とんねるず主義+

クラシック喜劇研究家/バディ映画愛好家/ライターの いいをじゅんこのブログ 

『ディーン&ミー』 第2章(1)

2012年02月29日 20時56分39秒 | 『ディーン&ミー』翻訳出版企画



第2章


 1946年夏のアトランティックシティは、いまとはずいぶんちがう顔をもつ町だった。
「ザ・バリー」や「トランプ・タージマハル」といった巨大カジノはまだ存在せず、賭博は合法化されていなかった。いまのように娯楽が屋内のものとなってしまう以前には、海岸沿いのボードウォークの辺りは、にぎやかで人でごったがえしていて、お祭り気分にあふれていた。手回しオルガンの音と、楽しそうな子どもたちのはしゃぎ声。潮風の匂い。丸パンにサラダ菜をそえたほくほくのバターコーンの香り。もちろん、大人向けのお楽しみも・・・かつてのラスヴェガス同様、当時のアトランティックシティも、マフィアのかくれみのだった。いちばん近い大都市であるフィラデルフィアの影響を強く受けていた。

 ボール・ダマートは、粗忽だが心根の良い男だった(みんな彼をスキニー [やせっぽち] と呼んでいた。十代の頃についたあだなで、年をとって太鼓腹になってもまだそれを名乗っていた)。スキニーは商売を通じて町の有力者の信頼を得ていた。いわゆる “ギャング” とも通じているともっぱらの噂だったが、誰も確かなところは知らなかった。それがスキニーの謎のひとつだった。彼は決して真相を明かさなかったのだ。もっとも、テイラーメイドのスーツや、パリ製のシルクのネクタイ、特注の高級な靴などを見れば、およその見当はついたのだが。フィラデルフィアの “友だち” からちょっとした支援を受けて、ビジネス・パートナーであるアーヴィン・“ウォルフィ”・ウルフといっしょにスキニーはアトランティックシティ最大のナイトクラブを経営していた。ボードウォークから数ブロック上った南ミズーリ通り沿いに、黄色いレンガ造りの正面玄関と劇場風の張り出し看板を持つ店がある。看板には「500カフェ」とあったが、一般には「500クラブ」とか、短く「ファイブス」と呼ばれていた。
 店内には、60のテーブルとゼブラ柄のバー・スツールがならび、煙草の紫煙がたえまなくゆらめいていた。店の奥には、売り上げが帳簿につかない秘密のカジノがあった。最高のナイトクラブだ。1946年7月に、アブナー・グレシュナーが週給150ドルで僕をブッキングしたのは、この「ファイブス」だった。僕の他には、胸の大きさとブロンドの髪が売りの芸人ジェイン・マナーズがいた。ちょっとしたジョークを言い、ちょっとした歌を歌い、たいていは騒ぎを起こしてゴシップ誌をにぎわせていた。長い下積み生活を送っているジャック・ランデールというテノール歌手もいた。

 週給150ドル!たいした金額にはきこえないだろうが、僕がそれまで稼いでいた給料の5割増だった。1946年の1ドルは、いまで言えばおよそ10ドルにあたる。だから週給150ドルなら、故郷に残した妻ともうすぐ1才になる息子のゲイリーを夏の休暇に呼んでやれるのだ。もっとも、泊まるのは、プリンセスホテルという安宿の、一晩12ドルの部屋なのだが。このホテルはボードウォークから近かった。当時の僕ら一家には、それでも天国みたいだったのだ。
 だが、天国にもトラブルはつきものだ。スキニーは、500クラブのすべてを管理せずにはいられない性分だった。スコッチを水で割る正確な割合から、ジェイン・マナーズが着るガウンの胸の開き具合にいたるまで。そして、スキニーは歌手のジャック・ランデールを心底嫌っていた。
「あんなタマネギ野郎を雇うなんて、オレは何を考えてたんだ」
と、スキニーは言った。
「まるでタマがジッパーにはさまったみたいな歌い方だぜ」
 スキニーは、僕の芸もさほど気に入ってはいなかった。
「坊主、ネタ切れみたいだな」
 30人ほどの客からのお義理の拍手に送られてステージからハケた僕に、スキニーが言った。
「あと2つくらいネタを増やして、20分にひきのばせるか、やってみろ」
 僕のあとにステージに上がったランデールを、舞台袖から観ているスキニーの顔は、険しかった。


 大西洋沖の濃い霧が町に流れこんできた、ある涼しい7月の朝のことだ。ジャック・ランデールが、喉頭炎にかかった。
 スキニーは躍りあがってよろこんだ。だが一方で、3人の出演者のうちのひとりを欠いてしまうという困った事態になった。スキニーがウォルフィに愚痴っているのが聞こえた。僕はいつもの甲高い声で口をはさまずにいられなかった。
「あの、ダマートさん、ウルフさん、さしでがましいようですけど、ディーン・マーティンなんてどうです?」
 スキニーは乗ってこなかった。
「またクルーナーか? いいかげんにしてくれ、ランデールみたいな奴はもういらねえんだよ」
「ちがうんです、ダマートさん。ディーンはただの歌手じゃないんです。僕ら、何度もいっしょにネタをやったんです。ディーンといろいろやって、けっこうウケたんです」
 僕は必死でふたりを口説いていた、しかも急いで。理由はふたつ:まず、自分のクビが危なかった。スキニーの相棒のウォルフィ---眼光鋭く、おしだしが強く、目が合った瞬間に親指をへし折られそうな男---が、僕の芸を嫌っていたからだ。もっとも、スキニーだってさほど気に入ってたわけじゃないが、彼は少なくとも、時たまクスリと笑うぐらいのことはしてくれた。ウォルフィは、笑わなかった。僕がかつらをかぶってステージに立っていると、棒をポキッと折るみたいに僕をへし折ってやりたい、とでもいいたげな目つきでにらみつけるのだ。
 ディーンを推薦したもうひとつの理由は、単純に、彼に会いたかったからだ。僕らが客にウケたという話は、嘘じゃなかった。ふたりで遊んだあのステージは、すごく楽しかった。芸人が楽しんでいる姿というのは、ショウビジネスではめったにお目にかかれない。普通、芸人というものは、けんめいに努力し、芸を磨くものであって、楽しむのは常に客だけだからだ。
 おそらくスキニーは僕の熱意を感じとったんだろう。1分ほど考えたあと、首をたてに振ってくれた。
「わかった、わかった。お前さんの相棒とやらを雇うことにするよ」
 と、彼は言った。
「だがな、切羽つまってるからしかたなくだぞ。イキのいいネタを見せなきゃ、どうなるかわかってるんだろうな」
 さあ、事態は本格的に動きだした。妻のパティと息子のゲイリーをニューアークへ帰さなくちゃ。女房と赤ん坊をバスに乗せた時は、まったく涙が出たよ・・・



(つづく)




1946年の「500クラブ」








1950年代のアトランティックシティ 


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出版関係者様 
ご連絡はメールeyanfire@gmail.comまでお願いします。(訳者いいを)






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