頼義の武将の妹を迎えようとしたところ、その武将が安倍氏が蝦夷の子孫であることを理由に断ったため、と伝承されているのだ。そんな彼らが大和朝廷から異族として蔑視されていた長脛彦の兄というポジションの人物を始祖にするとはとても思えない。ここにはたんなる絵空事に終わらない深刻なものが感じられる。

 ふと思うのは、磐神社から北西に1kmほど隔たった場所に松山寺という寺院があり、そこの山門の横に女石神社という小さな神社があって、社殿背後の女石という岩石を祀っている。磐神社と女石神社は夫婦神であり、前者が後者に通うという伝承があるのだが、こうした男神から女神のところへ通婚するという伝承は三輪山型の神婚説話を思わせる。

女石神社

女石

 

 例えば崇神記によれば、イクタマヨリビメのところに、比類ない姿かたちをした男が夜ごとに訪れ、やがて姫は妊娠する。怪しんだ父母が娘に、今度、男が訪ねてきたら、紡いだ麻糸を男の裾に刺しておけと教える。姫がその通りにすると、糸は戸の鉤穴を通り抜けて三輪山に至っており、男がこの山の神、オオモノヌシ神であったことが分かったという。あるいは崇神紀によれば、三輪山の神が夜な夜な妻のヤマトトトイモモソヒメのところに通ってくる。姫が夫の顔を見たいと言うと、承知したオオモノヌシ神は、自分は明朝、櫛笥の箱に入っているが、姿を見ても驚いてはいけない、と言い渡す。明朝、姫が箱の中に見たのは小蛇だった。彼女が驚き叫ぶと、オオモノヌシ神は恥じて人の姿になり、三輪山に帰還する。姫は悔いて座り込み、陰部を箸で撞いて死亡する。このほか、オオモノヌシ神が小川で用便中のセヤダタラヒメのところに丹塗矢となって流下し、神婚するという神武記の記事もある。  

雨上がりの三輪山

 オオモノヌシ神は大和の地主神である。その神がさまざまな女性の所に通婚した伝承が記紀にみられるのも、大和の土着勢力が祀っていた古い神々の生態を伝えるものだろう。奈良県磯城郡田原本町八田にある伊勢降神社の男神は、同天理市庵治町の伊勢降神社の女神の所に通ったという伝承がある。また、奈良県桜井市江包の素盞鳴神社と同市大西の市杵島神社はそれぞれ素盞鳴尊と稲田姫命の夫婦神を祀るが、両社では毎年二月十一日に「お綱はんの嫁入り」と称される祭礼が行われ、初瀬川をはさんで江包から雄綱(男綱)、大西から雌綱(女綱)を運び寄り、神前でそれぞれの大注連縄を結合させる。これらの伝承や祭礼は、神婚する大和の神々の古き生態を思わすものがある。

 神武天皇が大和に入った際、先住勢力としてそこにいたのは長脛彦たちだけではなかった。『古事記』によれば、天皇が熊野から吉野に入った際、岩を押し分けて出てきた尾のある人に出会った。彼はイワオシワクノコと名乗り、吉野のクズの祖神である。奈良県下には、盆地東部の山間部を中心に「クズ神社」という神社が多く分布しているが、これらはこのイワオシワクノコを祖神とする古代クズ族たちによって祀られたものだろう。

 クズ神社には雌雄あるものがある。桜井市倉橋の九頭竜神社と同市下の九頭神社は、前者に男神、後者に女神が祀られ、両社セットの夫婦神とされる。この2つの神社はともに社殿なく、樹木を神体に磐座があるが、夫婦神で岩石に対する信仰がみられることは、磐神社を思わせないではいられない。夫婦神のクズ神社の例としては他に、吉野町入野にある上宮神社と国樔神社などもある(ただし後者は廃社)。

桜井市下の九頭神社(女神)

社殿の施設はなく、背後の橿の木を神体に
その手前に鎮護石が置いてあるだけの神社である

倉橋の九頭竜神社(男神)の磐座

 このようにこれらの神社の事例からは、大和の土着勢力によって祀られていた神々には、雌雄あって通婚する習性のあったことが感じられる。磐神社の男神が女石神社の女神のところに通うという伝承を知ったときも、こうした大和の神社のことを想起した。

