神社の世紀

 神社空間のブログ

伊勢津彦捜しは神社から【神社の記憶の力によって】

2010年08月11日 23時08分15秒 | 伊勢津彦

 ここで唐突だが、「伊勢津彦捜しは神社から」というシリーズの意図について触れておく(良い機会だとおもうから)。

 伊勢津彦についてはこれまで、その興味は天日別命に敗れた伊勢津彦が、伊勢を去って信濃に入ったという伝承に向けられることがあまりに多かった(こうした傾向は「伊勢津彦」というキーワードで検索をかけた結果からも感じられる。)。そしてそれは、この伝承がタケミカヅチ神との争闘に敗れたタケミナカタ神が信濃の諏訪地方に逃げ込んだという伝承とよく似ているからで、いきおい伊勢津彦への興味の中心も、彼とタケミナカタ神が同一神かどうか、という点に向けられることが多かった。ちなみに両神を同一神とする説は本居宣長によって唱えられたもので、国学が発生して以来の伝統的なものである。

 現在では、伊勢津彦とタケミナカタ神は同一神ではないということでほとんど決着がついている。そして、それかあらぬか伊勢津彦をめぐる議論もそれほど活発ではなくなってきているとおもう(1997年に出版された大和書房の『日本神話事典』には、風土記の伝承を比較的よく取り上げているにもかかわらず、伊勢津彦のことは全く出てこない。)。だが私は、このシリーズで神社とその伝承という面から新しいやり方で伊勢津彦に取り組みたいと考えている。「伊勢津彦捜しは神社から」という奇妙なタイトルの意図もそこにある。

 すでに触れたとおり、伊勢津彦には、伊勢を去った彼が信濃へ行ったとか、相模や武蔵の国造の祖になったという伝承があった。ようするに彼の行先は伊勢より東とされるケースが多かったのである。が、けっこうひねくれ者の私はむしろ、伊勢津彦の行き先として西を提案したい(東を否定する訳ではないが)、── 神社の記憶の力を使って。

 新しく想定される伊勢津彦の退去先は伊勢より西にあるだけではなく、距離的にも信濃などよりずっと伊勢から離れた場所である。しかし、これもまた神社の記憶の力を使って、2つの地域に神社空間を架構しようとおもう。その際、論を拡大するためにふたたび都美恵神社について触れることになるだろう。阿波の神社にも触れる。

 なお、『播磨国風土記』に登場する伊勢都比古命は興味深いが、この神が『伊勢国風土記』逸文に登場する伊勢津彦と同神なのか同名異神なのかはちょっと判断し難いので、最初はこのシリーズで取り上げないつもりだった。しかし結局、取り上げることにしたのは、先月、梛神社を参拝したところ、自然信仰的な雰囲気を残す興味深い神社だったため、このブログで紹介したくなったからである。



梛神社の山の上の峰にいる伊勢都比古命 by『播磨国風土記』

 


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