神社の世紀

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(11)伊勢津彦捜しは神社から【伊勢命神社(4/4)】

2010年10月02日 13時53分33秒 | 伊勢津彦


 それはともかく、『式内社調査報告』には「社家の記録」として、さらに興味深い伝承が載っている。

「當社最初の御鎮座地は久見港を距る約五町許り西南方に位する字假屋の地にして、この地を特に宮地と選定したるに付ては、古老傳説あり。則ち伊勢族移住の初に當りては神社の設けなかりし如し。然るに一夜神光 海上より輝き來りて假屋の地に止りしが、その降臨夜々出現止まざりしに、偶伊勢族の一人神託を蒙りしを以て、假に一小祠を建て伊勢明神を奉齊せしより、神火の出現甫めて止たりと云ふ。之實に伊勢族が祖神を勧請して冥護を祈りし神話を傳へたるものなり。(『式内社調査報告』第二十一巻p994)」

 大略はさっき引用した『神国島根』にあるものと同じだが、ここには新たに伊勢から来た「伊勢族」なるものが登場し、伊勢命神社は移住してきた彼らによって創祀されたことになっている。

 この伝承は社名の「伊勢」に附会して作られた後世のものかもしれない。しかし、伊勢命神社の鎮座する地域で、古代に伊勢と関係の深い集団が活動していたことは、次のようなことから確かめられるのである。すなわち、正倉院文書にある天平四年(732)の『隠岐国正税帳』には、当社の鎮座する役道部(隠地郡)郡の条に、「大領外従八位上大伴部大君、少領外従八位下勲十二等磯部直万得」とあり、ここからこの郡で大領に次ぐ地位にあった人物が磯部氏であったとわかるのだ。

 磯部氏がいたことが、どうして伊勢とつながりのある集団が古代のこの地域で活動していたことになるのか?

 磯部氏は『新撰姓氏録』河内国皇別に「磯部臣。仲哀天皇の皇子、誉屋別命の後なり。」とあり、磯部を統括する伴造氏族であった。『古事記』応神天皇段には山部、山守部、伊勢部を定めたという記事があり、「伊勢部」というのは磯部のことだとおもわれる。彼らは漁業に従事する海民の集団だった。また、誉屋別命は応神天皇の兄にあたり、磯部臣がこの人物を祖とするのも、磯部(伊勢部)の設置が応神朝だったという伝承と関係するのだろう。

 それはともかく、「伊勢部」と表記されたことからも暗示されるとおり、磯部氏は伊勢地方に多くいた。佐伯有清の『新撰姓氏録の研究』によれば、孝徳天皇の時代の人である磯部直をはじめ、『伊勢国風土記』『皇太神宮儀式帳』『止由気宮儀式帳』『続日本紀』等に登場する伊勢にいた磯部氏はじつに25名にも上っている。これは古文献で確認できる人数としては諸国の中でもっとも多い(二番目に多い美濃国は16名)。

 また彼らのうち、『続日本紀』和銅四年(711)三月六日条に登場する磯部祖父と磯部高志は、「度相ワタライ神主」の氏姓を賜ったとある。この賜姓は言うまでもなく、彼らが外宮の禰宜であったことによるもので、ここから彼らの子孫で代々、外宮の宜官を務めた度会氏も磯部氏であったことがわかる。また、『皇太神宮儀式帳』の奥付には「大内人宇治土公磯部小継」とあり、代々「玉串大内人職」として内宮に務めた宇治土公氏もまた磯部氏であったらしい。磯部氏は在地勢力として伊勢神宮の祭祀につよくコミットしていたのだ。

  伊勢神宮は古くは磯宮と呼ばれ、祭祀に使われる神饌はそのほとんどがふきんの海士・海女たちによって貢上される魚介類(とりわけアワビ)・海藻・塩に限られた。これは、かつて伊勢の海民たちを統括していた磯部氏が、神宮の祭祀に参加していたこと抜きには考えられないことだろう。 

