神社の世紀

 神社空間のブログ

(6)伊勢津彦捜しは神社から【梛神社(2/2)】

2010年08月18日 23時00分34秒 | 伊勢津彦
 急な猛暑が襲ってきた今夏のとある週末、私は梛(なぎ)神社をおとずれた。『播磨国風土記』にある伊勢都比古命の記事との関係で語られることの多い神社である。




梛神社(社頭)

 

 当社のことは『日本の神々』に紹介されており、そこに背後の山が神体山であるようなことが書かれている。このことは『播磨国風土記』にある記事との関係で重要である。参拝を終えた私は早速、社前近くを通る因幡街道を渡って、社地とその背後の山が遠望できるところからその景色を観察した




梛神社(境内)
緑が多い境内だが「森厳な」というより、むしろ「爽やか系」の緑

 

 最初に気付いたのは、『日本の神々』の写真には写っていないコンビニが神社の前にできていて、景観がかなり損なわれている、ということだった。どうしようもないことだが、これにはガッカリした。

 次の気付いたのは、神体山といっても梛神社の背後の山は、各地でよく見かける笠を伏せたような平たい円錐形をしたものと違い、下の画像にあるように全く対照形をなしていない、ということだった。もちろん、神体山にも色々あり、いちがいなことは言えないのだが、それにしてもあまりにもまとまりを欠いたフォルムである。「三輪山のような標準的な神奈備山とずいぶん違うな。」というのが、正直な感想だった  

 



峰相山の全景。
神体山にしては対照形ではなく、フォルムにまとまりが感じられない。

 

 さらに気付くのは、社地と神体山にあまりつながりが感じられない、ということだった。
 これはどういうことかと言うと、普通、神体山を祀る神社は、山の主峰を背後に控えるような特権的な位置に社殿をかまえたり、あるいはその山から延びているもっとも立派な尾根の先端に社殿を構えたり、あるいはその山に降った雨が山麓で湧き出している清らかな感じの泉のかたわらに社殿を構えたり、等々することで、社地と神体山につながりを持たせるケースが多いのである。

 ところが、当社の場合にはこういったことが全くみとめられないのである。梛神社の背後の山は峰相山(みねあいさん)といい、山名と関係がありそうな2つの峰があるが、神体山としてこの山を祀るなら、とうぜん、この峰が背後に来るような地点に社地をかまえてしかるべきである。ところが梛神社が鎮座しているのは2つの峰からだいぶ外れた地点であり、背後の山を祀っているようにはまったく見えないのだ(下画像参照)



梛神社と峰相山(左手の森が社地)

 

 ここで、もう一度、『播磨国風土記』の伊勢野の記事を振り返っておく。
 この地に人家が建つといつも平穏に住むことができなかった。そこで絹縫キヌヌイの猪手イテ・漢人刀良アヤヒトトラらの祖にあたる人がここに住もうとして神社を建て、社の上の山の峰にいる伊勢都比古命と伊勢都比売命を祀ったところ、伊勢野の民家の人々は皆、安らかに住むことができるようになったので、ついに村里となることができた、という。

 伊勢都比古命と伊勢都比売命はこの地の先住勢力が祀る地主神だったのだろう。いっぽう、絹縫キヌヌイの猪手イテ・漢人刀良アヤヒトトラらというのは半島から渡来した技術者集団で、おそらく後から伊勢野に入って住みつこうとしたのだ。この伝承には、そんな彼らが先住勢力との間に摩擦をおこした記憶が反映しているようにおもう。
 もっとも、『播磨国風土記』には他にも、新羅国の王子、アメノヒボコがやってきて、地主神の葦原志許乎アシハラノシコヲや伊和大神と国占め争いをしたという伝承が多く残されているが、伊勢野の伝承の場合、渡来系の人たちはより和解的で、先住勢力の荒ぶる神を祀って最終的にはうまく共生したような印象を受ける。

