いま話題になっている、デーブ・スペクターのツイッターでのつぶやき。
じつは、だいぶ前から、バンコクに住むタイ人の親友M嬢(ノリさんのライブにいつもつきあってくれた友)が、デーブのツイートを時々メールしてくれていました。M嬢の得意技もダジャレなので、日本に住んでいたころから彼女にはデーブが「師匠」でした(笑)
彼女からのメールがくるたび、ほっと息をつくことができ、親友の心遣いがありがたく、デーブのくだらないダジャレに笑いながら涙が出ました。
タイのあるインターネット電話の会社では、今月末まで日本への通話を無料にするサービスをしているそうで、このあいだもM嬢が電話をくれました。10年以上日本に住んだ彼女にとっても、今回の震災は心ゆさぶられる苦しいできごとです。
いまの状況について語り合いながら、おたがいの近況の話にもなり、世間話もしました。
そのうち、彼女とのあいだでしか通じない思いっきりくだらない話でもりあがり。
「なんか、わたしら、すっごいくだらない話してるねえ」と笑いあったとき、わたしは心の底からM嬢に感謝しました。
震災の当事者でなく、西日本在住の自分だから、デーブのツイッターやら親友との会話やらでほっとすることができる。でも、被災したたくさんの人々にとって、そんな場も、余裕も、いまはまだないというのは、悲しいけれども、事実なのだろうと想像します。
16年前に神戸で震災を体験した中年女性が「いまは、あんまりがんばれがんばれ言うても、しんどいだけやろうしねえ・・・ゆっくりさしてあげたいねえ」と穏やかにインタビューに答えているのを、このあいだテレビで見ました。ものすごく説得力ある言葉でした。
概して、関西ローカルの報道・情報番組の東日本大震災のつたえかたは、非常におちついています。淡々と、でも本当に実効性のある対策を、ここ関西から考え、発信していこうとしています。それはやっぱり、わずか16年前に震災の当事者になったからこその落ちつきであり、現実主義です。
芝居がかった過剰なリアクションはせず、常にメディアのありかたを客観的に問い直しながら、いまは批判合戦をしている時ではないというスタンスをくずさず、徐々に通常放送にもどしていこうとしている。
いま、一部では、いろんな争いや対立や非難も起きているようです。
はっきり言って、関東と関西で温度差があるのも確かでしょう。
そして、それは当然のことだとも思う。停電、原発、余震で、関東に住む多くの人々が漠然とした不安感におおわれてしまっているのだから、疑心暗鬼になったり、ピリピリして誰かを責めたくなったりするのも、あたりまえのことだと思う。関西にいてさえ、たくさんの人が不安や罪の意識をかかえているんですから。
一刻もはやくこの不安な状態からぬけだしたい、という切実な思いが、争いや非難、あるいは逆に過剰な「がんばれ」コールにつながっているのかもしれない。それはある程度しかたのないことです。
わたし自身、冷静に考えているつもりでいて、実はパニックになっています。
何をどう考えればいいのか、何が正しいのかわからず、混乱しています。
でも、すくなくとも、自分がパニックを起こしているんだ、恐がっているんだと自覚した時点から、すこし前向きに考えられるようになった気がする。
いまできることは、自分達がパニックになっている、混乱しているんだ、という現状だけでも、せめてすなおに認めることしかないのかもしれません。
対立しているようにみえる相手も、実は自分と同じように恐くてたまらないんだ、ってことを、認めるしかない。
そこに共通の基盤をみつけたうえで、争ってる場合じゃない、ってことを、認識しなくてはいけない。
とりわけ、子どもたちのために。
被災地の子どもたちの笑顔や、まじめさに、大人が逆にはげまされている。それは事実です。でも、あの子どもたちは、きっと相当無理をしているはずです。大人がうちのめされているすがたを見て、わがままを言ってはいけないと、子どもたちは本能的に気を遣っているんじゃないかと思う。
人目もはばからず号泣する大人の映像はよく見ますが、泣いている子どもの映像をあまり見ません。
