三重県度会郡南伊勢町の南部に龍仙山という山がそびえている。賢島から西へ10kmほど離れた五ケ所湾に面しており、標高は402mだが、付近の漁村からはよく目立ち、地元の人たちの愛着も深いという。
この山は楯のような山塊が東西方向に延びた上に、土饅頭のような山頂部分が載った格好をしているが、この東西方向に広がる尾根上、なかんずく山頂部分より東側の、ドビロという場所を中心に、神籠石と呼ばれる人工的な列石がみられる。現地にある南勢テクテク会の看板によれば、列石の延長は5~600mというが、山頂から西側の部分にも列石の一部と見られるものがあり、東側と西側のそれが連続していたとすれば、現在は失われているものの、列石は山頂部分を半円形にとりまいていた可能性もある。その場合、総延長は2kmを超えたのではないか。
龍仙山までは伊勢道の玉城インターで下りてから、サニー・ロードを南下し、龍仙山トンネルを抜けた辺りで、左手に「薬草の里」の看板が出ているところから登山口まで通じる農道兼林道に入れる(8号目くらいまでは、この道をつかって車でゆける。)。詳細なルートについては、「龍仙山」で検索をかければ登山のブログなどに紹介があり、また現地に行くとテクテク会の看板や木にビニールテープを巻いた目印があるので省略。とにかくそれらをたよりに山の尾根をのぼってゆくと下のような看板があり、神籠石のはじまりを告げる。
始まり、始まり~
顕著な巨岩
神籠石は、保存状態が良好な箇所では小型の万里の長城といった感じだが、崩れてしまっている箇所も多く、そういう場所では白骨化した大きな動物の遺骸のような感じだった。岩のサイズは1人で運べそうなものから、相当な巨岩までマチマチで、それが数百mに渡って尾根上に連続する。石は龍仙山で普通に見かける種類のもので(この山は岩石が多い)、別の場所から搬入されたものではないらしい。しかしそれにしても、標高400mの山の8~9合目ふきんにこれだけの列石を造るとなると、そうとうの労力が必要だったはずだ。
まだまだ続く、神籠石
列石は崩れている箇所が多いものの、石材じたいが抜き取られた感じはない。石垣の材料として手頃なのに持ち去られていないということは、ずっと神聖視されて手がつけられなかったことを感じさす。
ざっと見、列石には立石タイプのものと積石タイプのものがあった。
立石タイプのそれは高さ50~80cm程度の石を立てたものが多いが、中には1mを越えるものもある。このようなサイズが大きめの立石は単独ではなく、3つ前後、並んで登場することが多い。その印象は非常に顕著で、いかにも磐境を思わしめる。
立石タイプの列石
磐境を思わせる
積石タイプのものは石を横にして積んだもので、ほとんどが崩れてしまっているが、数少ない残っている箇所を観察すると、石と石の間は隙間だらけでスカスカである。例えば北部九州などに残る朝鮮式山城などの緻密な石積みと比較すると、著しく精度が劣る。築造当時の様子は想像するしかないが、積石タイプの列石部分は高さがおおむね50~80cm程度に揃えられていたようだ。そして、その中において立石部分と石積部分が交互に連続し、前者が後者の中から屹立するような外観だったのではないか。
積石タイプの列石
スカスカ
ゆるゆる
【参考画像】対馬にある金田城の石垣
『日本書紀』天智天皇六年(667)に造営の記事がある
かつては積んであったが、崩れてしまったとみられる列石
なお、山頂近くになると尾根上に巨岩が自然露頭している箇所があり、そういう場所はその巨岩が神籠石の列中にとりこまれていた。
自然露頭の巨岩
ふきんの植生はほとんどが灌木であるが、原始林なのか二次林なのかはわからない。あるいは築造当時、神籠石周辺の樹木は切り払われており、五ケ所湾に浮かんだ船からは太陽光を浴びた白い列石の煌めきが望めたのではないか、という考えが浮かんだ
列石は山頂近くほど大きなサイズになる
滑落防止のために基部に別の石を噛ませた形跡のある列石
「太陽神の城跡【龍仙山神籠石(2/2)】」につづく
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