 あるいは、天皇家の祖先が大和に入った際、抵抗して放逐された先住者たちの中には本当に北上川流域まで落ち延びた者たちがいたのかもしれない。磐神社を最初に祀ったのは彼らであった。また彼らはその際、磐神社の男神が女石神社の女神のところに通婚するという信仰もまた大和から持ち込んだ。その後、当社近くに居館を構えることになった安倍氏は地主神として磐神社を祀り、この神社を最初に祀った者たちの伝承を自分たちの始祖伝承に取り入れた。安倍氏はその際、長脛彦の兄、安日なる人物を創作したが、その場合、磐神社を最初に祀った者たちの祖先が、本当に長脛彦の兄であったかどうかはあまり問題とならない。というのもこのケースにおいて長脛彦とは、「神武東征以前から大和にいた先住勢力」のアイコンにすぎないからだ。

 ほとんど『白鳥伝説』の世界だが、とにかくこうしたことで当社は興味の尽きない神社である。

 当社に訪れたのは9月の初旬だったが、岩手ではもう秋が完全に感じられた。神体の巨岩の存在感や、狛犬の可愛さなども印象に残っているが、何よりもみちのくで思いがけず懐かしい大和の神社を想起させる古社に出会えた嬉しい驚きが忘れられない。また、当社の近くで食べた郷土料理「ひっつみ」の味も忘れられない。

 

 


 

 

【磐神社】

岩手県奥州市衣川区石神99
Mapion

 

 『延喜式』神名帳 陸奥国胆沢郡の筆頭に登載ある小社、「磐神社」に比定される。読みは武田本に「いわの神社」とあり、地元の呼称も同じ。現祭神は伊邪那岐命。

 当社には本殿がなく、代わりに東西10.2m、南北8.8m、高さ4.2mの巨岩を神体として祀っている。拝殿はあるが、もともと当社は社殿を設けないならわしで、かつてはそれさえもなかった。今の拝殿は明治三十年頃、近郷の氏子の強い要望による寄付金で建てられたという。

 

神体の巨岩

磐神社拝殿

俺はこれまで見てきた狛犬の中では、ここのが一番

 

 神体は大きいだけでなく、いかにも長い風雪に耐えた感があり、神さびている。また、大きな機械を連想させるフォルムも非常に印象的。

 当社から1kmほど西北にかつて磐神社と習合関係にあったらしい松山寺という寺院があり、その山門のかたわらに女石神社という小社がある。社殿背後に岩石が祀られており、磐神社と女石神社は夫婦神で、前者の男神は後者の女神のところに通ったとされる。

 

松山寺

女石神社

女石

 

 磐神社の祭神は伊邪那岐命とされるが、これはもちろん創祀の頃からのものではない。女石神社の祭神と夫婦神ということで附会されたものだろう。他に石凝姥神という説もあるらしいが、これも社名に附会されたのだろう。物神としての石神がほんらいの祭神だったという見方もあるが、女石神社の女神のところに通ったとなると、ある程度、人格神化していたことになる。

 なお、磐神社にはかつて、安倍晋三総理大臣の名代で岸信夫氏が参拝に訪れたことがあるという。 

 

 

 



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30 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (kokoro)
2014-08-11 21:00:47
柴田さん、こんばんは。

>こちらがメールで連絡したというのではなく、先方がです。

 いや、その辺は了解していました。私の書き方が良くなかったようです。

> 電話でもメールでもそうですが、送信できるものは情報という無体物であり、製品あるいは不良品という有体物は電信では送信できません。取引先の担当者はそれがまったくわかってなく、メールで報告すれば全て終わったと勘違いし、返品という作業を忘れていたということです。

 それはちょっとその担当者に問題がありますね。まず、電話で一報を入れてから、上司と一緒に謝罪に来るとか、何か誠意を示すべきですよね。

>そのときわかったのが、最初の1万字程度までしか検索でヒットしないということです。

 この辺りのお話はとても面白いです。今後の参考にさせていただきたいですね。

七美さん、こんばんは。

>どうも今晩は。1週間旅をしていたものでえらく日焼けをしてしまいました。

 1週間も旅を!、お目当ては神社でしょうか。また、その成果をブログで拝見したいです。

>kokoroさんのブログの範囲を超えてしまって

 あ、そんなことは気にしないで良いですよ。七美さんの書き込みはいつでも大歓迎です。
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戦国に置き換えれば (柴田晴廣)
2014-08-08 22:46:15
七美さん
 先に書いたように、嫡流は追放されるはずです。
 のみならず、裏切り者以外はすべて追放されます。
 そもそも上官家になるという時点で嫡流じゃないということです。こうした点を考慮すれば、わざわざ富さんに聞くまでのことはないですし、聞いたとしても、すっとぼけた答しか返ってこないでしょうし、富さんも気分を害すでしょう。
 大体、富さんは中世から近世にかけての所蔵した文書を島根県に売り払ってますよね。
 逆に中世以前のもので学術的に価値がある古文書があれば、島根県が買取の申し出をしているでしょうし、仮にそうしたものがあれば、文化財に指定されているでしょう。
 つまり富家には、中世以前の学術的に価値のあるような文献というものは存在しないとうことです。
 現時点でいえることは、和田喜八郎と同様で、口碑以外のものが出てくれば、ともかく、そうでなければ東日流の原本と同様、富家にはそんなものは存在しないというのが私の見解です。
 一言でいえば、大元出版と和田氏の一連の東日流文書と同類のものというのが私の判断です。
返信する
Unknown (七美)
2014-08-08 22:25:58
柴田様
kokoro様

