とんねるず主義+

クラシック喜劇研究家/バディ映画愛好家/ライターの いいをじゅんこのブログ 

キートンの警官騒動

2009年03月15日 16時25分54秒 | バスター・キートンと仲間
『警官騒動』
(The Cops バスター・キートン/エディ・クライン監督 1922 アメリカ)


京都で開催されている第3回チャップリン・フェスティバルへ、昨日行ってきました。
今年はチャップリン生誕120周年にあたるそうです。

日本ではおそらく100年ぶりくらいの公開となる、ヨーロッパ初期無声喜劇映画(1910年前後の作品)を観ることができたのは、非常にいい経験でした。まるで公開当時のように、ピアノによる即興生伴奏つきで観られたのが、とてもうれしかった。

で、どーしてチャップリンじゃなくってキートンの映画について書くんだ?
ってことになるわけですが・・・

4年前にはじめてバスター・キートンを観て以来、根っからキートン信者になってしまったわたしは、チャップリンについての講演などを聞きながら、やはりどーしてもチャップリンとキートンのちがいや、キートン映画の特徴などに思いをはせてしまうわけで。

『モダン・タイムス』や『独裁者』などの作品にあらわれた、<権威>にたいするチャップリンの反逆精神-----といった話を聞くにつけ、それがキートン喜劇のありかたといかに違うかということが、わたしにはとっても興味深いのです。

<権威>の象徴としての警官。
それが大群となってキートンをひたすら追っかけ、キートンはひたすら逃げる-----
1922年の短篇映画『警官騒動』です。

しかし、この映画には、あからさまな反逆精神や社会諷刺は、ほとんどない。
社会的メッセージも、テーマも、何もない。
「何もない」ということのおもしろさ、美しさだけが、ある。

年に一度の警官パレードに、たまたままぎれこんだキートン。
そこへアナーキストが爆弾を投げ込む。
たまたまたばこの火をさがしていたキートンは、たまたま手近に落ちてきた爆弾を拾って、無事たばこに火をつけたあと、爆発させる。
たまたまなりゆきで爆破犯にまちがわれるキートン。追いかける警官の大群・・・

画面いっぱい覆い尽くすほどの大勢のエキストラを使った、まさに「大群」としか言い様のない警官たちの姿は、蟻か蜂の群れのようでもあり、原子核のまわりを覆う不確定な電子の雲のようでもあり、分身の術をつかう忍者のようにも見える。

「警官」という顔のないアイデンティティが、無限に複製されるかのような・・・

そんな<権威>の大群から、ひとり彗星のごとく逃げるキートン。
黒い群れをひきつれてストリートを全速力で走るキートンの、爽快さ、美しさは、なにものに例えることもできません。

では、キートンはチャップリンの浮浪者のように権威に反抗し孤立する存在なのか?

そうでないことは、ラストシーンではっきりわかります。

逃げまくった果てにキートンは警察署に逃げ込む。
警官の群れは、まるで掃除機で吸い込まれるチリみたいに、警察署になだれをうって走り込んでゆく。
すべての警官が建物に入ったあと・・・ひとりの小柄な警官が出て来て、余裕で扉を閉め、鍵をかけて警官たちを閉じ込める。

その小柄な男は、なんとキートン。

おそらく署内にあった制服をすばやく着たのでしょう。彼は警官のふりをし、大群にまぎれてゆうゆうと外に出てこれたのです。

つまり、彼は警官の群れに<同化>したのです。

それは、キートンがチャップリンにくらべて権威主義的だという意味ではない。
そうではなくて、警官の群れはキートンにとって、キーストンコップのようにおまぬけな集団でしかなく、からかいの対象でしかない、ということだと思うのです。

なんてあざやかなドンデン返し!
このおどろくべき柔軟性!

そして、もっとおどろくべきことは、こういう理屈っぽい解釈がすべて観る側にしか存在しない、ということ。
つまりキートン自身は、そんな「効果」をねらってつくったわけでは全然ない、ということです。

キートンは、ただただ面白い映画を作ろうとした。そしてほとんど本能的に、完璧な芸術性と構造をもった、最高に笑えるコメディの傑作を作り上げたのです。

おそらくチャップリンが、確固とした思想をもって、各場面に細心にそれを織り込み、確実に、そして正確に自分の意図が観客につたわるように映画を作り上げたことと、キートンの制作姿勢とは、大きくへだたっています。

そこに、この二人の偉大な映画作家の本質があらわれていると思うのです。

チャップリンとキートンのどちらがすぐれているかを比べるのは無意味。
どちらも、すばらしいのですから。

ただ、わたしとしては、ただもう理由もなくキートンを激愛しているし、愛さずにいることのほうがむずかしい。

歴史も時代も時空をもはるかに超えて、人々を、いやいずれは異星人さえも笑わせることができるのは、キートンしかいないと、わたしは信じています。



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