もしかしたらそれは、被災地にかぎらず、日本中のたくさんの子どももそうかもしれない。
連日連夜の悲惨な報道が、子どものこころにどれだけ衝撃的か。
子どもはすなおに「つらい」と言わないものです。だから、ためこんでしまう。
子どもの笑顔にほっとさせてもらうだけでなく、わたしたち大人が、子どもを守ってゆくことも考えたいと思う。
何やらもめている一部のスポーツ界も、不毛な対立をくりひろげることが子どもたちのこころに与える悪影響のことをかんがえてほしかった。
芸術家も、芸人も、政治家も、普通の人々も、いま傷ついている子どもたちを癒し守り育てていくために、智恵をだしあい、力を合わせなければいけない。
いつか被災地が落ちつき、原発問題が解決し、復興が本格的にはじまれば(そして、1年ほどたてばそんな日が必ずやってくることは確かです)、いやでもわれわれはまた争いはじめるのですから。対立し、批判し、非難しあうのですから。娯楽が人間にとってのオマケであるのだとすれば、争いもまた、余裕のある人間がかならずやるぜいたくな行為です。
いま、われわれにそんな余裕はない。
SF作家レイ・ブラッドベリの短篇に『トインビー・コンベクター』があります。
人類でただひとり、一度だけタイムトラベルを成功させた男は、百年後の未来が明るく希望に満ちたものになっていることを、事細かな証拠をならべて人々に知らせます。絶望的な世界に生きていた人類は男のことばを信じ、未来への希望を抱いて進みはじめる。
そして100年後、男が証言したとおりの幸福な世界が実現している。100才をはるかに超えて生き延びた男は、たったひとり招いた若い記者に、未来についてのあの証言が、じつはぜんぶ嘘だったことを告白して死んでゆく・・・
ハッタリでもいい。希望のあたたかみをちょっとでも感じさせてくれる未来予想図を、みんないっしょにこころに抱きしめることが、いまわたしたちに必要なことかもしれない。
そうして、一歩でも半歩でもふみだしてゆければ。わたしはそう祈ります。
じつは、だいぶ前から、バンコクに住むタイ人の親友M嬢(ノリさんのライブにいつもつきあってくれた友)が、デーブのツイートを時々メールしてくれていました。M嬢の得意技もダジャレなので、日本に住んでいたころから彼女にはデーブが「師匠」でした(笑)
彼女からのメールがくるたび、ほっと息をつくことができ、親友の心遣いがありがたく、デーブのくだらないダジャレに笑いながら涙が出ました。
タイのあるインターネット電話の会社では、今月末まで日本への通話を無料にするサービスをしているそうで、このあいだもM嬢が電話をくれました。10年以上日本に住んだ彼女にとっても、今回の震災は心ゆさぶられる苦しいできごとです。
いまの状況について語り合いながら、おたがいの近況の話にもなり、世間話もしました。
そのうち、彼女とのあいだでしか通じない思いっきりくだらない話でもりあがり。
「なんか、わたしら、すっごいくだらない話してるねえ」と笑いあったとき、わたしは心の底からM嬢に感謝しました。
震災の当事者でなく、西日本在住の自分だから、デーブのツイッターやら親友との会話やらでほっとすることができる。でも、被災したたくさんの人々にとって、そんな場も、余裕も、いまはまだないというのは、悲しいけれども、事実なのだろうと想像します。
16年前に神戸で震災を体験した中年女性が「いまは、あんまりがんばれがんばれ言うても、しんどいだけやろうしねえ・・・ゆっくりさしてあげたいねえ」と穏やかにインタビューに答えているのを、このあいだテレビで見ました。ものすごく説得力ある言葉でした。
概して、関西ローカルの報道・情報番組の東日本大震災のつたえかたは、非常におちついています。淡々と、でも本当に実効性のある対策を、ここ関西から考え、発信していこうとしています。それはやっぱり、わずか16年前に震災の当事者になったからこその落ちつきであり、現実主義です。
芝居がかった過剰なリアクションはせず、常にメディアのありかたを客観的に問い直しながら、いまは批判合戦をしている時ではないというスタンスをくずさず、徐々に通常放送にもどしていこうとしている。