どうも今晩は。1週間旅をしていたものでえらく日焼け
をしてしまいました。

kokoroさんのブログの範囲を超えてしまって
すいません。返信はこれぐらいにいたします。

柴田様のコメントありがとうございます。勉強になります。

吉田大洋氏の著作は、富當雄氏の意図した事が書かれていなかったと、當雄氏の息子さんは仰っていましたが、、、一子相伝については富さんに聞かれたら如何でしょう。

母系に関しては、出雲の王家は母系が主であったことはお聞きしています。八束水臣津野命も、神門臣家に婿になったとお聞きました。出雲の最高神は幸姫(野城大神)とのこと。

長孝氏に関して、平岡家出身の人で室町時代の人ですね。

北島国造家文書に、富家(向家)すなわち、向上官職に関して、穂日命ではない由緒の記述があって興味深いです。

返信する
中世日本紀 (柴田晴廣)
2014-08-08 17:29:52
七美さん

 北島長孝を祖とする富家ならともかく、そうでないとなると、和田喜八郎と似た匂いになってきます。
 ただ、和田喜八郎についても、所蔵していた文書群は偽書だと簡単に片付けるのではなく、私は近代ないし現代における「中世日本紀」問題だと考えていますし、そのように捉えるべきだと思っております。
 もっとも、富當雄氏が北島の分家筋だとしても、近代ないし現代における「中世日本紀」の問題として考えるべきことに変わりはありませんが

 確か富當雄氏は、男系の一子相伝でといったことを述べていたと思いますが、こういった発想自体、中国発祥の儒学の影響を受けたものです。万世一系などというものも、この儒学の影響からのものです。
 記紀から300年近く経って書かれた『源氏物語』でさえ、妻問婚という母系の習俗が色濃く残っています。江戸時代の商家などでも、優秀な奉公人を婿に迎えています。これも背景には母系ということがあります。また相撲部屋では女児が生れれば赤飯を炊くといわれ、現在でも名門といわれる相撲部屋の多くが、「おかみさん」と呼ばれる主人の座を母から娘へと相続しています。
 つまり日本列島の元来の相続の形態は母系に基づくものであり、土着というからには、男系の一子相伝というのは、首を傾げざるを得ません。
 一子相伝ということ自体が、記紀という壁を越えることができないのです。
 ただ上述のように私が「中世日本紀」の問題とするのは、記紀以降に淵源を持つものでも、記紀以前の事柄が投影されていることはあり、それを取捨選択し、記紀以前の事柄が投影されているものについては、男系といった表層を取り去ることにより、本来の姿が見えてくるのではないかということです。
 残念ながら富當雄氏には、自身の伝承を「中世日本紀」の問題として捉えるべきといった意識はなかったようですし、そのお孫さんの経営している大元出版も面白そうな本は出してますが、「中世日本紀」の問題として捉えて編集しているようには思えません。
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Unknown (七美)
2014-08-08 10:03:05
柴田様

>>富家っていうのは、南北朝時代に北島から分家した家のことですよね?

これは、北島家側の人間が富家に婿に来た事が北島側の文書に残っているというもので、富家が北島の分家などではありません。

富家は大元出版という出版社を立ち上げていて、富家の文書も本の中で紹介しています。

出雲と蘇我王国(大社と向家文書)
斎の神と竜(富家や神門臣家など土着系の出雲族の信仰)
出雲と大和のあけぼの

http://www.d1.dion.ne.jp/~kunado/(大元出版)
吉田大洋氏の著書でインタビューした富當雄氏の
次の代の方が経営されている出版社です。