 ちなみに梛神社のある伊勢や、そこと隣接する打越や石倉の山麓いったいからは多くの古代窯址が見つかっているが、これらは絹縫キヌヌイの猪手イテ・漢人刀良アヤヒトトラらの渡来系の集団が残したものらしい。
 記紀神話には、崇神天皇の時代に三輪山のオオモノヌシ神が祟ったので、国内で疫病が流行し人民が死に絶えそうになったが、この神の裔であったオオタタネコを神主にして祀らせたところ、祟りが治まったという伝承がみえる。紀によれば、彼がいたのは河内国の陶村ということになっており、陶村の「陶スエ」は当時、その地域いったいで行われていた須恵器生産と関係があるとされる。須恵器生産は当時の最先端技術で、もっぱら渡来系の人たちによって行われていた。したがって、オオタタネコも渡来系陶工たちの血をひく人だったらしいが、絹縫の猪手・漢人刀良らが伊勢野に残した窯址はこの伝承を連想させる。

 それはともかく、『播磨国風土記』によれば伊勢都比古命と伊勢都比売命は「山の峰に在イマす」とあり、これに対し絹縫の猪手・漢人刀良らの祖にあたる人は「社を山本に立てて」祀ったとある。ここで感じるのは、山上にいる伊勢都比古命・伊勢都比売命と、山麓にある神社の位置関係がやけにはっきり対比されている、ということだ。
 私たちは、古代人が神々がふだんは里から離れた山上にいると考え、祭礼の時だけ山麓に呼び下ろしてこれを祀っていた、というような民俗学上の知見を諸書においてよく目にするものだから、あるいはこの記事もそういう祭祀のあり方を言っているのかと思い込んでしまうかもしれない(私も最初はそう思った。)。しかし現地に来て、さっき説明したような各地の神体山とだいぶ勝手が違う梛神社とその裏山の様子を見ているうちに、これとは違う考えが浮かんできた。

 梛神社が背後の山を神体山として祀っているように見えないことはさっきも述べたが、そのかわり背後の尾根にはダルマのような形をした巨岩が屹立しているのが遠望できた。社地との位置関係から言って、当社はこの岩を祀ったものではないか(下画像参照)。その場合、この巨岩こそが伊勢都比古命であり、『播磨国風土記』はこの石神のことを「山の峰に在す」と言っていたのではなかったか。その場合、麓でそれを祀っていた梛神社を「社を山本に立てて」と表現していたことになり、風土記の記述は現在の状況と極めてよく符合するようにおもわれる



山本の社地と「山の峰に在す」伊勢都比古命の石神




伊勢都比古命の石神のアップ

 

 ちなみに『日本の神々』には梛神社の裏山にある巨岩群について次のような記事がある。「神社の裏山は峰相山の一峰でトンガリ山といい、その山頂近くに亀岩という大岩がある。岩に穴があり水を湛え、崇神天皇のとき四本の稲が生え、この稲を種として諸国へ稲作を広めたと伝える。他に大黒岩、神座の窟という奇勝があって、麓からも望見できる。(『日本の神々2山陽・四国』梛神社 p66)」

 あるいはここに見える大黒岩というものが、私が伊勢都比古命の石神だというダルマ型の巨岩のことなのかもしれない。また、山頂近くにあって穴に水を湛えているという亀岩は陰石で、これと対になって祀られていた女神の伊勢都比売命だった可能性もある。
 なお、崇神天皇の時にこの穴に四本の稲が生えうんぬんの伝承は、同じ『播磨国風土記』にある稲種山のそれと関係があるのだろう。

 よだんだが、梛神社の裏山はトンガリ山と呼ばれているらしいが、神社のあるあたりから眺めている時は、山の形が全く尖っていないのでこの名前が不思議だった。ところが南麓に当たる石倉の集落のほうから眺めると、下の画像のように山容が尖っていたので得心がいった



石倉の辺りから眺めたトンガリ山(火の見櫓の右隣)
前景を流れる川は、『播磨国風土記』にも名前が登場する伊勢川


トンガリ山々頂近くのアップ。
多数の岩石が露頭しているのが分かる。亀岩という岩はこの中のどれかなのだろうか。

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