神社の世紀

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生成しつつある磐座【劔主神社(奈良県宇陀市大宇陀区宮奥)】

2011年09月24日 22時01分28秒 | 磐座紀行

 奈良県宇陀市大宇陀区宮奥にある劔主ツルギヌシ神社は、『延喜式』神名帳 大和国宇陀郡に登載ある同名の式内社である(他に論社が2社ある。)

劔主神社遠景 

 あまり大きな神社ではないが社地には大きな杉が何本かあり、古社としての存在感をたたえている。ただし境内に奥行きがあまりないせいか、社地に入ってもそれほど荘厳な感じは受けない。むしろ大きすぎる杉の根がスケール感を喪失させ、まるで箱庭のなかに入れられたような気分だ。

でかすぎる樹根

 当社はかつて白石明神と呼ばれ、社地から北西に550mほど登った山上にある硅石の巨岩を遙拝する里宮であった。社殿背後にはこの山上から搬入された白色の硅石が積んであり、周囲にも同じ岩がみられる。古い磐座祭祀の痕跡だろう。

劔主神社本殿

本殿背後に積まれた白色の硅石

本殿の近くにある大きな硅石

立石状の硅石

 硅石は陶磁器やガラスの原料などとして使われるが、ここのは異様なくらい白い。パッと見、日陰に残った雪のようだが、ほのかに半透明で近づいて眺めていると何となく人肌が連想されてくる。それもほとんど体温があるかと錯覚しそうなほどで、いささか気色悪いくらいだ。

硅石のアップ

 当社の奥の院に足を運んでみる。何の案内もないが、社地からやや西に離れた寺院の裏手辺り(だったとおもう)に山へ入ってゆく細い道があり、それを10分も登ると山頂にたどり着く。

社地のふきんから眺めた奥の院のある山頂
山頂から当社までつづく尾根は「明神の尾」と呼ばれていたという

山頂へ行く途中の景色

山頂近くなると岩盤が露出している

 山頂には例の硅石の巨岩があって、手前には簡単な拝所がある。これが当社の奥の院だ。

劔主神社奥の院

 周囲には他にも硅石の巨岩が見られ、とくに斜面上に露出したものは陽光を浴びて白く輝いている。じつはこの画像を撮った時、この場所を訪れたのは2回目だったのだが、最初に来たのは夕刻で、その時は西日に染まってテカテカと輝くのが、まるでショールームの中に展示してある新車のように真新しい感じだった。総じて磐座というと古色蒼然として神さびた風格をたたえているというイメージだが、ここのは真逆で、まるで地面の中から新しい磐座が生成する現場にいるかのような気分にさせられる。

硅石の白石は神社で祀られているだけではなく、
こうして普通の民家の石垣に使われていたりなんかもする
 

 ちなみに、伊賀国阿拝群の式内社、眞木山神社の古社地にも硅石の磐座があったが、残念ながらガラス会社による採掘を受けて消滅した。全国には他にも硅石の磐座の例があるかもしれないが、硅石はガラス、セメント、鉄鋼、陶磁器等の原料として多用されるため、同じように採掘によって消滅している可能性が高いのではないか。となると、現在でもこのような硅石の磐座が見られるのは、劔主神社ぐらいかもしれない。

 

 

 

 


 

 

劔主神社

奈良県宇陀市大宇陀区宮奥116に鎮座。「つるぎぬし神社」
Mapion

 創祀年代不詳の旧指定村社。

 『平成祭りデータ』にある由緒を引用する。

「当社は、宇陀郡大宇陀町中宮奥の宮奥川の左岸、白石に鎮座の社で、「延喜式」神名帳剣主神社にあてられている。「大和志」に、宮奥村に在り、石段有りて社屋なし、土人伝えて故実となす、とあるが、俗に白石名神とも称し、本殿の周囲に白色の硅石が数個ある。後方の山頂にも白石群があり、当社の奥の院といっていた。江戸の末期に本殿が造営されたが、それまで社殿なく、白石群を神体とし、例祭などにはここで參籠したと伝え、今の社殿のある付近は、かっての遥拝所であったというから古代日本の祭祀形態が、近世末まで残存していたことになる。背後に宝林山瑞谷院という神宮寺があったと伝える。
 祭神について「神社明細帳」や「宗教法人法による届出書」には「祭神不詳」とある。伴信友の「神名帳考証」では、「新撰姓氏録」大和国神別の条に「葛木忌寸、高御霊命五世孫剣根命の後也」とある剣根命を祭るとある。
 例祭は9月9日で、5日に本年、明年、明後年に祭主を勤める当屋は、吉野郡河原屋の大汝宮社前の吉野川で斎戒沐浴、川石1個を拾って帰り、清浄な竹、杉皮でお仮屋を作って神前で使用した雲かわらけを御神体として納める。9日の祭典に当る当屋は毎月1日、16日、28日の3回、吉野川から持帰った小石を宮奥川上流に沈めて、その下流で禊する。当屋役が終わると、その小石を剣主神社の背後山頂にある白石の磐座で通称白石さんの神前に供える例である。
 なお一説に、大宇陀町下宮奥鎮座の天照大神を祭神とする神社と、同町半坂に鎮座の祈雨・止雨神で、祭神素戔鳴命・経津主命・葺原醜男命とする同名の神社を、式内社とする説もある。」。

 

 


 

  

 障壁神から塞神へ

 

  劔主神社の祭神は性格がよく分からない。引用した上記由緒にもあったとおり神社明細帳などでは祭神不詳となっているし、伴信友はその祭神を葛木忌寸の祖神である剣根命としているものの、これは社名にある「剣」に附会しただけという感じがする。ではいったい、劔主神社で祀られていたのはいかなる神なのか?