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Unknown (柴田晴廣)
2014-08-08 05:41:05
kokoroさん
 こちらがメールで連絡したというのではなく、先方がです。
 電話でもメールでもそうですが、送信できるものは情報という無体物であり、製品あるいは不良品という有体物は電信では送信できません。取引先の担当者はそれがまったくわかってなく、メールで報告すれば全て終わったと勘違いし、返品という作業を忘れていたということです。
 明治時代の例を出したのも、まったく同様で、電信では、モノは送れないというあたりまえのことが、明治時代も現代も麻痺しているということがいいたかったわけです。
 検索機能について、補足すれば、私がインターネット上で『穂国幻史考』を公開していたときは、単頁で公開していました。あれも一つの実験だったのですが、そのときわかったのが、最初の1万字程度までしか検索でヒットしないということです。1万字を過ぎると、検索はまともに機能せず、それ以降にどれだけ繰返して同じ言葉が出てきても、検索には引っかからないということです。
 ブログに字数制限があるのも、おそらくこの検索機能に関係していると思います。そして現在、主流はブログからさらに短文のツイッター等に移行しています。そうしたことを考えると、検索機能もそうした主流の短文のものに対応していき、こうした長文のものは検索からはじかれるようになるのではということが前回のコメントの趣旨です。
 うまく伝わらなかったようですから、改めて書かせていただきました。
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Unknown (kokoro)
2014-08-08 05:15:58
 柴田さん、こんばんは。お返事、遅くなって申し訳ないです。

 前後の状況が分からないのですが、不良品を納品したことがわかったら、まず、先方にそのことを連絡することが先で、良品を発送するのはその後でもかまわないと思います。ただ、まず一報が電話でなくてメールというのはまずかったかもしれないですね。(当たり前の議論すぎますか?)

 検索機能はそれじたいには責任がないのでしょうが、自社の商品を検索に引っかかりやすくするためにどこも必死なので、そういう努力をしない地味でマニアックなサイトは検索結果の順位が低くなるのでしょうか。ただし、私がブログで扱うような神社は、観光地としてマイナーなものが多いですし、商業化とは無縁なものが多いのでそうした問題はあまり気になりません。

 ただ、このブログは主として、特定の神社そのものではなくて、特定の神社と他の何かのつながりを扱っています。たとえば、A神社とB神社であるとか。これに対し、普通の場合、人が神社について検索をかける時は「A神社」でかけることが多いと思うので、その点、ちょっと不利ですね。

 ネットユーザーには「つながる」という言葉が好きな人がいますけど、「つながり」を検索しようという発想の人はあまりいないのではないですか。そういえば昔、村上龍に『ライン』という小説がありました。まだスマホなどなかった時代の小説ですけどちょっと予見的な内容だったな、と最近、フト思いました。

 神社という制度は、グローバル化とネットのによる情報の拡散で今世紀になってから大きく変動するのではないかと思っています(それが良いのか悪いのかは別として)。今後、それをできるだけ見届けてゆきたいと考えますが、そういうこともあって神社の言説をネットで発信することにこだわりがあります。
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磐神社の話からは外れてしまいますが (柴田晴廣)
2014-08-05 07:52:40
kokoroさん
 私が「インターネットの普及で本当に便利になったか」のタイトルでブログを立ち上げた1つの理由は、取引先が何でもメールで済まそうとすることを疑問に思ったからです。
 言うまでもないことですが、メールで送信できるのは、情報という無体物だけです。
 不良品が発生したという情報は発信できても、不良品を返品して、良品に加工しなおして、それをメールだけでできるわけではありません。
 明治時代に電信線が架設されたときに、電信柱によじ登って、風呂敷包みや鞄を電信線に縛り付けて送ろうとしたという話があります。
 私は取引先からのメールを見て思ったのが、昔も今も変わらない。電信線が普及し始めたときに風呂敷包みを縛り付けたのと同じことが不良品が出ましたという情報だけで、返品を忘れていると。
 出前専門の飲食店が、ネットショップを開設しても、ほとんど意味がありません。
 検索機能っていうのが、それなりに向上していれば、「マニアックな内容のブログでもそれなりの読者を得られる」と思いますが、どうも検索機能っていのが商業ベースに流されてきているように思います。
 そのあたりどうでしょうか?
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Unknown (kokoro)
2014-08-05 00:13:45
柴田さん、こんばんは。

>いずれにしても、インターネット上での公表っていうのは、やはり反応という点で限界があります。
>私もこのディープなkokoroさんのブログは偶然検索で見つけたわけですし、ディープな話って言うのは、インターネットという媒体にはあまりむいていないように思います。

 色々、気にかけていただいてありがとうございます。確かにこのディープでマニアックなブログが、内容的にインターネット媒体には向いていない面があるのは否定できないですね。

 さて、グローバル化への反動としてのナショナリズムの噴出が当たり前のように目にされるようになってからもう10数年がたつでしょうか。しかし、そうはいっても今後、これまで以上に人や資本が国境をこえて流通するようになるのは目に見えていますし、そうなったら歴史も、「国史」という大きな物語は説得力を失って、よりローカルに多元化する予感がします。