 古文献から分かる磯部氏の分布は、移動性に富んだ海民の習性を反映してか、かなり拡散的である(伊勢のほかに、伊賀・尾張・遠江・駿河・相模・下総・美濃・上野・越前・隠岐・讃岐に磯部氏の人名がみられ、また、『和名抄』の越前と下総には磯部郷がある。さらに北陸道諸国や近江などには「○○磯部神社」という式内社が多い。)。しかし、彼らの本慣地が伊勢であったことは間違いない。その場合、天平の頃、この氏族出身の磯部直万得が伊勢命神社が鎮座する隠岐国隠地郡の少領の務めていたことから、当時のこの地域に伊勢とつながりのある集団がいたことが明らかになる。社家の記録にある「伊勢族」も、伊勢から来た漁民と、部民として彼らを管轄していた磯部氏のことであった可能性が高い。

 藤原宮跡から出土した木棺のなかに、隠岐国知夫利郡三田里の人として「磯部真佐支」という人名がみられる。知夫利郡は隠岐諸島のうちの知夫里島のことだが、ここから当時、この島にも磯部氏がいたことがわかる。

 ところで知夫利島には、天佐志比古命神社という式内社があるのだが、「磯部真佐支」の「佐支」は、当社の祭神、「天佐志比古命」の「佐志」と何か関係があるのではないか。その場合、当社もまた伊勢命神社と同じく磯部が祭祀に関係していた可能性がある。



天佐志比古命神社

同上



天佐志比古命神社の本殿
 

 伊勢命神社の鎮座している地域には、伊勢とつながりのある集団が古代に活動していたことはこれではっきりしたとおもう。が、この神社の祭神が伊勢津彦であったことまで明らかになったとは言えない。両者を同一神とするにはさらに、磯部氏と伊勢津彦の相関性を示す必要がある。そこで今度はそのことについてみてゆこう。



伊勢命神社の本殿

  『伊勢国風土記』逸文には伊勢津彦が伊賀国の「穴志社」に坐すとある。この穴志社は『延喜式』神名帳の伊賀国阿拝郡に登載ある穴石神社のことだが、当社には論社が2つあった。しかし『伊勢津彦捜しは神社から【都美恵神社】』でも述べたが、私は三重県伊賀市柘植町にある都美恵神社のほうが、ほんらいの式内社であったと考える。そして当社が鎮座する場所は古代の阿拝郡拓殖郷だった。
 さて、天平勝宝元年(749)十一月二十一日付『伊賀国阿拝郡拓殖郷長解』には阿拝郡拓殖郷の人として、石部万麻呂、石部石村、石部果安麻呂という人名が載っており、この3名は磯部氏である(「磯部」は「石部」にも作る。)。つまり、古い文献によって伊勢津彦が祀られていたことの確かめられる唯一の神社が鎮座していた土地に、磯部氏がいたことが確認できるのである。これは重要だ。というのも、磯部氏がいた以上、彼らによって統括される磯部たちもこの地に居住していたことになり、伊勢津彦の信仰が彼らによるものであったことが示唆されるからだ

 すでに紹介したとおり、『先代旧事本紀』国造本紀に、相模国造は武蔵国造の祖、伊勢津彦の三世の孫、弟武彦から出たとある。そのいっぽうで、『寧楽遺文』にある天平十年の「白布墨書銘」には余綾郡大座郷大磯里の人で磯部白髪という人物がみえており、相模にも磯部氏がいたことは見逃せない。

 松前健は、「伊勢津彦東海退去の物語は、海辺の祭儀の縁起譚に過ぎないもので、別に何等かの種族の移動や氏族の東遷の史実が背景となっているわけではないから、その東海の果の常世郷に消え去った神の行方を、史実的、地理的に探求しようとする試みは、およそ無益なユーヘメリズムに過ぎないのである。」と言っているが私はそうはおもわない。

  伊勢の磯部氏が部民として統括していた漁民たちは、大和の勢力が侵入する前から伊勢で活動していた。伊勢津彦の信仰もほんらいは彼らによるものだったろう。やがて王権の勢力下に入った彼らは、朝廷サイドに立つ磯部氏によって統括されるようになるが、その信仰は伊賀の穴石神社を中心に残った。

 伊勢命神社は、磯部氏が伊勢から引き連れてきた漁民たちによって祀られた神社である。伊勢津彦の信仰が彼らによるものであった以上、当社の祭神である伊勢命とは伊勢津彦のことであったようにおもわれる。






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