 『日本書紀』神武天皇即位前紀に「女坂」「男坂」「墨坂」のことが出てくる。すなわち、宇陀地方を迂回した神武天皇がいよいよ大和平野に攻め入ろうとする時、高倉山から敵勢を視察した。すると、国見岳の上に八十梟師ヤソタケルがいて、それぞれ、女坂には女軍を、男坂には男軍を、墨坂にはおこし墨を置いていたため、これらがそれぞれ坂の名の由来となったというのだ。

 劔主神社の社前を通る道を川をたどって西に進むと、熊ケ岳の大峠を越えて多武峰方面にまで抜けられる。『大和志』をはじめ多くの文献がこの道を「女坂」に比定している。つまり当社は女坂の入口に鎮座しているのだ。

 いっぽう、男坂は宇陀市大宇陀半坂ふきんが比定されているが、この半坂にも式内・劔主神社の論社となっている「劔主神社」という神社がある。つまり、この式内社は女坂と男坂の両方に論社が鎮座しているのだ。そのどちらがほんらいの式内社であったかはともかく、これは劔主神社の祭神の性格が、峠や国境などで疫病などの侵入を防ぐために祀られる塞神だったことを示唆しているよう思われる 

半坂の劔主神社
Mapion

半坂の劔主神社ふきんで見かけた「男坂伝承地道」の石標

 なお、女坂・男坂・墨坂のうち、大和と伊勢をつなぐ要路上の関門としてもっとも重要なのは墨坂である。『古事記』崇神天皇条には国内で疫病が流行った際、オホタタネコに三輪山のオオオモノヌシ神を祀らせるとともに、宇陀の墨坂神に赤い楯矛を、大阪神に墨色の楯矛を祭ると疫病の流行が終息し、再び国が安らかに治まるようになった記事がある(『日本書紀』にも似た記事がある。)。

 墨坂は近鉄榛原駅の北西、0.8kmほどのところの西峠にあたるが、現在、宇陀市榛原萩原にある墨坂神社は、かつて西峠ふきんの天の森に鎮座し、この記事に登場する「墨坂神」に当たっている。同記事から当社に塞神としての性格があったことは明らかだが、こうして早い時期に墨坂で塞神が祀られていたことからもまた、女坂と男坂に論社のある式内・劔主神社に塞神としての性格があったことが類推される。

墨坂神社

墨坂神社の旧社地、天の森ふきん

当社は文安六年(1449)九月二十六日までここにあった

 とはいえ、墨坂神社や劔主神社は最初から塞神として祀られていたものだろうか。

 『日本書紀』雄略天皇七年七月三日条にある、天皇がチイサコベムラジスガルに三諸岳(三輪山)の神を捉えさせた記事の割注には、「この山の神の名は大物主神といい、あるいは菟田の墨坂神という。」とある。ここから、墨坂神社の祭神を三輪山で祀られている大物主神と同一とする伝承があったことがわかる。さっきも紹介した『古事記』にある崇神天皇の記事で、大物主神は悪疫を流行らせる恐ろしい祟り神としての性格を示していた。おそらく三輪山の神は天皇家の祖先が大和平野を平定する前から土着勢力によって祀られていた古い神格で、こうした伝承はそうした勢力の執拗な抵抗の記憶を伝えたものだろう。してみると、墨坂神社の祭神もまた、最初はこうした古い勢力によって祀られていたとみられる。

 また、劔主神社も、そもそもは裏山にある硅石の巨岩に対する原始的な自然信仰からはじまった神社であり、その祭祀のえん源は非常に古いものであった感じがする。これもまた皇室勢力が大和平野を平定する前から土着勢力によって祀られていた神ではないのか。

 神武天皇即位前紀によれば、神武軍が大和平野に進入しようとした際、国見岳に八十梟師が、女坂と男坂には神武軍を迎え撃つための軍勢が置かれていたというが、こうした伝承には、かつて大和と宇陀を結ぶ交通の要路を押さえていた勢力があり、天皇家の先祖が大和へ入る際、その勢力が激しく抵抗した史実が反映している感じがする。その場合、かつての墨坂神社や劔主神社周辺にはこうした土着勢力が盤踞していたことになるため、これらの神社を最初に祭祀したのも彼らだったろう。そして、となると、大和平野平定以前の皇室勢力にとって、墨坂神社や劔主神社で祀られていた神は悪疫の侵入などから守ってくれる塞神どころか、むしろ最初はその前に立ちはだかる障壁神であったはずである。

墨坂神社遠景

 障壁神とは国境などで交通を阻害する神のことである。風土記によく登場する通行人の半数を通し、半数を殺す神は半透過性の障壁神だが、ここでのそれは国への関門にあたるような要衝にいて、侵入しようとする皇室勢力に抵抗するという点で、むしろ『伊勢国風土記』逸文で、勅命によって伊勢地方へ入ろうとする天日別命の前に立ちふさがる伊勢津彦の場合に似ている。これらの障壁神はやがて、それを祀る土着勢力が皇室側に滅ぼされるか、帰順するかすると、内と外の逆転に伴い、疫病などの侵入を防ぐ塞神へとその性格が変容するのではないか。

 

 

 



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