 その場合、ナショナリズムとは別の反動として、そういった多元化を引き受けた地域の歴史が、今までにない強い説得力をもつようになるのではないか、そしてそうなると古い歴史をもつ地域の神社や伝承に対しても新しい興味がでてくるのではないか、そしてそのようなグローバル化への反動として新しく浮上してくる地域の歴史への共感が追い風となって、多少(どころではないかも知れませんが)マニアックな内容のブログでもそれなりの読者を得られるのではないか、というかそのような共感はむしろインターネットの中からこそ新しく生じるのではないか、そんなことを漠然と考えつつ、このブログを続けてきた気がします。一種の実験です。10年くらい続けてうまくいかなければ、(紙媒体も試すなり)また別の方法も検討しますよ。
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丹波が出雲 (柴田晴廣)
2014-08-02 13:35:40
七美さん

 私は逆に、出雲に残っているのは傍流と考えています。
 簡単にいえば、嫡流を裏切った、ヤマトに寝返ったって連中が出雲国造家ってことです。
 丹後一宮の海部家なんていうのも私は同様に考えています。
 質問ですが、富家っていうのは、南北朝時代に北島から分家した家のことですよね?
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丹波の出雲 (七美)
2014-08-02 00:06:37
柴田様

柴田さんの本は、豊橋精文館書店で購入しました。
出雲臣の臣の、原義は「御身」であったそうです。
柴田様が指摘されるように野見宿禰は、出雲臣/富家の本筋、当主であったそうです。崇神、垂仁の物部系王朝に降伏した最後の大名持/ヤマザキタラシの子孫だとか。土着の出雲族への差別をかわすために、野見宿禰の一族の末裔は穂日命の子孫と偽ったり(新撰姓氏録)、天津彦根命の一族に婿入りして出自を隠したそうです。

丹波ですか、由良川を上流までさかのぼると丹波の桑田郡になりますが、由良川沿いと桑田郡には出雲国の式内社・古社とほぼ同音あるいは同名のそれが並んでいますね。
タキ、イズモ、サタ、アススキ、オタギ、イヤ、オオハラ(美山町) 。
出雲国のように出雲臣や神門臣、勝部臣といった、土着の出雲族の旧家が、丹波に残っているのかと言われると弱い気がします。
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補足です (柴田晴廣)
2014-08-01 20:48:50
kokoroさん
 補足です。
 私は、インターネットに『穂国幻史考』をUPする以前に、地元の東愛知新聞や東日新聞に地元の歴史についていろいろと投稿していました。
 そのときの方が、インターネット上で『穂国幻史考』を公開したときより、遥かに有用な情報が寄せられました。
 私はいっとき『インターネットの普及で本当に便利になったか』とのタイトルでブログをやっていたことがありますが、インターネットの利用者っていうのは、あまり深いことを考えていない者が多いとブログを通じて理解できました。
 そんなことから、『穂国幻史考』を紙媒体にし、インターネット上では、詳細なことを発信しなくなりました。
 私もこのディープなkokoroさんのブログは偶然検索で見つけたわけですし、ディープな話って言うのは、インターネットという媒体にはあまりむいていないように思います。
返信する
こちらこそよろしく (柴田晴廣)
2014-08-01 20:28:41
kokoroさん
 『穂国幻史考』、インターネット上でUPしていた時点では、こちらからの情報の発信だけで、有用な情報が集まることはありませんでした。
 インターネット上で公開していた『穂国幻史考』は、書きっぱなしということもあると思いますが
 書籍にした『穂国幻史考』は、インターネット上で公開していたものにかなり手を入れています。自分では別物との認識です。
 しかしインターネット上ではタダで公開していたわけで、750Pという印刷代だけでもかかるということで、4,500円の値段をつけた『穂国幻史考』ですが、自費出版で宣伝もしていないにもかかわらず250部以上は売れておりますし、インターネット上で公開していたときより、遥かに有用な情報が入ってきます。
 とともに、地元の祭礼についてもっと詳しくという要望もあり、『牛久保の若葉祭』(http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/newpage8.htm)、『牛窪考』(http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/newpage9.html)、同補遺(http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/newpage6.html)をまとめるはめになったわけですが、これをまとめているうちに意外なことがわかってきたというか、『穂国幻史考』の補足ができてきたように思えるようになりました。
 いずれにしても、インターネット上での公表っていうのは、やはり反応という点で限界があります。
 kokoroさんも是非、紙媒体あるいは最近言うところの電子出版という形で公表した方がよいと思いますし、私もそれを望んでいます。
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申し訳こざいません (kokoro)
2014-08-01 19:22:55
 七美さま、お久しぶりです。お返事が遅くなり申し訳こざいませんでした(2週間ほど研修で缶詰になっていました)。