いま、一部では、いろんな争いや対立や非難も起きているようです。
はっきり言って、関東と関西で温度差があるのも確かでしょう。
そして、それは当然のことだとも思う。停電、原発、余震で、関東に住む多くの人々が漠然とした不安感におおわれてしまっているのだから、疑心暗鬼になったり、ピリピリして誰かを責めたくなったりするのも、あたりまえのことだと思う。関西にいてさえ、たくさんの人が不安や罪の意識をかかえているんですから。
一刻もはやくこの不安な状態からぬけだしたい、という切実な思いが、争いや非難、あるいは逆に過剰な「がんばれ」コールにつながっているのかもしれない。それはある程度しかたのないことです。
わたし自身、冷静に考えているつもりでいて、実はパニックになっています。
何をどう考えればいいのか、何が正しいのかわからず、混乱しています。
でも、すくなくとも、自分がパニックを起こしているんだ、恐がっているんだと自覚した時点から、すこし前向きに考えられるようになった気がする。
いまできることは、自分達がパニックになっている、混乱しているんだ、という現状だけでも、せめてすなおに認めることしかないのかもしれません。
対立しているようにみえる相手も、実は自分と同じように恐くてたまらないんだ、ってことを、認めるしかない。
そこに共通の基盤をみつけたうえで、争ってる場合じゃない、ってことを、認識しなくてはいけない。
とりわけ、子どもたちのために。
被災地の子どもたちの笑顔や、まじめさに、大人が逆にはげまされている。それは事実です。でも、あの子どもたちは、きっと相当無理をしているはずです。大人がうちのめされているすがたを見て、わがままを言ってはいけないと、子どもたちは本能的に気を遣っているんじゃないかと思う。
人目もはばからず号泣する大人の映像はよく見ますが、泣いている子どもの映像をあまり見ません。
もしかしたらそれは、被災地にかぎらず、日本中のたくさんの子どももそうかもしれない。
連日連夜の悲惨な報道が、子どものこころにどれだけ衝撃的か。
子どもはすなおに「つらい」と言わないものです。だから、ためこんでしまう。
子どもの笑顔にほっとさせてもらうだけでなく、わたしたち大人が、子どもを守ってゆくことも考えたいと思う。
何やらもめている一部のスポーツ界も、不毛な対立をくりひろげることが子どもたちのこころに与える悪影響のことをかんがえてほしかった。
芸術家も、芸人も、政治家も、普通の人々も、いま傷ついている子どもたちを癒し守り育てていくために、智恵をだしあい、力を合わせなければいけない。
いつか被災地が落ちつき、原発問題が解決し、復興が本格的にはじまれば(そして、1年ほどたてばそんな日が必ずやってくることは確かです)、いやでもわれわれはまた争いはじめるのですから。対立し、批判し、非難しあうのですから。娯楽が人間にとってのオマケであるのだとすれば、争いもまた、余裕のある人間がかならずやるぜいたくな行為です。
いま、われわれにそんな余裕はない。
SF作家レイ・ブラッドベリの短篇に『トインビー・コンベクター』があります。
人類でただひとり、一度だけタイムトラベルを成功させた男は、百年後の未来が明るく希望に満ちたものになっていることを、事細かな証拠をならべて人々に知らせます。絶望的な世界に生きていた人類は男のことばを信じ、未来への希望を抱いて進みはじめる。
そして100年後、男が証言したとおりの幸福な世界が実現している。100才をはるかに超えて生き延びた男は、たったひとり招いた若い記者に、未来についてのあの証言が、じつはぜんぶ嘘だったことを告白して死んでゆく・・・
ハッタリでもいい。希望のあたたかみをちょっとでも感じさせてくれる未来予想図を、みんないっしょにこころに抱きしめることが、いまわたしたちに必要なことかもしれない。
そうして、一歩でも半歩でもふみだしてゆければ。わたしはそう祈ります。
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