 刺田比古神社の話、とても惹かれるものがあります。が、実にいろいろな情報源をおもちの様子なので、むしろそちらのほうがうらやましいです。

 また遊びに行かしてください。

柴田さん、こんばんは。

 柴田さんとご著書のことは高名なのですね。色々、考えさせられます。これからもよろしく。



 
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はじめまして (柴田晴廣)
2014-07-28 06:51:07
七美さん

 拙著購入していただきありがとうございます。
 私は記紀の崇神―垂仁に出てくる出雲というのは、出雲大神宮がある丹波を中心とした地域と考えています。
 そして出雲の臣の本筋っていうのは野見宿禰だろうと。
 「奴の」を韓国・朝鮮語にすると「nom-wi」になります。おそらく野見にはそうした貶めた意味が含められているのではないかと思います。
返信する
Unknown (七美)
2014-07-23 21:37:54
kokoroさん お久しぶりです。
柴田様はじめまして。

ナガスネヒコに関して大伴氏に関連する情報です。
甲斐浅間神社神主家、大伴直の古屋家家譜に、刺田比古命という名前があります。
紀伊国名草郡の刺田比古神社と注意書きがあります。

実際、刺田比古神社という大伴氏が神主を勤める神社が和歌山市にあります。

宮司の岡本氏の伝承では、この刺田比古がナガスネヒコ
と伺いました。

柴田さんの本は以前購入させていただきました。
私の会社の仲のいい同僚に三河富永氏
の一族がいるので、その興味で購入しました。

草砥鹿さんにお会いした時も、柴田さんの事を間接的にお聞きしております。

杵築大社筆頭上官家であった富家の話では、
大伴氏は、神門臣家の出身で、地祇系出雲族
だそうです。杵築大社の中官家の富永家は、
富家の親族で、国造家の目の上のたんこぶで
あったそうです。
返信する
与太話になりますが (柴田晴廣)
2014-06-03 23:00:50
kokoroさん
 渥美郡といってもとよがわを隔てて対岸は寶飯郡になる旧吉田宿。
 三河路に春を呼ぶといわれる国指定重要無形民俗文化財の「豊橋の鬼祭り」。このまつりの赤鬼の担当町内は中世古(なかぜこ)。ここなんかも「那賀須泥」に近い音といえば音です。
 もっとも元々は天狗役の飽海が天狗のみならず赤鬼を含めたすべての役を一町内でやっていたそうですが
返信する
長脛ヒコ (kokoro)
2014-06-03 22:35:23
 柴田さん、こんばんは。

 「ながせ」がもともと「ながすね」だったとすれば、自然な音転ではないですか。

 それにしても、ナガスネヒコの子孫という伝承は独特の陰影があって惹かれます。

 
返信する
補足 (柴田晴廣)
2014-06-03 06:47:46
kokoroさん
 上記のように千若丸夭逝が1505年のこと、「冨永」氏が長瀬に落ち延びるのもそのころになります。
 明応の地震(1498年)で豊川は現在の流路になるわけで、長瀬という地名もそれに伴う地形地名と思いますが、なんとなく「那賀須泥」を連想させる地名ですよね(笑)
返信する
旧八名郡ではなく旧寶飯郡です。 (柴田晴廣)
2014-06-02 23:55:27
 『国内神名帳』の八名坐・大伴明神の世襲神主だった家は本姓大伴で加藤を名乗っています。タレントの芳村真理さんの旦那さんが、確か大伴神社の神主家だったはずです。
 母の実家は左岸の旧八名郡ではなく、右岸の旧寶飯郡(私の家から3キロほど南)、現山分親方の元東前頭筆頭の武雄山関(本名 富永丈喜)が地類になります。
返信する
ナガスネヒコ (kokoro)
2014-06-02 23:07:50
 柴田さん、こんばんは。

 玉稿、確かに頂きました。謹んで拝読させていただきます。

 三河のナガスネヒコにはひかれるものがあります。とくに、三河の石座神社と陸奥の磐神社が両社ともナガスネヒコの伝承が関係し、かつ岩石を祀った神社となるとなおさらです。

 富永姓の多い豊川下流の集落というのは大伴神社の合祀された賀茂神社に近いあたりでしょうか。もしそうだとすれば、これもまた興味深いことになります。
返信する
冨永と長髄彦 (柴田晴廣)
2014-06-02 19:54:36
kokoroさん

 石座神社のコメントで『穂国幻史考』第二話について書きましたが、祖父の話では、冨永という苗字はそもそも「登美那賀須泥毘古」の「登美那賀」に由来するとのことです。
 『藤崎系図』の成立が永正3(1506)年、千若丸夭逝はその前年です。
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尾張氏 (kokoro)
2013-04-17 00:24:03
 石見の式内社で尾張氏系というと、田立建埋根命神社、迩幣姫神社などでしょうか。それにしても尾張氏の同族分布はすごいですね。物部氏に匹敵します。物部は複姓氏族が多いので、同族のなかで擬制的に血縁関係をつくって大所帯をまとめようとしていたことがわかりますけど、尾張氏はどうやってそれをやったのでしょうか。ホアカリ=天照御魂神という同じ太陽神を崇拝するということで、同族たちの間に宗教的な求心力をもたせていたのかもしれないですね。

 出雲や石見、行きたいのですけど仕事が…。(-_-;)七美さんはそちらの方面の方なのでしょうか。ブログを拝見しているとたしかに出雲を話題にすることが多かったですけど、いろいろな地域の(しばしば地元の人しか知らなそうなマイナーな)神社を紹介するので、正直に言ってまったく分かりませんでした。

 出雲に行くときは連絡します。(^^)
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伊佐我と壱須何 (七美)
2013-04-16 01:08:30
どうもこんばんは
この出雲市から斐川の平野部は、
電動自転車の貸し出しが、出雲市駅であるのでこれを
利用して通い詰めていました。

意布伎神社はウガヤフキアエズと言うのは後世の付会
だと思います。伊福部氏と関係するという方が分かりやすいですね。
丹後の海部・尾張氏系の神社は、持田、売布、意布伎、籠神社とありますが、これらは出雲にも存在します。
籠神社は松江の真名井神社と摂社籠守神社。
出雲では尾張氏は、天津彦根命と子の天御陰命
の伝承に転訛しているように思います。その象徴が
松江の真名井社の天津彦根命の祭祀です。丹後には天御陰命を祀る弥加宜神社もあります。

出雲の天津彦根命の神社は、真名井社、飯石郡の波多神社。奥出雲に尾張氏の痕跡があるように思えています。

神名帳考証の伊佐波神の考証は、かなり的を得ている
と思っています。志摩国造も出雲臣ですので、故郷の
出雲に伊佐波神社や伊佐我神社があっても不思議ではないですね。度会氏はイザワトミを伊勢津彦と言っていますが、富家の伝承ではイザワトミは、富家の人、
伊勢津彦は神門臣家の人らしいので、しっくりこない
ところがあります。
都我利(つがり)神社と伊佐我神社(阿須伎神社合祀)
のペアは、出雲臣の系譜に出てきます。
さらに、河内に我をガと誤訓した式内 壱須何神社
(いすが)と式内利雁(とかり)神社(美具久留御魂神社
の摂社)が見えます。
出雲から河内へ伊佐我神→壱須何神と都我利神→利雁神と杵築大社→美具久留御魂神社が移動したと見ます。神社を対で見ると移動しているように見えるんですよ。なので河内に伊勢津彦命と縁があるのではいかと
思っていました。

出雲に行かれるのなら、一度お話してみたいですね。
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いさわ神社 (kokoro)
2013-04-15 23:43:22
 七美さん、こんばんは。

 伊佐賀神社の阿保大神、いいところをついてきますね。おもわずグッときます。

 伊佐賀神社が「いさわ神社」ですか。出雲郡にはやはり式内社に「伊佐波神社」もあって、このほうは旅伏山の南麓にあるやはり式内社の、都我利神社に合祀されてしまったようです。とうがい伊佐波神社について、伊射波止美命を介して伊勢津彦に関係させる考証がありますけど、これまであまり気に留めないできました。しかし、出雲で伊勢津彦を探すなら仏経山から旅伏山にかけての山塊の、南麓が要チェックであることに気がつかされましたよ。驚きました。こんなつながりがあったのですね。

 個人的にはやはり出雲郡の式内社、意布伎神社のことが気になります。この神社も伊努神社に合祀されているようですが、後者もやはり旅伏山南麓にあるのでもともとの鎮座地は伊佐波神社とそんなに離れていなかった感じがします。祭神はウガヤフキアエズ尊だったそうですが、伊福部氏と関係のある神社だった可能性もありえましょう。その場合、伊勢とか尾張とか天照御魂神との回路がひらけそうです。

 出雲、行きたくなってしまいました。(-_-;)
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Unknown (七美)
2013-04-13 13:35:58
どうもこんにちは

石見国は元々物部氏が国造になる前は紀氏(尾張氏
とも近しい)が国造でしたので、地名や神社的には紀氏の色彩が強いと思います。出雲の小野氏の神社も。

伊勢津彦 という神名は、出雲から一番近くで見られるのは播磨でしょうか。
さて式内社の都牟自神社が2社、出雲郡にあります。
旅伏山の山頂と、仏経さんと旅伏山の真ん中あたりに。

旅伏山の都牟自神は、速都武自和氣命(風の神)
として祀られています。500Mほどの山で、階段が
多く疲れる山です。

漆沼郷の方の都牟自神社は、薦枕志都沼値命又の名天津枳佐可美高日子命で、元々仏経山に祀られていた曽枳能夜神社の伎比佐加美高日子命の事であると云われています。

斐川町史によると、地元では伎比佐加美高日子命とは
伊佐賀神社の阿保大神のことであると云われています。
播磨国風土記と繋がる阿保大神です。
伊佐賀神社の伊佐賀とは武蔵国造の系譜の伊佐我命
の事で、出雲弁では伊佐我は「いさわ」と読むそうです。
出雲国の延喜式の神社名の記載は、漢字の発音の訛をよみとれていない箇所がいくつかあるように思えます。
伊佐我命の系譜での別名は、櫛八玉命で、これは
同じく武蔵国造系譜に現れる櫛玉命~伊勢津彦命の別名であるという説もあるようです。(神門郡朝山郷
宇那手の火守神社、宇那手は武蔵国造の系譜に
名が見えます)
いずれにしても、興味深い連鎖が見られます。
旅伏山の都牟自神社には、神武天皇と天日鷲命
が合祀されていて、この二人に東国へ追いやられた
伊勢津彦命の伝承があったのか、未だ直接的に
それらしいものは見つけていません。
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大元出版 (kokoro)
2013-04-10 23:23:07
 七美さん、こんばんは。

 大元出版のご紹介ありがとうございます。こういう情報が一番、助かります。

 出雲西部はあまり伊勢津彦と関係がないのでしょうか。

 ちなみに、出雲の西にある石見国は尾張氏の同族が祀ったらしい式内社が多く鎮座し、また、石見国と比婆山地を挟んで背中合わせの備後には国史見在社の天照真良建雄神社が、またその隣の安芸には国内神名帳にいくつかの「あまてる神社」があります。

 比較的、伊勢や尾張というキーワードを見つけやすい国々の中で出雲西部だけはそうではないというのは面白い気がします。

 
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Unknown (七美)
2013-04-10 02:03:07
kokoroさんこんばんは

私が旧家の旧杵築大社上官家、富さんから
聞いた限りでは、2世紀、3世紀の話なんかの世の中の
話を自信をもって話されていました。
出雲が攻撃された時の話などはかなり具体的で
感情がこもっていましした。まあロマンですね。
出版社を立ち上げられて伝承を本にされています。
http://www.d1.dion.ne.jp/~kunado/

(伊勢津彦についてはそんなに詳しくないです。出雲の
西の旧家の神門臣家に関わる事だからかと思います)
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Reオオヒコについて (kokoro)
2013-04-09 22:42:50
 七美さん、お久しぶりです。

> 長脛彦とはオオヒコのことであると、出雲の旧家では伝わっています。中曽根彦という名であったそうです。

 エエーッ。!!( ̄□ ̄;)!!  

> オオヒコは四道将軍と言われますが、実際は、九州から来た物部系王朝と闘って破れてヤマトから東遷したのだそうです。

 ななななななななななななななな何と。そうだったのですね。古代世界のかなたに没した太陽が呼び戻されて、あたりの闇を照らし出したかのような感動をおぼえます。(T_T)

 って、言いたいところですけどね、オオヒコって稲荷山古墳から出土した鉄剣にも名前が彫ってありますよね。となると、四道将軍の1人であるオオヒコの伝承の元になったようなそれが、すでに5世紀にはあったことになります。出雲の旧家の伝承はそれよりも古いのでしょうか。
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オオヒコについて (七美)
2013-04-09 00:42:34
お久しぶりです。
長脛彦とはオオヒコのことであると、出雲の旧家では伝わっています。中曽根彦という名であったそうです。
オオヒコは四道将軍と言われますが、実際は、九州から来た物部系王朝と闘って破れてヤマトから東遷したのだそうです。
時代が違うのは、万世一系を作り上げるために、オオヒコのエピソードを初代天皇の時代の話に作り替えたそうです。

確かにオオヒコの通った北陸~科野~関東~東北の
経路、特に科野の善光寺平には、オオヒコが亡くなった伝承地がある布制神社や、伊勢津彦命の伝承が残る風間神社や、三代実録に記されている飄別神(出雲にも同名の神祭祀が見られます)、タケミナカタの孫にあたる会津比売神社と、
天孫族に負けて去った人々の象徴的な神の祭祀
が見られます。オオヒコの裔である古族、福井の足羽氏、諏訪大社の祝家、タケミナカタの後裔に足羽氏(アスワ)と全く珍しい名前が阿部氏と諏訪氏に見られます。

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